▼ ▼ ▼
「あめひこ、あめひこ、こっちよ、こっち」
わずかに開いた襖から、小さな手がのぞいていた。足を止めて、雨彦は自分をそちらへ招き入れようとするその手をじっと見つめる。開けるのを躊躇うというよりは、わざと素っ気なく焦らすように、なんにも言わずに、近付くだけにとどめて。何度も、こいこい、と手招きしていた手が、沈黙に根負けしたように動きを止める。しょんぼりとその手を引っ込めた後、今度はまあるい瞳が、隙間からじぃっとこちらの部屋を見た。雨彦はわざとその襖から数歩離れたところで、ひょいとしゃがんでその瞳と目線の高さを近付ける。
「おつとめをサボってこんなところでかくれんぼかい?小さい巫女様は」
「どうして無視するの。こっちにきてちょうだい、って言ってるのに」
「かくれんぼの邪魔しちゃ悪いと思ってな。見ない振りをしてやったんだが」
「あめひこはかくれんぼの鬼じゃないもの」
「俺が鬼に居場所を教えるかもしれないとは考えなかったか?」
「…お仕事はさぼってない。今日はなんの依頼もないでしょう?ただ、お婆様やお母様の目から隠れたいのよ」
「ほう」
「だって、最近みんな怒るの。お前はあめひこには会っちゃいけない、って。近付くんじゃありません、って」
襖の向こうで、その人物がしゅんと肩を落とす。視線までも床に落とし悲しむ様子に、雨彦は少し困ったように頭の後ろを掻いた。
「それなら、俺も言われたな。ついさっき釘を刺された」
「…ねえ、どうして?どうしてみんなあめひこに会っちゃいけないって言うの?」
俯いていた顔を上げて、少し開いていた襖をもう少しだけ開ける。隙間から顔は見えるが、雨彦のいる外側に出てこようとはしない。あくまで、「雨彦にこっち側へ来てほしい」というのだ。その思惑に気付きながらも、雨彦は何も指摘しない。ふむ、と顎に手をあてて、少女への返答に迷う。どうして?どうして、か。なるほど、どう言ったものか、と考え込む素振りを見せてから、口元だけで曖昧に笑って、こう言った。
「そりゃあ、そうさな。俺は仕事柄、穢れに触れる機会も多い。お前さんを穢れの無い…何も知らない純粋な少女のままでいさせたい大人たちは、俺が変なことを吹き込みやしないかと心配なのさ」
「そんなのいや。いやよ。あめひこは私の知らないことをいつもたくさん教えてくれるのに!」
「だから、それが厄介がられているんだろう」
「勝手よ。お婆様もお母様も、みんな!」
「皆、大事なお前さんに悪い虫がつかないように必死なんだ。分かってやんな」
「それこそ、心配いらないじゃない。悪いものはぜんぶ、あめひこが祓ってくれるんだから」
なんの疑いもなく、澄んだ目でそうはっきりと言う。ああ、本当に、なんの疑いもなく。彼女の言葉に一瞬面食らった後、雨彦がくつくつと笑う。喉の奥でそれを押し殺すように。わずかに肩を揺らして。
「そうかい。…ああ、そうだな。お前さんが言うなら、そうなんだろう」
「…ねえ、いいでしょ?あめひこ、あめひこ、こっちにきてよ」
小さな手が、またその襖の間から伸びる。ゆるく手招きする、その指先。やけに扇情的な動きに見えてしまうその時点で、ははあ、もう引き返せそうにないなと、雨彦は悟った。観念して、引き手に指をかける。一枚隔てた向こうで、その少女が歓喜に瞳を揺らしたのが分かった。しい、と人差し指を口元で立てる。こくり、喉を鳴らして唾を飲みこむ音。
やがて、ぱたり、と小さな音を立てて襖が閉まる。先程までそこにいた男を、向こう側へと吸い込んだ。その部屋にはもう、誰の姿も無い。
「…まったく、困ったもんだな」
暗い部屋の中で、男が囁くように嗤った。膝の上に乗った少女が、猫のように体を擦り付ける。細い腕を伸ばして、男の首に巻き付いた。猫?いいや、ここにいるのは蛇じゃないか。男はそう思いながら、少女の前髪を大きなてのひらで後ろへ撫でつける。蕩けた瞳で男の顔を見つめ、少女は明らかに熱のこもった息を吐いた。あめひこ、あめひこ、と名前を呼ぶ。ああ、狂っているとしか思えない。赤ん坊のときから、うまれたときから、いいや産まれる前から、よく知る少女が。初めて名前を呼んだ時と変わらない舌たらずな呼び方で。その声で。唇で。
「ねえ、もっと、もっと教えて、おとなが秘密にすること。きもちいいこと、私の知らないこと、あめひこが教えて」
穢れの知らない、純粋な生娘を、大人たちは大事に大事に守りたいらしい。自分も、彼女を守らなくてはいけない。彼女を、何も知らない純粋無垢な宝石のまま、この家に閉じ込めておかなくてはならない。悪い輩が近付かないように。悪いものに憑かれないように。汚いものに、指一本触れないように。わかっているさ、十分に。ほら、誰が見たってこの少女は、「なんにもしらない」ままだろう。
「”悪い虫”は俺だよ、」
ああ、聞こえちゃいないだろうがな。火照った肌に、指を滑らせる。熟しきらない、けれど、完全に子供というわけでもない。「女」を形作るその体のラインを舌先でなぞる。いつからその悪魔は自分の腹の中に巣食っていたんだろうか。組み敷いた先で、少女の唇がゆっくり弧を描く。
毒されたのは、取り憑かれたのは、どちらの方だったのか/190502