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トントントン、と包丁がまな板を叩く音。そんないかにも、平和で、健康的で、素敵な「朝」っていうシチュエーションで目が覚めるなんて、少し前までの自分には想像もつかなかった。眠い目をこすって、布団からは出ずに視線だけで音の出どころを見やる。台所に立っている背中は大きくて逞しい。一般的なイメージの「朝食の準備をする母親の背中」っていう光景ではない。けれど、鼻歌混じりのその料理の手際はおそろしく良かった。しばらくその背中を眺める。ふとその背中が思い出したように「そういえば昨日の残りのー…」と独り言を呟いて、冷蔵庫のほうへ足を向けた。その際、横目でこっちを見たので、私が起きていることに気付いて目が合う。「おっ」みたいな反応して、この眠そうな顔に笑った。
「起きたか。おはよう、」
「……おはよ」
「もうすぐ朝飯できるからな。今のうちに顔洗ってこい」
それだけ言うと、また朝ごはんの支度に戻る。ラップして冷蔵庫に入れといた昨日の夕飯のおかずの残りを温めたり、卵焼きを綺麗に四角く焼いたり。私は布団のぬくもりという引力にどうにか抗って、のそのそと体を起こす。起こしてから、自分がたった今までくるまっていた布団を見下ろす。一人分の布団しかそこには無い。いや、道流がすでに一枚片付けたとかではなくて、昨日の夜から一つだったけど。改めて、この一枚に二人で収まって寝てるのってすごいな。道流きっと窮屈に思ってるだろうな。申し訳ないな。ぼんやりとした罪悪感を抱えて、それを振り払うことも無いまま、のっそりのっそりと布団を畳んでいく。まったく綺麗に畳めなくて、道流が畳んだときと全然違うな、道流は綺麗に畳むの好きだろうな私のへたくそな畳み方嫌だろうな、なんて、また自分の存在の申し訳なさに少し気分が沈む。重い足を引きずる様にのそりのそりと台所に顔を出す。気配に気づいたのか道流が振り返った。私と、私の後ろの布団が片付いた部屋を見る。
「布団畳んでおいてくれたのか。助かる!えらいぞー、」
「……」
この間は道流がご飯の用意を完了させてもなかなか私が布団から出ないからテーブルが出せなくて困らせたっけな。道流が布団を剥いで無理やりどかした。「ほーら起きた起きた〜」と私を床に転がす道流の声は全然怒ってなくて笑ってたけど。あの日の私は本当にクズだった。たしかにあの時と比べたら今日の私は道流の役に立ったかもしれない。えらいかもしれない。けどたぶん明らかにえらいぞって言われるほどのことをしていない。だというのに道流に褒めてもらってしまった。甘やかされてる。その優しさが申し訳なかった。優しい言葉を言わせてしまっている。気を遣わせてる。いくら褒めてもらっても自分の駄目さは治らないのに。
「ん?どうした?へんな顔して」
「…」
「あ。さては卵焼きにほうれん草入ってるの気付いて不機嫌になってるな?」
「…なってない。ほうれん草、食べられるし」
「ははっ!そうかそうか。こども扱いして悪かった。好き嫌いしなくてえらいな」
だから、なんにも、えらくないんだけど。なんで道流はすぐ甘やかすかな。っていうか、えらいえらいって繰り返すのも一種の子ども扱いなんじゃないかな。機嫌よく笑って、道流はお味噌汁用のお玉を手に取る。鍋からはいい匂い。道流と過ごす朝は、あんまりにも平和で、あんまりにも幸せで、なんだか、理由もなく胸の中が落ち着かなくなる。広い背中に、衝突するみたいに抱き着いた。前触れなく背後からそんなことされても、「おっと」と声を上げただけで、道流の体はびくともしない。
「こぼしたら危ないだろう?そんなに待ちきれないか?」
「…」
「しがみつかれていたら食事の準備がはかどらないぞー」
「……ごめん」
「…うーむ。仕方ないな」
私の呟いた「ごめん」には、いろんな「ごめん」が詰まっていたつもりだけど、何を勘違いしたのか、あるいは分かっていてやっているのか、道流が一度お玉を置いて、かわりに卵焼きのはしっこを小さく箸で切ってから、背中に張り付いてる私を振り返った。「あーん」と言われたら、口を開けるしかない。ひとくちだけ許されたつまみ食い。あるいは味見。おいしい。
「うまいか?」
おいしい以外の感想なんて伝えたことが無い。うまくないわけがない。でもそう聞いてくる笑顔が、寝起きの自分には眩しすぎて、「ん」と短く返事をしてすぐ、顔を道流の背中に押し付けた。ぐりぐりと猫みたいに頭を擦り付ける。顔を道流に見られないという安堵からか、言わなくてもいいことを、口にしてしまいたくなる。言わなくていいのに。言っちゃだめなのに。言ってしまえばまた自分の駄目さや道流への罪悪感で後悔することは分かっているのに。こんなこと言ったらさすがの道流も私のこと嫌になるかもしれない。めんどくさいって思うかもしれない。なのに、やっぱり、口にしてしまう。
「…今日はオフだから、昼まで一緒に布団で寝るっていった」
「あ。…あー……はは…いやぁ…すまん。そういう約束だったな」
「……起きたら布団に道流いなかった…」
「自然と目が覚めてしまって、つい…いや悪かった!」
なんにも悪くない道流に謝らせてしまう。自分の勝手さにじくじくと心臓が疼く。言わなきゃよかったと思うなら言わなきゃいいのに、私はこうして口にしてしまう。そうして後から、自分が嫌になって、そうして、それから、…それでも自分を見捨てないでくれる道流に心のどこかで安心する、ずるい人間だ。
「…ごめん、わがままいった」
抱き着いていた腕を離して、肩を落とす。なんで自分はこうなんだろう。道流のやさしさを都合よく自分のために使ってしまうんだろう。振り返って私と向き合った道流が、眉を下げて笑った。私の頭にぽんと手をのせて、その大きな手で撫でながら、「お前さんが謝ることはない」なんて言う。そんなの、さっき道流に謝らせた私がもらっていい言葉じゃないのに。「それに、甘えてくれる方が嬉しいよ。食べ終わったら、今日一日ゆっくりしような」なんて言う。なんで道流はこんな私にここまでやさしくできるんだろう。こんな優しい人に甘えて生きている罪悪感、だけどこみあげる幸福感もあって、ああ、私、この感覚が消えることは一生無いんだろうな、と思った。これからもずっと、道流に甘える自分が嫌になって、でも道流に甘やかされることで自分を受け入れて、きっと、ずっとそうやって生きていくんだ。ずるい、ずるいな。ずるい人間でごめんなさい。
生きてるだけでほめてくれる道流と生きづらいネガティブ女の子/180703