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・ ・ 「…だちさん、足立さん」 「へっ?」 誰かに揺り起こされて、間抜けな声を上げてがばっと体を起こす。僕を揺すっていた犯人は、どうやらそんな僕を見て「あ、起きた」と口にした人物らしい。髪色と同じグレイの瞳が、僕を覗いていた。あれ、なんだ、今、何時?どこ?ここ。上手く思考がまとまらない頭を押さえて、きょろきょろ周囲を見回す。テーブルの上にごろごろ転がされた酒の缶と、ソファーでぐーぐーいびきをかいてる堂島さんを見て、ああ、と納得が行った。なるほど、なるほど。寝てたわけね、僕。飲みつぶれて。 「いやーごめんごめん。うっかり飲み過ぎちゃったなあ〜…僕どんくらい寝てた?」 「堂島さんが寝てからすぐ。確かに結構な量飲んでましたね。泊まっていくなら俺、布団持ってきますけど…」 「えぇ?あー、なに?もうそんな遅い時間?」 「足立さん、お泊りなの?菜々子、もう寝ちゃうけど…」 パジャマ姿の菜々子ちゃんが、目を擦りながら堂島さんの甥っ子くんの後ろから顔を出した。菜々子ちゃんがまだ寝てない時間…いや、今から寝るっていう時間なら…まあ、特別遅くもなく、早い時間でもないんだろう。今日は早く上がれたから、って堂島さんの家で夕飯ごちそうになって、酒も入って、そんで…えー、あんまり覚えてないな。あの時点で何時くらいだったんだ?こめかみ押さえて溜息吐く僕に、甥っ子くんは苦く笑った。 「何か嫌なことでもあったんですか?」 「へ?なんで?」 「叔父さんに付き合ってどんどん飲んでましたけど、その飲みっぷりがなんか…やけ酒っぽかったから」 「あー…あはは。いやあ、まあ、ねえ?大したことじゃないんだけどさー…」 ああ、そう言われるとなんか、思い出してきた。思い出しちゃったじゃん。「嫌なこと」をさ。僕はガリガリ頭の後ろを掻いて、今日起こった「嫌なこと」を…いや、今日起こったっていうか、今日判明したことっていうか…ともかくそれを、思い返した。悠くんどころか、菜々子ちゃんまで一緒になって僕の言葉に耳を傾けるものだから、微妙に恥ずかしいというか、情けない気持ちになったけど。 「高校の頃の同級生の女の子がさ…結婚したっていうのを、風の便りで聞いたんだよね」 「…それは…おめでとうございます」 「ね。おめでとう〜…って、伝えてないんだけどさ」 「なんで?おめでとうって言わないの?足立さん」 「…んー…ん〜…なんでだろうねえ?」 「もしかして、好きだったんですか?その人のこと」 直球で言うなあ、こいつ。はは、と曖昧に笑って、その笑いを、はー…と溜息に変えた。「いや、べつにそういうんじゃないんだけどさ」僕はだらしなく床に足を投げ出しながら、天井を見上げて遠い目をしてみせる。「全然、僕の好みじゃなかったし」うん、そうだ。全然好みじゃなかった。顔も性格も。意識する対象じゃないから、逆になんか喋りやすい相手だったのかもしれないけど。僕とあの子はただの「同級生」ってだけで、それ以上の何かじゃなかったし。菜々子ちゃんがちょっと心配そうに僕を見て、ふいに、「あっ!」と何かに気付いたような声を上げた。僕と悠くんがそっちを見ると、菜々子ちゃんはぱたぱた台所に向かって、いつもお菓子が収納してあるらしい戸棚を開けて、何かを手にして僕の方へ戻ってくる。そして、「足立さん、これあげる!」と僕の手に何かを握らせた。そっと手を開いた時、乗せられているものに思わず笑いが零れた。へえ、これ、まだ売ってるんだねえ。 「菜々子、この飴だいすきなんだ。食べると、おいしくて、すっごく元気になれるよ!足立さんにもあげるね」 「優しいな、菜々子」 「あはは…ありがと、菜々子ちゃん」 「えへへ。だから、元気だしてね!足立さん」 じゃあ菜々子寝るね、おやすみなさい。そうお行儀よくご挨拶して寝室へ向かう菜々子ちゃん。それを見送ってから、手元の飴玉に視線を落とした。可愛らしい包み紙。もう10年くらい経つのにな。包装、リニューアルとかされてないんだな。愛されて十何年、とかの商品なのかな。ぼんやり考えてたら、悠くんが僕の方をじっと見てることに気付いた。なに、と目だけで聞いたら、ふっと微笑まれる。変に大人びてて、そういうとこが憎たらしい。 「足立さんが学生時代の恋バナしてくれるなんて珍しいなって」 「いや、だからべつにね?僕が好きだったーってわけじゃないんだよ?っていうかさあ、むしろ多分、向こうが僕のこと好きだったと思うんだよねえ。やけに僕には馴れ馴れしくってさ、誕生日も覚えてて、普通好きじゃない相手の誕生日なんか覚えないじゃない?」 「はは、そうですね」 「あ、何その笑い方。僕はね、負け惜しみで言ってるわけじゃないから。いや、なんか負け惜しみっぽく聞こえちゃうかもしれないけどさ?結局、しょせんは学生時代の一時の感情だったんだなーって。なーんか悲しいよねえ」 「そういうものですか」 「そうだよ。君は現役男子高校生だから分かんないだろうけど。…うわ、改めて考えたら僕恥ずかしいね?何が楽しくていい大人が高校生とこんな話してるんだろ」 「いいと思いますよ」 「何が?」 「今日くらい、学生に戻った気分で」 テーブルの上に転がっていた空っぽの酒の缶を、悠くんが隅っこへ追いやる。そして空っぽのコップを僕と、自分の前に置いて、順番に麦茶を注いだ。今日くらい、学生気分で…、か。そんなの、思い出せないな。べつにいいものだったとも思ってないな。けどまあ、今の自分よりはもう少し、マシだったのかな。あの頃は、まだ、世の中の汚い部分を目の当たりにしてなかったかな。知らなかったかな。やけになって飲む酒の味も、上司の煙草の匂いも、まだ知らないくらいの子供だった。――あの子への気持ちに、素直になれないくらいの、子供だった。 「いいかもね。たまには」 「じゃあ、俺と同じ高校二年生の設定で行きます?」 「あー、だめだめ。僕はね、高校三年生」 「三年?じゃあ先輩ですね」 「そうだよ。高校三年の、2月1日」 巻き戻すならそこがいい。戻れるものならそれがいい。あの日の放課後、図書室で。僕はコップの中の麦茶を飲み干して、頬杖付いた。目を瞑れば、脳裏に浮かぶような気さえしたんだ。机を挟んで、向かい側に座って、綺麗な字でノートを埋めていくあの子の姿が。だけどそんなのやっぱり気のせい。10年近く経った今じゃ、あの子の書く文字も、声も、顔も、都合の良い思い出補正で捻じ曲げられているような気しかしない。僕は小さく笑って、さっき貰った飴玉を、指先でつんと突いた。 あのときもっと君と話しとけばよかったな。ちゃんと好きだって思えばよかったな。付き合っとけばよかったな。 ねえ、ほら、少し勿体無かったよね。君も同じ気持ちだったらいい。相変わらずだな、馬鹿だな、って笑ってあげるから、君も俺のことを笑ってよ。 |