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「赤ん坊ってなんであんなこの世の終わりみたいな泣き声なんだろうね」 網戸のままだった窓をぼんやりと眺めて足立さんがそう言った。ご近所さんちから赤ちゃんの泣き声が絶えず聞こえていた。「この世の終わりみたいな」という例えはなんだかすごく大袈裟な気がしたけど、成る程、確かに、これから殺されでもするのかというくらいに悲痛な泣き声がこの部屋まで聞こえてくる。ウワアンとか、ウギャアアとか、なんとも文字にするには難しい、力いっぱい泣いてる声。足立さんは大きく欠伸をすると、私に「窓閉めて。うるさい」と指示を出した。ううむ、と思う所はあったけどとりあえず従っておく。 「赤ちゃんは泣くのが仕事だっていうでしょう、足立さん」 「ふぅん。いいねぇ?時給いくらなんだろ。残業手当とか出る?」 「はあ。そうやって育児に理解のない人が全国のおかあさんを苦しめていくのです。泣いてる赤ちゃんにうるせえ黙らせろ!とか言う大人が出てくるのです。泣き止まなくて、って窒息死させちゃう親とか、ニュースでたまにあるでしょう」 「あー、大抵若い親なんだよねぇ、ああいうの。育てられないなら産まなきゃいいのに」 そう言いながら足立さんは、コップの中の麦茶を飲み干した。窓を閉め切ってしまったので暑い。空になったコップをトン、とテーブルに置いたので、すかさず私は氷と麦茶をそこに補充する。「面倒が見られないならペットは飼っちゃ駄目」って言ってるみたいに、足立さんは終始うんざり顔だった。犬猫と人間の赤ちゃんじゃいろんなことが違うと思うんだけど。 「はあ…足立さん、将来結婚したら子供欲しいとか思ったことないんですか?」 「無い無い。あるわけないよ。要らないし」 「子供嫌いなんですか?」 「好きそうに見える?」 「いえ、べつに、全然」 「だって考えてもみなよ。自分の子供、って。失敗した時のこと考えたら恐ろしいじゃない」 「失敗って?」 「んー、育て方っていうか、人格の作り方?」 つくりかた、とは。まあ、そりゃあ、人間が生まれてくるわけだから、いつまでも赤ちゃんのままで、ただ泣くだけの存在のままでいるわけじゃない。その子個人の性格やらなんやらが作られて、大人になって、それを導くのは親の仕事なわけで、(あ、また仕事って言っちゃった。時給発生しないけど)…「親の顔が見てみたいわ」みたいな悪い人間に育っちゃったら、うん、そりゃあ、言葉通り、親の責任なのかもしれない。間違えたら、恐ろしい。世間にとっての悪い人間を、自分が生成してしまったということ。うん、なるほど、確かに。足立さんはぼんやり窓の外を見ていた。私と目が合わない。 「育った環境、なんて言葉にすれば抽象的だけどさぁ、結局はある程度の歳までの親の育て方だよね。星座、干支、名前診断とか、生まれた日とか名前の画数一つが違えば性格も全然違うみたいに言うけど、あれ嘘でしょ」 「…つまり足立さんは、自分の子っていう一人の人間の人生を背負えるほどの自信とか責任能力が無いから、自分みたいなのが育てたら可哀想だから、子供は欲しくないと」 「……はあ?」 気持ちはすごく分かる。親の有り様で子供の人生が決まってしまうなら、こんな親のもとに生まれさせてごめんねという気持ちは、抱いちゃうかもしれない。だってどう頑張っても大富豪なおうちと同じ育て方はできないわけだし。与えてあげられるものは最初から制限されているのかもしれない。そうだ、うん、子供を育てるって、産むって、責任重大なわけだ。そんなすごい大切なことをまさか足立さんの口からから教わることになろうとは。うんうんうなずいて感動していたら、足立さんがむすっとした顔で私に文句を言ってきた。 「べつに僕がダメ親になるとは言ってないでしょー。まあ僕の子ならそりゃあもうデキるエリートに育て上げるね。きっと僕に似て頭が良くてカッコイイと思うよぉ?」 「……あっごめんなさい今の笑うところでした?」 「君ってたまに尋常じゃないくらいうざいよね」 はーあ、とうんざりしたような溜息をわざとらしく吐く足立さんに、遅れてあははと笑った。いつも通りの足立さんだったけれど、彼の視線が窓の向こうに移されたとき、その目は少し、なんだか、複雑そうな憂いを帯びていた。窓を閉めきっても僅かに聞こえる赤ん坊の泣き声は、相変わらず、今にも殺されるんじゃないかってくらい悲痛な声をしていた。誰に殺されるんだろう。誰を恐怖しているんだろう。 「…まぁ、そんな育て方したら、僕みたいな人間になるだけか」 「ふふ、足立さんは―、」 笑って、何かからかう文句を言おうとしたはずだった。窓の外を眺める足立さんの顔が、あんな顔じゃなかったら。 「……あの母親にとっては、俺も失敗作だろうなー…」 自嘲気味に呟かれた言葉に私は手足も口も動かなくなって、ただただ耳の奥で響く赤ん坊の泣き声を聞いていた。あだちさん、と声を出そうとするのにうまく口が動かない。しんしんと私達の間に沈黙が積もっていく。ようやく足立さんが窓の外から視線をこちらに移したときには、いつも通りの足立さんの表情だった。けろっとした顔。 「どしたの?何その顔」 「…え、あ…いえ、あは…変な顔してました?」 「うん。死にそうな顔」 「は…」 「あーっとごめん間違えた。泣きそうな顔」 死にそうな顔なのは貴方じゃないか。私は足立さんの言葉に促されるようにじわじわ泣きたくなって、でもそれがなんの涙なのか、誰のための涙なのか、全くわからなかった。無性に悔しくなって、足立さんにふいっと背中を向ける。なーに、どうしたの、と声が背中に投げられる。私だってどうしたのか分からない。どうしたらいいのか分からない。 「あ、だちさん、わたしは、足立さんのことすきですから」 「えー?照れるなぁ〜」 「…わたしも、子どもとか、いらないですから。あだちさんの相手するだけで、手一杯ですから!」 「あ、そう?奇遇だね。僕もそう思った。君って赤ん坊より手ェかかるし」 「でも、だけど、わたし、あだちさんとの子どもなら、いいなって、勝手に、おもってますし…」 「えぇ?子作り?したいってこと?大胆だねぇ」 「…まちがえないし、失敗しないし、いっぱい愛すし、泣いてもいいし、ころさないし、私は、いっぱい、」 「ちゃん」 「う、なんですかっ」 「泣くと可愛くないよね」 「うるさいですよ!」 「嘘だよ」 きぃ!っと振り返って睨んだら、足立さんがへらりと笑った。「赤ちゃんの泣き声より可愛い」と。ばかじゃないのかと思った。窓の向こうからもう子どもの泣き声は聞こえない。ああ私も泣きやまなくっちゃ。鼻水がとまらない。足立さんは失敗作なんかじゃないです、って言えたらいいのに、言ってしまったら何様だお前と自己嫌悪しそうだった。足立さんの子供時代なんか知らない。家庭環境なんか知らない。だけど彼が彼であることをやめないでほしいと思った。私は、産まれてくるかもしれなかった命を彼が「欲しくない」と拒むことなんかより、ずっと、寂しいことがあるよ。 |