携帯電話を開いてすぐにチェックできる簡易的な天気予報を眺めて、彼女はそう声をあげた。布団の中。電気はまだ消していない。
「へー。そうなんだ」
特になんとも思わなかった自分は平坦な返事しかしなかった。すかさず、にゅっと目の前に携帯を突き出される。「ほら見て!」と言わんばかりに。鼻先に迫ったそのディスプレイを見てみれば、まあ、たしかに?晴れマークと最高気温、最低気温が表示されていて、この時期にしては低くない数字だった。もう一度、「へー」とだけ口にする。へー、そうなんだ、以外の言葉が特に出てこない。
「困った」
「はあ。なんで?」
「この間買ったもっこもこの可愛いピンクの超あったかコートを着ようと思ってたのに」
「アハハ、あ~アレ?ホントに買ったんだ」
買うか迷っている段階で一度ネットショッピングの画面を見せられたことがある。ちょうどさっきみたいに、鼻先にずいっと携帯を突き付けてこられて。なんというかまあ、"可愛らしい"女性モデルが着こなしていたそれ。モコモコあったかドピンクコート。
こちらのちょっと鼻で笑うような言い方に、相手はムッとわかりやすく眉を顰めた。いやあ?べつにい?他意はないけど。まだ自分の口の端が意地悪くひん曲がっていたのか、すぐに文句が飛んでくる。
「ネットで見たときとちょっと色違ってたし」
「あー、そう?ちょっとは落ち着いたピンクだった?」
「何が言いたいんです?」
「いやぁ、ほら。お互いにさ?歳相応の振る舞いっていうかさ、そういうの考える歳になってきてるじゃない?30手前のいい大人だってことをこう、ねえ?」
「ハンッ、自分はいたいけな小学生とかに『おにーさん』呼びさせるくせに」
「そりゃ僕は実年齢より若く見えるっていうか」
「やだー。きもーい。おじさーん」
「はー。うざ」
「そっちこそ。うざぁ」
お互いに口元をひくつかせ、睨み、舌打ち。不毛な口喧嘩。めんどくさいなー、と早々に打ち切りたい気持ちになって、「電気消すよ」と一言告げた直後、「あっ!」と声があがる。なに、とそちらを見れば、ほとんど同時にずいっと携帯の画面を鼻先に押し付けられた。ああもう、わかってるよそんなに近付けなくても見えてるっての、毎回さあ。
「0時過ぎた」
2月1日。ゼロ、ゼロゼロ。つまり0時0分。まったく、嫌なタイミングで……仕方ないな、……という感じでもなく、彼女は先程までの不機嫌をからりと忘れたように、いつも通りの声と、ちょっと気の抜けた笑顔で言った。「おめでとう。誕生日」案外、律義に。不機嫌をしまうことができる、「大人」な僕らなので、こっちもしまってやろうと思ったのに、二言目にはまた嫌味が続いた。
「ほら、また一つおじさんになった」
「……じゃあ君もおばさんなわけだ」
「そーだね。そうね。おばさんはピンクを着るなって言いたいんだね」
「え~?やだな、そこまでは言ってないよ~?」
「でもやっぱ足立透って最低な男だからさ」
「誕生日の人間に対するお祝いメッセージには聞こえないんだけど」
「若い女のほうがいいやーって、私のこと捨てて女子高生とかに手ぇ出しそうだよね」
ああ、あはは。やけに自分の口元が引き攣る。なんでかな。
彼女の表情は窺い知れない。きっとまだ眠る気なんかないと思ったのに、僕の隣でいつの間にか目を閉じている。「電気消して」って言われた。そういえばまだ消してなかったんだ、さっき消そうと思ったのに。
閉じた瞼の、その睫毛をじっと眺めた。目尻、頬、口元、首。僕ら、歳を重ねていけばいくほど、そりゃあきっと、皺が増えてさ、肉が垂れてさ、醜くなっていく。もう醜くなり始めている、きっと。
「君だってそりゃあ若くてイケメ~ンな男の子、好きでしょ。付き合えるもんなら付き合いたいんじゃない、ほらなんだっけ、この間のドラマの主役の子とか。大きい事務所のあのアイドルとか。まあ人として当然の欲望でしょ。だから、」
だから、「捨てられそうなのは、こっちも同じでしょ」
え、と声が聞こえた気がしたけど、構わず部屋の電気を消した。真っ暗になった部屋の中、目を閉じてさらに真っ暗をつくる。背を向けて眠る僕に、彼女が小さく何かを言った。最初は聞き流そうと思ったのに、しつこいから目をあけた。振り返りはしない。
「ねえってば。ねえ」
「あぁもう、なに、なんなの。寝ようよ」
「明日の予定、ちゃんと決めてないじゃん。せっかく二人で休みとったんだから、ちゃんと決めようよ」
「えぇ?いいよ適当で。いや車出すの僕だけど」
「あ。明日じゃないか。今日だ」
「どっちでもいいっての。言われなくてもわかるよ、文脈で」
「ねえ、私さ、べつに若い男の子と付き合いたくないな」
文脈、無視だなぁコイツ。いいよ蒸し返さなくて、その話。内心舌打ちしたくなるけど、我慢してやった。
「だって身の程をわきまえてるっていうか?自分みたいなのが恋愛感情寄せても相手を困らせるってわかるし。やっぱ男女の認識の差?なんで男って自分は若い女の子に相手してもらえるイケるって思っちゃうんだろうねえ」
「チッ」
あ、我慢できなかったや。舌打ち出てた。「だからさ、」だから?
「やっぱり私の方は捨てらんないから、捨てるとしたらそっちだよ。捨てたくなったらそうしていいよ」
そんな声を、背中できいた。悲観でも、やけくそでも、適当でもない、ただただ、何故か穏やかに彼女は言った。捨てるよりも捨てられる方でいいなんて、そんな言葉。
どんな表情で言ったか見てやろうと思った。僕は寝返りを打って彼女を見る。向き合う。目が合った。さっきは閉じていた目が、暗闇の中でもはっきりとこちらを見ていることがわかった。近い距離でしばらく見つめ合う。どんな表情をしているかを見たかったのに、なんだかな、なんともいえない表情だった。笑っているのかもしれない。とても曖昧に。
しばらく、夜の静けさが僕らを包んだ。お互い何も言わなくて、でも僕の方から何か言うべきなんだろうと頭の隅で理解していたから、しばらく経って沈黙はこっちから破ってやった。
「ピンクのあったかコート」
「うん」
「着なよ、明日」
「今日だよ」
「うるさいな」
「着ないよ。だってたぶんアレ着るほど寒くないと思う」
「そりゃ日中はあったかいかもしれないけど、朝晩は冷えるでしょ。出先で寒い寒い言われてもめんどくさいから。暑かったら脱げばいいし」
「寒いかな?」
「寒いと思うよ。朝晩は」
「寒い?夜。今」
「いま」
そうだね、と口にした直後、いや、同時くらいに、彼女が布団の中で体を寄せてくる。腕をのばして、抱きしめて。そうして初めて、布団のぬくもりだけでは足りなかったのだと気付く。寒かった。きっと本当は寒かったんだ。
「あったかいかな」
そうだね、あったかいんじゃないの。あした、いいや今日、今年の2月1日。