「…くん、真田くん、黒板。指されてるよ」

はっとして、真田は机から立ち上がった。べつに眠っていたわけではないし、黒板を見ていなかったわけでもなかった。ただ、意識だけがほんの少しの間、どこかへぼんやりと飛んでいた。そのぼんやりとした自分の意識をはしっと捕まえたのが、隣の席に座るの声だった。彼女は授業中にだけ掛ける眼鏡をくいと押し上げて、「問3だよ」とご丁寧に問題の番号も教え、さらには気を遣って答えの書いてあるノートを隣に見えるように少しずらす。けれど真田は、無理矢理に目を醒ますように、軽く頭を振って、「大丈夫だ」と答える。ノートも持たずに、黒板へ向かった。問2の問題を解いている生徒の隣に並んで、さらさらとチョークを躊躇いなく滑らせて、あっという間に解答を書いて自分の席に戻ってくる。はその黒板の字と自分のノートに並ぶ数字を照らしあわせて、ふむふむと頷いた。なるほど、他人の手を借りずともあんな問題ちょちょいのちょいなわけだ。

「ありがとな、。助かった」
「何が?」
「何がって、教えてくれただろう」
「答えは教えてないよ」
「答えは教えてもらわなくてもいい。自分で解かないと。そうじゃなくて、俺少しぼうっとしてたから」
「ああ、うん」

おやすいごよーよ。彼女はのんびりとした声で応えて、数学の教科書をぱらぱら捲る。冬休みも終わり、もうこの時期はセンター試験に向けて今までの復習問題しかほとんどしない。進路がもう決まっている人も出てきているし、一般受験の人間にとっては追い込みだの最後の仕上げだの、そんな感じで毎日ひたすら問題を解かされる日々だ。相変わらず関数って意味分かんないなぁ、と口の中で呟きながら、もうの視線は教科書上の公式にしか注がれていない。だから、隣に座る真田がまた数分前と同じく何処を見ているのか分かんないようなぼんやりとした目をしていることに気づくのが遅れた。

「真田くん」
「……」

聞こえていないらしい。真田はぼうっと、どこともいえない方向に視線と意識を飛ばしていた。「真田くん」もう一度呼んでみる。それでも聞こえていないらしい。はくるくるとペンを回しながら、つまらなそうな、退屈そうな表情をする。ふと、真田の視線が窓へ向いた。けれどおもしろいものは空に浮かんでいないし、なんにも降ってこない。「真田くん、どうしたの」もう一度、こんどこそと思って呼んでみる。返事はない。

「真田くん、泣いてるの?」
「…ん?」

適当なことを言ってみたら、ようやく真田が気づいたようでこちらを向いた。けれど「ないてるの」は聞き取れなかったらしく、きょとんとした顔で「何か言ったか?」と尋ねた。はまばたきを二・三度繰り返してから、「んー」と意味もなく唸ってみる。まあ、べつに呼んだところで特に用は無いのだ。ただ、あんまりにもぼんやりしているから。真田もの返事と暇そうな様子を見て、特に言いたいことがあったわけではないんだな、と判断して、それ以上は突っ込まないことにした。しばしの沈黙。数学教師は生徒が書いた黒板の答えを元に、公式の説明や考え方について事細かに説明している。びっしりと赤いチョークや黄色いチョークでポイントをまとめてくれている。はそれをノートに移そうか、聞くだけに留めようか迷ったけれど、真田はちっとも数学教師の話を聞いていない風に見えたので、自分もその真似をすることにした。未だぼんやりとした様子で、おもむろに彼は口を開く。べつに、重苦しい様子は無かった。思いつきのように、無意識のように、ぽつりと喋り出した。

「なあ、
「ん」
「お前、31日に世界が終わるとしたらどうする?」
「31日?今月?」
「ああ。1月31日」
「明日じゃないの?」
「明日?…明日は31日じゃないだろ」
「そうじゃなくて、そういうのって普通、『明日世界が終わるとしたら』って訊かない?」
「そうなのか?」

きょとんとした顔でそう訊き返す真田の顔を、はまばたきの数を増やしながら数秒見つめて、ふうむと唸ってくるくるペンを回した。癖みたいなものだった。すぐに返ってこない答えに、ヒントを出すように真田が「べつに深い意味はないんだ。まあ、強いていうなら次の満月ってことだけどな」と付け加えたけれど、余計によく分からないという顔をしたは、ふうん?と相槌を打って、それからなんとなく視線を黒板に移した。

「まあ、そうだねえ…次の春を迎える前に世界が終わるんだったら、今やってるこの勉強…っていうか受験も無意味になるなあ〜とは思うけど」
「あー…そうだな。やっぱり、そこか。はは、そうだな、俺達は受験生なんだし、ある意味すごく現実味のある答えだ」

なるほど感心したように少しだけ笑う真田を眺め、妙な引っ掛かりを感じた。けれどその原因はよく分からなかったから、はつられて笑うフリをしておく。女子に大人気の真田の笑顔は、確かになかなか格好の良いもので、写真に撮ればそこらへんで売れそうだなあ、と見当違いなことを考えた。周囲の女子は真田くん真田くん、と黄色い声できゃんきゃん囲むのだけれど、はそんなふうに「近づきたい」と思ったことはない。べつに真田に限ったことではなくて、他人に対しての興味が周りより少し疎い、のだと思う。「変わったやつ」とたまに言われるけれど。しかしそこが逆に、真田にとっては有難いものだった。自身も少し「変わった奴」と称されることが多い真田は、のそういう部分が好きだった。妙に、過ごしやすい。変な親近感というものを持っていたのかもしれない。だから今日だって、ぽろっと口にしてしまったのだ。「1月31日」のこと。寮の人間にとっては特別な、その日のこと。

「真田くんは?1月31日に備えて何かするの?」
「俺か?そうだな…ひたすら力を付けてるよ」
「何のために?」
「『終わり』に抗うため、とでもいえばいいのか…」
「ふうん。食い止められそうな『終わり』なの?」
「いや、難しい。…捨て身で挑んでも、勝機があるとは言えない。倒せないかもしれない」
「それでもやるの?」
「決めたからな」
「それはとても…」

そこまで言ってから、続く言葉を考えた。それはとても、すごいことだね?こわそうだね?むずかしいね?どれにしようかと頭の中で並べてから、何故だか口から出たのは「頑張ってね」だった。周りの人間が聞いたら首を傾げそうな会話だったが、真田は素直に「ああ。ありがとう」と笑った。妙な違和感。彼はなんだか、現在進行形でそれが迫っているように語る。本当に起こることのように。最初こそ「終わるとしたらどうするか」と聞いたけれど、いつのまにか「終わるからどうするか」という話になっている。

「終わりってさ、死ぬってこと?」

疑問を大人になんでもぶつける子どものように、まあるい瞳では真田を見つめた。真田は一瞬喉をひくつかせて、それから、少しだけ悲しそうに目を伏せて、「そうだな」と呟いた。普通の人間だったら、「何いきなり深刻な話してるの」「そんなこと起こるわけ無いじゃん」とでも言うのだろうけど、は「ふうん」と興味無さそうに納得した。そんな反応に、今度は真田が何か、引っ掛かりを感じた。「なあ、は右手でペンを回している。

「死について考えたことあるか?」

ペンがの手元でくるり、くるり、ぱたんと落ちた。真田はただただ真っ直ぐ、の顔を見つめていた。彼女はまばたきを一つして、その視線に応えながら、「無いの?」と逆に尋ねた。面食らったように真田が目をまたたいていると、「私あるよ。多分、そこらの人よかずっとずっとたくさんあるよ」と、いつもの声の調子で彼女は言った。ペンをもう一度くるりくるりと回す。

「想像するだけだよ。実際に死期の近い重病人とかより気楽な想像だと思うけど、考えるよ。よく」
「どんなことを考えるんだ?」
「死ぬ想像だよ。今この教室に刃物を持った不審者が入ってきたらとか、頭上の電球が落ちてきたらとか、帰り道車に轢かれたらとか。自分以外だってそうだね、親が死んだらとか、姉が死んだらとか、友達が死んだらとか、まあ、縁起でもないことを平気で、ふっと考えているような私だからね」

自分たちの会話を、もしかしたら近くの席の人間が聞いているかもしれない。けれどべつに気にならなかった。真田もも。数学教師は黒板いっぱいに細かい字をたくさん書いて、書ききれなくなって左側の面を黒板消しで消し始めた。それからまた新たに書き始める。クラスの半分くらいの人間はそれを必死になってノートに写している。写していない人間二人は、何やら数学に全く関係ない物騒な話をしているし。けれど教室はそんな物騒な二人に気づくこと無く、干渉すること無く、数学の時間という空間を作り出していた。黙り込んでいた真田が何か言おうと口を開きかけた時、が小首を傾げて一言、「私って変かな?」と言った。真田はなんだか少しだけ悲しそうに眉を下げたけれど、頷きはしなかった。それどころか、苦笑いに近い微笑で、「変じゃない、ちっとも」と小さく言った。

「俺が死ぬ想像もたまにしてやってくれ。死んでやるつもりはないけどな」
「うん」
、お前は、」
「うん」
「お前は、生きてほしいな。なんだかすごく、そう思ったよ」
「うん、そう」
「俺が、生かすよ。生きるべきだ」
「きみも、生きるべきだよ」

言い出したのは真田のほうなのに、の返しを聞いて、彼はとても驚いて、言葉を失っていた。だけどすぐ笑い出して、やけに優しい声で、「そうだな」と言う。数学教師の話は、まだまだ続いている。だけどそれが普通なのだ。二人は高校3年生で受験生で、授業というものを受けているのだから。普通の高校生なのだ。世界の終わりになど関わらない、普通の高校生。少なくとも今この時は、そうだ。それから真田は朝からぼんやりと考えていた、「1月31日」「ニュクス」「世界の終わり」を頭の中の適当な位置に追いやって、と未来の話をした。未来といってもとても近い。1月31日の向こう側だ。2月はもう学校に来るのも少なくなるだろうかだとか、2月といえばバレンタインデーがあるのだから、真田くんは大変でしょう、だとか。受験のこと、卒業式のこと。4月からの新しい環境のこと。――はぼんやりと考える。真田明彦という一人の男子高校生は、その影に、どれくらい重いものを背負っているのだろう。こんなに近くにいるのに、とても遠いものを、抱えきれないものを背負って、その時を待っているんだろうか。「死」なんて、きっととても身近なのに。恐れるわけでもなく、ただただ傍に置いて、私は待っているのに。

けれど思うのだ。2月を迎えたそのとき、隣で彼が笑っていたらいいなあと、こっそり。それまで生きていたいなぁと、こっそり。//メメント