▼ ▼ ▼

 知らず知らずのうちに、浮かんでいたメロディを口ずさんでいた。それに気付いたのは、僕の隣に腰かけていた彼女が、控えめに手を叩いたときだった。いつだって、僕の唇がぴたりと閉じるのをじっと見届けてから、彼女は両手の指先をくっつける。「手を叩く」という表現は相応しくないのかもしれない。彼女のその行為は、音を鳴らすためのものとは違っていた。ぴとり、ぴとり、と形を確かめるようにそっと合わせられる手のひらは、満足な音を鳴らしてはくれない。音楽家の演奏に賞賛を伝えるための客席から飛び交う割れんばかりの拍手とは違う。けれど、目的としては同じ。僕の曲を褒めるための行為。その行動が、他人を褒めるときのものだと分かっているから、手を合わせる。その際に、叩くことで生まれる「音」のことは考えていない。

「…拍手をありがとう。さん」

 僕らが座っている公園のベンチの前を、人が通り過ぎていく。僕らには見向きもしない。足音や、話し声、さまざまな音が僕の前をとおりすぎる。彼女の前を、すりぬけていく。
 ふと、さんが膝にのせていたスケッチブックにペンを走らせた。僕はそれを書き終わるのを待ってから、文字を声で追う。

「『いまのはなんのうた?』か…うーん…難しいな」
「……」
「タイトルも、何もないよ。僕の中にふと生まれた、名前のない歌だ」

 僕の唇の動きを、目を、じっと見ていた彼女は、よくわからない、という顔で首を傾げた。僕は困ったように眉を下げてから、ちょっとだけ考え込む。

「そうだね……君の隣にいて、君と過ごして、自然と生まれた曲だから…」

 ぽつぽつと呟いてから、僕は彼女のペンケースから一本黒いペンを借りる。五線譜に走らせるのと同じようにはいかないけど、しっかり、彼女の目に少しでもきれいに映るように気を付けて、スケッチブックの質問の隣に書いた。「きみのうた」と。たった五文字。
 僕のひらがな五文字を目で読み上げたさんは、ぱちり、ぱちりとまばたきをいつもより多く繰り返した。目にうつる文字の意味を、すぐには理解できないみたいに。けれどみるみるその顔が明るく、花が咲くようにほころぶ。横顔だけで分かるのだから、きっと正面から見つめたら、それはもう、とびきりの笑顔なんだろう。
 首を動かして、僕の顔を見上げる。また文字を見る。見比べるように繰り返す。僕の文字の下に、「うれしい!」と書き足した。

「そう、…よかった」

 微笑むと、彼女はさらにペンを走らせる。「またきかせて」と。ああ、少し、困ったな。即興で口ずさんだ曲だったから、さっきと同じものを完璧に繰り返せるかどうか。歌っているうちに変わってしまうかもしれない。付け足されるかもしれない。まったく違うものになるかもしれない。ああ、でも、まったく違うものになったとしても、君は気付かずに微笑んでくれるんだろうか。…なんて。僕はそれを望んでいるのか、望んでいないのか、どうだろう。
 僕が返事をしないでいると、さんはその躊躇いを察したように少し申し訳なさそうに目を伏せる。ああ、ごめんね、君がそんな顔をしなくたっていいのに。僕がペンを手に取って何か取り繕うとするより先に、彼女のほうが手を動かした。一文字ずつ、僕は声に出してよみあげる。音にする。一文字ずつ、一音ずつ。「『もし わたし の み み が』…」


「都築さん!」

 誰かの声が、僕ら二人の間に飛び込んでくる。さんは気付かずに顔を上げなかったので、僕も少し間をおいて、そちらに首を動かした。そこでやっとさんも気づいて、真似るように視線をやった。見慣れた人物が、腰に手をあてて少し怒ったように、呆れたように、僕を見ていた。

「こんなところに!今日は事務所でミーティングがあるんです!急がなくては」
「ああ、麗さん。迎えに来てくれたのかい」
「そんなのんびりと…、…あっ」

 さんの真っすぐな視線に気づいて、僕を迎えに来た麗さんがはっとする。「都築さんのお知り合いですか。お話し中、邪魔をしてしまっただろうか」と身を引いた。さんはじぃっと視線を向けるだけで、答えない。僕を見つけて直前まで興奮気味だった麗さんの心臓が、「どきり」というまた違う音を立てるのが分かる。

「それじゃあ、さん。僕はそろそろ行くよ」
「……」
「…またね」

 ゆっくりとベンチから立ち上がり、さんに別れの挨拶をする。反応が薄いけれど、ひらひらと片手を振ってみせると、さんもはっと気づいたように手を振り返してくれる。振る、というか、相変わらず、指先だけをかすかに揺らすような「バイバイ」だ。まるで音を立てないように生きているみたいだ、と他人は思うかもしれない。
 たしかに、彼女の周囲は静かだった。静まり返っていた。彼女の世界には他人である僕らの持っている音が無かったから。

「都築さん、あの」

 控えめにさんへ頭を下げた麗さんが、歩き出した僕の近くまでやってきて、小声で尋ねる。「今のかたは、」と。

さんだよ。たまにこの公園で会うんだ。僕の曲を気に入ってくれたみたいで、仲良くなった…というのかな」
「そ、そう…ですか。なんだか、不思議な雰囲気のかたですね」
「そうかい?…ああ、でも、そうかもしれない。僕らとは音の感じ方が違うから」
「音の感じ方、ですか?」
「彼女の耳にはね、話しかけても僕らの声は届かないんだ」

 えっ、と麗さんの声が飛び跳ねた。心臓もきっと一緒に跳ねたことだろう。しばらく沈黙して、いけないことを聞いてしまった、みたいな顔をして、ぎこちなく後ろを振り返った。ベンチには、先ほどの場所からぴくりとも動かずに、さんが座っている。

「…話す声は届かなくても、音楽は聴こえるみたいだけれど」
「そう…なんですか。そうか…心で、ということでしょうか。心が奏でる音楽を、心で…」
「……」
「…」
「どうだろう。本当はまったく僕の歌は届いていないのかもしれない。…届いていたらいいなという僕の願いと、彼女の優しい嘘で、曖昧な、心地良い時間が成り立っているのかも」

 麗さんが眉を下げる。少し悲しそうな表情を見せた。僕は、どうだろう。今の僕は悲しい顔をしているだろうか。悲しい?悲しいのかな。そんなことはないような、ああ、どうだろう、なんだろう、この気持ちは。
 僕と麗さんが自分のほうを振り返って見ていることに気付いて、離れたところからさんが手を振った。僕もひらひらと軽く手を振る。麗さんが、さっきよりも深く、何度か頭を下げた。少しして、僕は動かしていた手を止めて、いつもより少しだけ大きな声を出す。苦手だ、大きな声を出すのは。疲れるから。けれど、気付いたら声を上げていた。隣の麗さんが驚いていたから、僕も自分の声に驚いた。

「また作るよ、君の歌を。きっといつか、君に聴こえるように奏でるから」

 僕が、僕なりの大声を上げたとしても、彼女の耳には届かない。さんは、僕の顔をぽかんと見つめていた。ああ、そうか、と少し眉が下がるのが自分でも分かる。けれど次の瞬間には、彼女の表情は笑顔に変わっていた。それを見て、僕は目をまたたく。きっと聞こえていなかっただろうに、彼女は嬉しそうに笑って、さっきよりも大きく手を振った。そのとき、僕は確かに彼女の、音が、聞こえた。「ありがとう」と、彼女は笑って言った。
 届いていないかな、なんて、疑う必要なかったじゃないか。僕と彼女の間には、こんなにも音が溢れている。彼女はこんなにも僕にだけ聞こえる音を、伝えていたのだから。

君に伝えたい音がまだまだたくさんある/180726