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そのドアを開けるのを一瞬躊躇した。インターホンに指を伸ばす気にならなくて、指を伸ばした先は冷たいドアノブだった。軽くひねるべきか遠慮なくひねるべきかも迷った。ひねった時に鍵が開いていなかったのなら、開いてなかったからという理由で帰ろうと思った。あるいはもし鍵が開いているのならそうっと中の様子を窺って、場合によってはそれだけ確認して帰ってしまおうと思った。結論から言うと帰りたかった。どうにかして帰りたかった。結局は意を決して遠慮なくドアを捻って、鍵はかかっていなかったため、普通に勢いよくドアを開けただけになった。廊下の向こうから声がした。 「あ、来た来た。待ってたよー、悠くん」 やってきた相手を鳴上悠だと信じて疑わない声は、入口の方に顔を出すこともなく、奥の部屋からそう言った。俺は後ろ手にドアを閉めて小さく溜息を吐いて、だけどすぐ靴を脱ぐ前に扉を振り返った。鍵は上と下で二つ。迷ったのはほんの一瞬。何かに急かされるように、俺は慌ててその鍵を閉めた。ドアスコープを覗く。大丈夫、誰もいない。ついてきていない。誰も俺を、この家を、そしてその家主を、疑ってなんていない。胸を撫でおろして振り向いたら、いつのまにやってきたのか、すぐそこに、あのひとが立っていた。びくっと心臓が跳ねて、後ずさった。背中が硬いドアにぶつかる。鍵をかけたのは俺だ。逃げられないように俺を閉じ込めたのは俺だ。馬鹿みたいに驚いている俺を、そのひとはわらった。 「びびりすぎでしょー、何やってんの」 「……、…さん」 「あ、鍵かけちゃった?べつにいいのに。すぐ彼も来るよ?」 「…鍵は、」 「うん?」 「………かけた方がいいですよ。危ないじゃないですか、さん、一人暮らしだし、もっと…」 「誰に見られてるか分からないから?」 息をのんで沈黙した俺に、さんはぷっと噴き出す。いつものようにからかう、大人の余裕。けれど俺は、一緒になって笑う事なんかできなかった。どうしてこの人がおかしそうに笑うのかもわからなかった。 「あのねえ、何度も言うけどびびりすぎ。ここは私の家なんだよー?」 「…」 「殺人犯とその共犯者の隠れ家じゃなくて、さ」 あはっ、と女性らしい高い声で笑うと、くるりと背を向けて奥の部屋へ向かう。俺はといえば、彼女の言葉を引き金に、どくどくとうるさく鳴り出した心臓を押さえつけるのに必死だった。深く息を吸う。吐く息が震える。ぐ、と拳を握ってから、やっとの思いで玄関を後にした。 「でも良かったー、悠くんがすぐ来てくれて。電話無視されたらどうしようかと思った。この間、彼、愚痴ってたよ?『悠くんてば僕の電話何かと理由つけて出られない振りするんだよー。君がかける電話の方がすぐ出るんだから!』って言ってた。本当?」 「…あの人の電話にだってちゃんと出ますよ。その場で出られなかったら後でかけ直しますし」 「ま、そうだよねえ。出なかったら後が怖いもんね。なんだっけ?『この番号鳴ったら出なよ』って脅されたんだっけ?あはは!」 俺には全然楽しくない話なのに、彼女は笑う。通された部屋の隅に自分の荷物を置いてから、部屋の中央のテーブルを見た。膨らんだ買い物袋がどんと置いてあった。初めてこの部屋に来たわけじゃない。「あの日」以来、俺は何度かここに訪れた。その時は決まって三人だ。俺と、さんと、もう一人。仲の良い年上の友人ふたり。自分は年上に可愛がってもらっている高校生。そう見えるだろうか。そう見えているだろうか。道ですれ違う人たちに、この家の近所の人たちに、堂島さんに、陽介たちに。本当はそんな言葉では片付かない関係の三人だ。彼女の先ほどの言葉を思い出す。なんの遠慮もない、ストレートな表現。「殺人犯とその共犯者」そんな、関係。 キッチンからさんが、「コーヒーと紅茶どっちがいい?」と訊いた。自分でもなんて答えたか分からない曖昧な返事に、やがてコーヒーが運ばれてくる。湯気の立つマグカップ。堂島家の台所の食器棚にしまわれたまま、最近使われていない菜々子のカップが脳裏に浮かんだ。俺のカップは何色だったっけ。 「…今日の呼び出しは、何の話なんですか」 「ん?」 「特捜隊のことだったら、この前話した通りですよ」 「ああ…探偵ごっこ終わったんだっけ?特捜隊?解体されちゃったんです?」 直斗はまだ一人で捜査を続けているのかもしれない。けれど、それ以外の仲間たちはもう、あの事件の話をしなくなった。何故か?リーダーだった俺が、完全に捜査を打ち切ったから。考えることを放棄した。真相は闇の中だ。霧の中だ。もう、そうとしか答えが出ない。行き止まり。そう結論を出した俺を、彼らは複雑そうな顔で眺めるだけ。事件のことを忘れて、普通の学校生活を送る。ただそれだけ。ごくごく普通の高校生に戻っただけだというのに、俺達はどこか、ぎくしゃくしていた。胸を覆う靄を払えない。無理に笑う。無理に仲良く過ごす。そんな日々だ。 自分の選択を間違いにしたくなかった。それでも、どこかで何かを間違えたような気持ちを、ずっと抱えている。 「まあ、悠くんが悪いわけじゃないでしょ」 「……さんも、人を慰めること出来たんですね」 「だって悪いのは足立透なんだから」 自分の分はコーヒーじゃなくて紅茶だったのだろう。さんのマグカップの中の液体は、自分の目の前に置かれた濃い色の液体よりも綺麗な色をしていた。それでも、彼女のこういうときの言葉には、自分には無い、そして足立さんにも出せない、どす黒さがある。冷えた声。それでも口元は少し笑っている。目は笑っていないけど。俺はさんのそんな表情から目を逸らして、マグカップの中の液体をじっと睨んだ。 俺はこの人がわからない。「足立透」のことだって、分かってあげたいと思いながら、きっと分かってあげられない。負けないくらい、「」のことが分からない。 「っていうーかー!あのね、今日の呼び出しはべつにそういう方面の話じゃないから!」 「……はあ」 「今日何の日か知ってた?」 「え…?」 「なんと!足立透くんの〜!誕生日です!」 え。本当、その一文字だけ口にして固まってしまった。予想外だ。今日が足立さんの誕生日だということに驚いたのではなくて、その事実をこの部屋で、さんが口にするというこの現実に、脳がついていかない。さんがテーブルの上に置かれた袋を開けた。今までも、夕飯を食べていく流れになって三人で食事することはあった。(本当にただの仲の良い年の離れた友人の集まりみたいに過ごしていた。会話だってふつう。そのしらじらしさが少し恐ろしく思えた)けど袋から出てきた食料品の量はいつもより少し多めで、それらに混ざって袋から転がり落ちたのは100円ショップに売っているようなクラッカーで、本当にこの人が足立さんの誕生日を祝う気があるのだと思わされた。 「何へんな顔してるのさ。誕生日だよ、誕生日!祝ってあげるもんじゃないの〜?」 「…さんも、人の誕生日祝うことあるんですね…」 「あはっ!だって私たちが祝ってあげないと他に誰も祝う人いないじゃない?あんな人間」 「……さんって…」 「おっかしいよねー。殺人鬼の誕生日祝うって。ふふ。あれが生まれて来なければ死なないで済んだ命があったのに」 「…」 「私たちが祝うしかないんだよー。私たちにしかできないんだからさー」 「…さん、」 あ、しまった、と思ったときには手遅れだ。ふふ、と笑いながら、さんは鼻歌をうたうように、たまにこうやって「壊れる」ことがある。言い聞かせるように何度も言う。私達しか。私たちはそうしなくちゃいけない。わたしたちにしかできない。その呟きを聞いていると俺までおかしくなりそうになる。俺達にしかできない、俺たちはそうしなくちゃいけない。だって俺たちは、――共犯者、だから。あのひとの。 首を振って、仄暗い誰かの声を振り払う。少しぬるくなったコーヒーを一気に喉の奥へ流し込む。「さん、紅茶、冷めますよ」あなたも飲んでくれ頼むから、と暗に促すと、きょとんと顔をこちらに向けたさんが、一瞬の沈黙の後へらっと笑って、自分の紅茶に口をつけた。 「……さんは、どうして」 紅茶を飲んでいるときは大人しい。さんは丸い瞳をこちらに向けて、カップから唇を離さない。 「どうして、あの人の共犯者になったんですか」 俺とさんじゃ、事情が違った。彼女は、ペルソナの能力のことやテレビの向こうのことなんてよく理解しないままに、春に起きた殺人事件の、証拠隠滅の手助けをしていた。アリバイの協力。犯人が警察というこの厄介な事件で、警察関係者の中に協力者がいるなんてさらに厄介で最悪だ。直斗の独自の捜査も、それが理由で難航するだろう。「共犯者」がもう一人いる、とあの日足立さんに紹介されたときは絶句した。堂島さんからも話を聞いていて何度も顔を合わせていたその人が、俺に笑いかけたのだ。「こんにちは、共犯者さん」なんて、いつもの調子の挨拶で。 偶然犯人を知って、脅されているのか。自分から協力を持ち掛けたのか。分からない。そこらへんの話は、あまり詳しく話してくれなかった。ただ、時折彼女が口にする足立さんへの言葉は、呪うような、憎むような色が見えるのは確かで。かと思えば、突然、誕生日を祝ってあげようなんて言い出す。この人の考えが分からない。 さんが、俺の言葉に笑う。 「そんなの、悠くんと同じ理由だと思うよ」 「同じ?」 「力になれたらと思ったの。救えたらと思ったの。あんな人間でも救われていいはずだと思っちゃったの」 言葉を失った。ペルソナのこともテレビの中の世界のこともシャドウのことも知らないさんと自分じゃ「同じ」なはずがないと思ったのに、さんの言葉を聞いて、確かに、ただひとこと、「俺と同じだ」と思った。けれどすぐにさんは、「馬鹿だよねえ」と続けた。その「馬鹿」は、足立さんに向けたものじゃなかった。自分自身に向けられたものだったのだろう。自嘲するように吐き捨てた。「自惚れてただけでしょうね」吐くたびに自分を呪いそうな声。けれどその声に呪われるべきは彼女一人ではなくて、俺だって「同じ」なんだから、俺だって、一緒に、その言葉に傷つかなくてはいけない。 「…さん」 「うん?」 「料理、手伝います。いろいろ買ったみたいですけど、何か手作りのものあったほうがいいでしょう?」 「あ。ほんとう?助かる」 「誕生日にごちそうが無かったら可哀想ですから」 「うん。気合入れて作っちゃおう!」 「はい」 「そんでびっくりさせちゃおう〜!」 「クラッカーもあるみたいですし」 「そう!買ったの!きっとびっくりするよ〜?むしろびっくりしすぎてうるさい!って怒るかも」 いたずらをしかける子供のようにさんが無邪気に笑う。こういうサプライズは、そう、たしかに子供のいたずらみたいだ。そして俺とさんはそのいたずらを仕掛ける仲間。…ああ、「共犯者」だ。 立ち上がってキッチンへ向かおうとした俺を、ねえねえ、とさんの声が引き留める。見れば、手にはひとつクラッカーを持っていた。 「悠くんは、三月に都会に逃げ帰るんでしょ?」 「……、…」 「あ、怒ってないよ」 「…帰りますよ。最初から、この町に居るのは一年だけって話だったんです」 逃げるわけじゃない。けれど、…逃げることになるんだろう。さんの丸い瞳が俺を見つめる。この人は逃げないんだろうか。どこか遠くに、足立さんから、逃げたりしないんだろうか。裏切って、誰かに話すことはないんだろうか。今更できないのか。俺と同じで。足立さんを裏切ることも、仲間に自分の裏切りを白状するのも、今の自分は選べなかった。きっとそのまま三月を迎えれば、両方から遠ざかることを選ぶんだろう。――それでも、ポケットの中の携帯電話が震えれば、あの番号じゃないか、って、身を震わせるんだろう。「見ているからな」というあの人の監視の目を、肌に感じるのだろう。 「それでいいんだよ、悠くん。君は若いし、賢いし、人柄も良い。今日玄関の鍵を慌てて閉めてるの見て、思った。君、これからも少しびくびくしちゃうかもしれないじゃない?犯罪の片棒を担ぐってそういうことだよね。まともな精神じゃいられないよ。でも君は、こんなことで人生めちゃくちゃにされちゃだめだよ。こんな町で起きた事件や死んだ人間なんて忘れて、まっとうに生きて幸せになりなさい」 この場におそろしく相応しくない台詞に、俺は目をまたたく。耳を疑った。「あの人がそれを許さないだろう、って思う?大丈夫だよ。私がどうにかするから」 「どうにか、って…」 「…ま!春までの辛抱ってことよ!君のこんな共犯者ライフも!今日はとりあえず誕生日を祝おう!」 ぱあん、と響く乾いた音。どうしてこのタイミングで無駄撃ちするかな。破裂したクラッカーは中身を床にばらまいて、役目を終えただのゴミとなって転がった。「使うのまだ早いですよ」とため息を吐いたら、さんは笑って「まだ何個かあるから大丈夫」と言った。彼女の言うことはいつだって適当で突拍子無くて脈絡もなくて無責任だ。…いつからだろうか?最初から、出会った時から、この人はこんなに螺子の外れた人間だっただろうか。さっき彼女はまともな精神じゃいられないといった。足立さんの共犯者となることで人生をめちゃくちゃにされたのは俺じゃなくて、彼女本人じゃないか。 ふいに、がちゃがちゃ、と玄関から音がした。反射的にびくりと縮み上がった俺に、さんが笑う。鍵をあけといて待ってるだろうと思ったあの人が、遠慮なしにドアノブを捻った音だったらしい。 「あーあ、今日に限って来るのはっやいなあ。料理まだ出来てないっていうのに」 「…でも出迎えてあげないと可哀想ですよ」 「そうだね。さむいし。あ!私さ、こっちに隠れてるからさ、悠くんドア開けてきてくれない?そんで、あの人が先に部屋入る様に誘導して!入ってきたら私が彼に向かってコレ、引くから!」 もう一個クラッカーを袋から取り出して、紐を引く動作をしてみせるさん。俺が肩を竦めるのと、ぴんぽーん、がちゃんがちゃん、と玄関からしびれを切らしたような音が響くのは同時だった。ひとのこと呼んでおいて出迎えが遅いんだよ、とイライラしているかもしれない。わかりましたよ、と返事をして、俺は玄関に向かった。胸を高鳴らせながら、クラッカーの紐を握りしめて扉の近くに隠れるさんは、本当、いたずら好きの子供のようだった。そして俺はそのいたずらの共犯者。出迎える相手は、俺達の人生を狂わせた張本人。殺人事件の真犯人。 そういえば、クラッカーのあの破裂音は、少し、銃声に似ている。それをどんな気持ちで彼に向けるのだろう。どんな気持ちで、彼の心臓を脅かすのだろう。 ああそういえば、祝うという字は呪うに似ている。ああ、そうだ、そういえば、「ねえ悠くん」 (俺達しかあの人の罪を知らない。俺達しか祝えない。俺たちが呪うしかない。俺たちにしかできない。俺たちがやるしかない) (こんな町で死んだ人間なんて忘れなさい) (私がどうにかするから) 「救われてほしいと思ったことは間違いじゃないよね。救いたかったのは、本当だよね。でもさ、きっと、本当に救いたいのなら、こんな選択は間違いだったんだよね。本当に救いたかったなら、こんな道選んじゃいけなかったんだよね。本当、間違えちゃったなあ」 彼女の呟きは声が小さくて聞こえなかった。聞き取れなかった。俺は聞こえていない振りをしていた。彼女が持っていたのはクラッカーだ。大丈夫。もしも数分後に聞こえるのがこの閑静な町に相応しくない銃声のような音だったとしても、彼女が彼の心臓に向かってその引鉄を引いたとしても、大丈夫、大丈夫なはずなんだ。ああ、それでも、「…救えなくて、ごめんなさい」 |