「こっちだ、

神社の石段を上って、目の前に賽銭箱が見えてきた時、その声は降ってきた。声の主を探して、の視線が左へ、そして上へ動く。先ほどの声の主であり、夜中に自分を呼んだ張本人である真田は、神社の中の小さい公園の、ジャングルジムのてっぺんに座っていた。高校3年生の男子が、学園中の女子がカッコイイカッコイイと騒ぐくらいのいわゆるイケメンが、子供の遊具のてっぺんに座っているという図は、なんとなく、絵になるようで異様でもある。そんな真田と目が合うと、ふと、は自分の格好を見下ろした。夕飯を済ませて、風呂にも入って…、そんな夜中に、呼び出しだった。髪を慌てて乾かして、さすがにそのままの格好では外に出られず、簡単に着替えてから、急いで、この神社にやってきた。見たいテレビをすっぽかして、呼び出しに応じた。だというのに、真田は「いきなり呼んで悪かった」とも言わず、「こっちだ」が第一声だ。

「……」
「どうした?お前も登って来いよ」

やっぱり、ちっとも悪びれる様子は無い。けれども特に文句は言わず、「ヤだよ。私遊具の中でジャングルジムは2番目に苦手」と、聞いてもいないランキングを発表する。ちなみに一番苦手なのはうんていだったが、やっぱり聞かれないので真田に教える機会は無さそうだ。真田はただ肩を竦めて、「せっかくいい眺めなのにな。勿体無い」と、口元だけで笑った。はそんな真田の表情を見て小さく溜息を吐いてから、黙っててくてくとジャングルジムへ近寄った。真田は近づいてくる彼女を上から眺めている。

「うんと小さい頃、たった一段足を掛けるのも怖かったな。足短くって。男の子たちみんな外側からてっぺん登っていくけど、私中の方に入ってから上へ行こうとしてた」
「ある程度上へ登った頃、次にどこに足を掛けていいのかわからなくなって、下りられなくなるんだろ?」
「そうそう、四つん這いみたいになっちゃった時とか、一度下を見ちゃうと余計に怖くなったり」
「はは、子供の頃ってみんなそうなんだな」
「真田くんもそうだった?」
「いや、俺は余裕で登れたぞ」
「なんだぁ」
「ただ、妹がいつもそうだった」

ああ、そう、だったんだね。呟く声が、ぎこちなく震えた。視線を地面に落としつつ、は金属パイプの骨組みにそっと手を触れて、握って、その感触を確かめる。久しぶりに触った子供の遊具は、ひどくひんやりしていた。顔を上げれば、てっぺんには真田がいる。けれど彼は、もうこちらを見ていなかった。頂上から見える遠くの景色を、ぼんやりと、眺めていた。はふいに考える。ジャングルジムの頂上って、もっともっと高くて遠いものだと思っていたけれど、いつの間にか、そんなに遠くに感じなくなったんだな、と。それはきっとジャングルジムが子供用の遊具で、自分の身長が子供サイズじゃなくなったからなんだろうけれど。

「ジャングルジムのてっぺんは、こんなものだったんだな。子供の頃は、もっと、うんと高い場所に立った気持ちになったのに。こんなものだったんだな」

たった今自分が考えていたことと似たような呟きが真田の口から溢れて、は目をぱちくりさせた。さっき、登れない自分を「せっかくいい眺めなのに勿体無い」とからかったのは彼なのに。彼は簡単に、頂上からの景色を「こんなものか」と見下ろした。

「……真田くん、」
「悪かったな、。この時間にいきなり呼んで」

このタイミングで。脈絡ない。唐突に謝られて、は一瞬キョトンとし、「ああ、うん?」と曖昧に相槌を打った。「もう夜だしな、出掛ける言い訳大変だったんじゃないか?」「風呂入った後だったか。ちゃんと髪は乾かしてきたのか」そんな小さい質問が続けられても、はやっぱり、「うん、まあ」なんて、短い返事しか出来ない。そんな彼女に気づいているみたいに、真田はしばらく沈黙してから、眉を下げてちいさく笑った。「断られると思った」と。そりゃあ、なんでもない、いつもだったら、渋ったかもしれない。「ええ、今から?」「どうして?」そう尋ねたかもしれない。だけど今日、部屋のベッドで真田からの電話を受けた時、「今から会えないか」と一言、その声を聞いた瞬間、「うん、行くよ」と即答していた。

「だって真田くん、今日、いなかったから」

そう、真田が昼間、学校を休んだから。休んだ理由は誰も知らなかった。担任の教師も首を傾げていたから、欠席というか、「サボり」だった。真田にしては珍しい。あの真田が休むなんてと周囲がざわついていた。もその一人だ。空っぽの席を眺めて、なんとなく、落ち着かなかった。そんな真田から、夜に電話があったのだ。「ええ、今から?」なんて聞けなかった。「どうして?」なんて言えなかった。真田は一度、自分よりずっと低い、地面に足を付けて突っ立ったままのを見下ろし、また困ったように笑う。

「そうだな…べつに、ただのサボりだ。心配させたなら、悪かった」
「……そうなの?」
「ああ、そうさ。授業サボってラーメン食いに行ってただけだ」

おどけるように肩を竦ませた真田を見上げながら、は小さく唇を開くけれど、言葉がすぐには見つからない。本当にそうなの?それだけなの?と訊きたい気持ちでいっぱいだった。だけどそれを訊いて、問い詰めて、本当の事を聞いたとして、彼の深い所に触れてしまったとき、自分は彼に掛ける言葉を持っているのか。話を聞いてあげられるだけの覚悟は、あるのか。そう考えると、何も言えない。だけど何も言わないのも間違っている気がした。聞いてあげたほうがいいんじゃないかという思いもあった。彼が誰にも何も言えずにいるのなら、自分がここに呼ばれた意味は、話を聞くためなんじゃないのか。考える。考える、考える。

「…いいね、授業サボって食べるラーメン」
「……だろ?」
「うん。誘ってよ、今度行くときは」

考えた末にそんな言葉しか出てこないのに、真田はの顔をぽかんと見つめて、すぐにふっと笑い出した。ジャングルジムのてっぺんで、肩を揺らして笑いながら、「敵わないな、お前には」と、そう言った。おかしそうに笑うから、は少し照れくさそうに、恥ずかしそうに、頬を掻いた。やがて真田の笑い声が収まると、再度公園内には沈黙が訪れて、お互い完全に話しだすタイミングを見失う。いつもなら、その沈黙は何も苦しくないはずなのに、は少し、胸が痛んだ。誤魔化しきれないだろうなと、分かっていたから。彼がそのうち、本当の事を話しだすのを、分かっていたから。

「……悪い。気を遣わせたな」
「べつに…そんなことないよ」
「学校で葬式があったんだろ?…シンジの」
「……うん」

事件は昨日の深夜のことらしい。が知ったのは今朝のニュースで、だ。暴力事件に巻き込まれて、少年一人が死亡。(真相は違っているけれど、達一般人には、そう伝えられている)学校に着いてからも、同じ学年の生徒が命を落とした、なんてことに現実味はわかなかった。だけどその命を落とした男子の名前が「荒垣真次郎」だというのを知ってからずっと、ずっと、真田のことが気がかりだった。学校に来ていなかった荒垣とは何も接点が無かったけれど、真田が彼と仲が良いということは、知っていた。

「泣いてるのかと思った。どこかで、一人で、真田くんが」

だから、電話が来たとき、思わず「行くよ」と即答してしまった。一人できっと、待っていると思ったから。神社に向かいながら、彼に掛ける言葉を必死に考えたけれど、何も浮かばなかった。大切な友人を失くした人に、なんて声を掛ければいいのかなんて、まったく分からなかった。

「…泣かないさ。もう子供じゃないからな。もう、決めたからな」

そう告げる真田は、の方を見ない。子供の頃よりずっと低くなった「上」の景色を、見渡しながら言った。この景色をもう「高い」と思わなくなったのなら、もっと上を目指すだけだ。真田はそういうふうに、進むことしかしないのだ。今日の放課後、荒垣の写真の前で、進むことを誓ったから。もう、つらい気持ちのまま立ち止まってはいないのだ。彼の言葉を聞いてそれを感じ取ったは、小さく苦笑いする。ああ、なんだ、ちょっと自惚れていた。何か言葉を掛けなきゃ、なんて。彼は一人で、乗り越える力を持った人なのに。

だけど、だけど、と思う。彼は強い。彼はもう大丈夫、前へ進んでいる。それはきっと嘘じゃない。だけど。

「真田くん、おりてきてよ」

は知っていた。彼の過去も、強さを求める理由も。めったに自分から他人に話さない真田だが、には話したことがあった。その時も、はなんて相槌を打っていいのか分からなくて、真田は「悪い、こんな話して」と苦笑した。燃え盛る炎、崩れていく建物、届かない声、振り払えない手、無力さ。もう何も失くさないようにって、彼はずっとずっと強くなってきたのだ。ずっとずっと、高い所へ、ひとりで。には登れない場所まで、ひとりで。

「…お前が、登ってくるんじゃないのか」
「それじゃあ意味がないよ」
「意味?」
「ねえ。真田くんは、ジャングルジムから下りられない妹さんに、こうしなかった?」

真田が首を傾げた直後に、はゆっくりと両腕を広げる。「おりておいで」その一言に、真田の瞳が大きく見開かれた。脳裏に浮かぶのは、小さな小さな妹の姿だ。自分がジャングルジムのてっぺんに登っているのを真似て、一生懸命上までついてきた美紀。いざ下りようっていうときに、どうやって下りたらいいのか分からず泣きべそをかく小さな妹に、手を伸ばすのだ。大丈夫だから、おりてこい。そんなふうに。俺がいるから大丈夫だ、と。そんなふうに。

「…ふ、馬鹿だな。俺は、子供じゃないんだ。大丈夫だ。一人で下りられる。一人で、大丈夫だ」

強がりじゃなかった。事実だった。彼は前に進む力を持ってるから、なんだって、やってみせる人間だった。だけど、その強さを見ていると、今は少し苦しかった。そんな、彼だから。少しくらい寄りかかってほしくて広げた腕だったのに、真田はの目の前に、軽々と着地してみせる。助けなんていらずに。着地の際に胸に飛び込んでくることもしない。だけど、

「でも、そうだな、少しだけ」

がすこし落胆したように腕を引っ込めようとした瞬間、その温もりはやってきた。一歩距離を詰めたと思うと、腕を回して、ぎゅうっと抱きついてくる。自分で煽ったことなのに、は分かりやすく動揺して、体を強ばらせる。その間にも、彼の抱きしめる力は変わらない。もっと自然に、「よしよし」と受け入れられると思っていたのに。こどもみたいね、なんてからかう準備をしていたはずなのに。やっとの思いで彼の背中にそっと手を添えたとき、思う。男子に抱きつかれたらこんなにもドキドキするものなのか、と。そんなふうに意識していたつもりはないのに。ただ彼の心が少しでも楽に、安らげるようにと思って、広げた腕だったのに。どきどきしてしまう自分に少し呆れる。

「なんで、ここにお前を呼んだんだろうな」
「…え?」

至近距離で呟かれた言葉に、耳がくすぐったくなる。真田は真田で、吸い込んだ髪の匂いと抱きしめる柔い体の感触に、安心感にも似た感情を抱きながら、もう一度呟く。「なんで、お前なんだろうな」

「…会いたくなったんだ。分からないけど、無性に。お前の顔が見たくなった」

抱きしめる力が、強くなる。もともとぎゅうっとこめられていた力が、さらに強く。まるで、なくすもんかと、置いていかれないようにと、しがみつくみたいに。が、くるしいとこぼす前に、彼は小さく謝る。「悪い。今だけ、あとすこしだけだから」と。そんなことを言われたら、いくらでも我慢しなくちゃと思ってしまう。

「おかしいな…弱音は全部、アイツの前で吐き尽くしたはずなのにな」
「…べつに、何回だって、吐いていいと思うよ。だって真田くんは、その度にちゃんと前を向けるんだもん」

耳元で、笑う声がする。「そうか」って、ちいさく笑う。「ありがとうな、その言葉を最後に、そっと真田の体が離れていく。改めて二人で向き合って、すこし気恥ずかしいけれど、二人してちいさく、優しく、相手を安心させる様に微笑んだ。

「…よし、帰るか。0時を過ぎると面倒だからな。送ってく」
「ありがとう。…でもなんで0時過ぎると面倒なの?」
「ん?いや…お前は知らなくていいことだ。とにかく0時を過ぎると、いろいろとな」
「ふうん?」
「……そうだな、もうすぐ…全部終わったら、0時を過ぎた後の面倒な時間も、無くなる」
「うん?」
「そうしたらその記念に、というか、それを実感するために、日付が変わるまで俺の夜遊びに付き合ってくれ」
「日付を跨いで?一緒に?」
「そうなるな」
「それは…面白そうだね」
「約束だからな」
「うん。期待してる」

その時は、今度こそ、彼と一緒にジャングルジムのてっぺんに登ってもいいかもしれない。なかなか登れなくて、彼は笑うかもしれないけれど。そこから見上げる星空を、目に焼き付けてもいいかもしれない。はそんなことを思いながら、真田の隣に並んで歩き出した。10月5日の、夜のお話。







星の煙