教室からグラウンドを見下ろしたら、テニス部みんながランニングしていた。よくやるなあ、と思いながら適当に私は本を読み始めて、しばらく経って顔を上げたそのときもまだテニス部が走っていた。何周走ってるんだよ。「よくやるなあ」を超えて「うわあ…」って気持ちになりながらそれを眺める。本には栞を挟んで閉じた。頬杖をついて、グラウンドを一定の速度で移動する点Pの集合体を目で追う。いや、全員並んで走ってるわけじゃなかった。先頭を走っているのは青いジャージの集団で、それとは間隔をあけてもうひと塊うしろを走っていて、さらに後ろにはまばらに他の部員たちが追っかけて走っている。あ、後ろの方のやつバテてるな、あれは一年だな。かわいそうに。
青いジャージはレギュラーの証のジャージ。ほとんど三年生だけど一・二年も数人。部長はよくペナルティで部員を走らせるけど、みんなで走ってるのを見る限り今日のアレは普通に体力づくり練習としてのメニューなんだろう。べつに調べたわけでもないのに私がテニス部に関する知識が豊富なのには理由があって、その理由を作った元凶が、レギュラーたちとは少し離れた「二軍」集団の先頭を走っているのが見えた。頬杖つきながら彼らの苦しい練習を高いところから見下ろしていると、なんだかフッ、と我ながら嫌な笑いが浮かんでしまう。かわいそうに。
「あ、ー。まだ残ってたんだ〜」
「んー、まあねえ」
「あっ!そっか、今日荒井と一緒に帰る日だ!」
「あ〜!それでか〜!」
教室にやってきた友達二人が、私ににやにや笑う。私はそんなにやにや笑いを軽く笑って受け流した。女子の大好きな、ピンクい話題。きゃっきゃうふふな話題。セイシュンなんていう、恥ずかしいくらいにきらきらした、この学園の名前とおんなじ。
「水曜は一緒に帰るって決めた日らしいから」
「あはは、なにそれ〜」
「さあ。荒井サマの決めたルール」
「ウケるー、荒井サマ」
「なに?俺サマ彼氏気取ってんの?大丈夫?嫌なことされてない?」
「ううん、あれは気取ってるだけで出来てないから。むしろ私の方が『しょうがないから待ってあげてる』と思ってるから」
「よゆ〜だあ〜」
「あはは!」
けらけら笑う友人に合わせて、私も笑った。いや、事実思い出し笑いが零れてしまった。「これから毎週水曜は一緒に帰ることにするぞ」と、隣を歩く私の方を見もせずに急に言ってきた荒井を思い出してなつかしい気持ちになる。慣れないことをしている、みたいなぎこちなさが今思い出しても笑える。なんだその決まり、と微妙にあきれながらも私は口元にフッと笑みを浮かべてしまい、「いいよ」と答えたのだ。
水曜以外は一緒に帰らないし、日曜のデートは月に二回。「そういうもの」と決めたからそうしている、みたいな彼氏と彼女の関係だった。ウケる。
「でもなんかいいよねえ。ちょっと冷めてるところあったからさあ、悟ってんな〜みたいな」
「まあそうだね。自覚はしてるね。中二病入ってるからね」
「そういうの興味無〜って感じのが荒井と付き合ってるの、めっちゃ感動する」
「わかる〜。さっきだってなんだかんだ荒井の部活見てたんでしょ?」
ふ…、とまた笑うだけにとどめる。半笑いみたいな、中二病患者特有の「フッ…」だな、と本当に我ながら痛くなる笑い方なんだけど、そういう笑いしかとっさに出てこない。「あーごまかしたあ」なんて友達にはつつかれるけど、仕方ないのだ。私は確かに荒井の、頑張ってるところを見るのが好きだった。ばかだなあ、と離れたところから眺めるのが、好きで仕方なかったから。
テニスコートに近づくにつれて、荒井が一年生に向かって何か大きい声で威張りちらしているのが聞こえた。ボール片付けろ、みたいななんか命令形のせりふだと思うけど、あまりはっきりは聞こえなかった。頑張っちゃってるなあ、と思いながらそっちを眺めていたら、たまたま荒井がこっちに気づいて、フェンス越しに目が合う。瞬間、ぎくっとしたように荒井が肩を揺らし、ごほん、と咳払いをして私から目を逸らす。そしてまた一年に、さっきよりも大きい声でほら急いでやれ!みたいなパワハラ指示を出す。ああ……あー……荒井的にはこれ、「できる先輩な俺」な姿を張り切って私に見せているつもりなんだろうか。ばかだなあ。一年に陰で「なんで荒井先輩、レギュラーでもないのにあんなに威張ってるんだろう」って言われているのを知ってる。でもまあ、そういうところがかわいそうで好きなんだけど。
「荒井ー、オレら帰りあの店寄ってくけどお前はー?」
「あー、悪いな。今日はちょっと、な。俺はアレだ、帰りは……」
「へ?……ああ!あー、わり!そっか!今日カノジョと帰る日か!」
「フッ…まあな。そういうことだから、先にあがるぜ。お疲れ」
「おう、お疲れー」
「そっかー、いいよなー。カノジョいるんだもんなーあいつ」
「ね、ねえねえ、荒井先輩の彼女ってどういう人なんだろうね!」
なんかそんなやりとりが聞こえてめちゃくちゃ体がむずがゆくなる。絶対荒井、ドヤ顔で「悪いな、俺にはカノジョがいるんでな」って態度とってんだろうな、って思ったらいろいろと恥ずかしすぎる。実際、部室から颯爽と出てきた荒井の口元はニヤついていて、そりゃあもうあきらかに「フフン」って顔で、ご機嫌で。待っていた私の姿を見るなりギョッとしてその表情をしまった。
「お、おお。悪いな、待たせちまった」
「いいよべつに。お疲れー」
「ああ。帰ろうぜ。あ、いや、どっか寄ってくか?」
「んー……どうしよっかなー」
言いながら、とりあえず歩き出しているので二人で並んだ。荒井はわかりやすい。わかりやすく、「男」だ。「男子」だ。見栄っ張りな。付き合ってくれ、と言われたときから変わらない。おそらく荒井は、さっきの部室から聞こえてきたような、「ああいう会話」がしたかったんだろう。「カノジョがいる俺」を周囲に見せられることがうれしいに違いない。そういうところがやっぱり、ばかだなあ、と思う。
そして私はきっと、「そういう荒井に付き合って、ばかだなあ、とか達観しちゃっている自分」に満足している。私たちは、恥ずかしくって、痛くて、バカみたいな奴らなのだ。Win-Winな関係だとは思う。ある意味、お似合いな。
「……なあ。お前、今日の練習見てたのか?」
「え?…ああ、うん。見てたよ。グラウンド走ってるの見てた」
「そ、そうか」
「すごいよねー、テニス部。私一周だって走りたくないよ。よくやるよねえ」
「フッ…まあ、あれくらいは余裕だな。へばってるやつもいたがな」
「ふーん。たしかに、レギュラー軍抜かした部員の中では一番だったもんね」
自分の眺めていた光景を思い出して、何の気なしにそう褒めたら、荒井が意外そうに目を丸くしてこっちを見た。そこまで見てたのか、みたいなびっくり顔。またすぐにいつものような「フフン」顔になって、「まあな」と頷く。得意げ。レギュラーは追い越せないんだろうけどなあ。それなのに、よくやるよなあ。
青学のテニス部は強い。そこに入って練習についていってる荒井はたぶんすごいやつなんだろうし、二軍の中では一番ってめちゃくちゃすごいんだと思う。それは漫画でよくある、血のにじむような努力…的なものだろうし、事実本当に、すごいとは思う。でも、体育会系でもなんでもないし、友達にまで「なんか冷めてる」と言われるような私的には、その、どんだけ努力してもバケモノみたいに強いレギュラー陣を負かすことはできないし、三年生がいなくなるまでレギュラーにはなれないんであろう状況で、なんでそんな頑張るんだろうなあ…っていうのが正直な感想だ。
「荒井って……」
レギュラーになりたいの?狙ってるの?本気?……と、聞こうとして、なんだかさすがにちょっと嫌な感じだな、というか、怒らせそうだな、と思ってやめた。本人は至って真面目に部活を頑張っている。レギュラーになりたいに決まっている。私が途中で言葉を濁したことに対し、荒井は何を勘違いしたか、「な、なんだよ、どうしたんだよ、言いたいことがあるなら言えよ」と微妙にそわそわしながらしつこく続きを促してくる。
「あ、いや、えーと……テニス上手いんだよね?」
「は……、あ、当たり前だろ!」
「そうだよねぇ…」
「そりゃあ今は先輩たちがいるが、いずれは俺が確実にレギュラーとしてだな…」
ぶつぶつくどくど何やら力説し始めた荒井に、ふーんやっぱりレギュラーにはなりたいんだな〜とか、やっぱり先輩たちいなくなるまではレギュラーになれなさそうとは思ってんだな〜とか、いろいろ感想を抱いた。先輩たちを負かしたいとかじゃなくて、素直に先輩たちのことはすごいと思っているからこそのその順位というか。やっぱりなんだかんだ、そうなんだよなあ。まあ上下関係ってやつに異常に厳しく威張ってる荒井だからこそ納得っちゃ納得なんだけど。
「あー……その、なんだ」
「なに?」
「そのときは、観に来てもいいぜ」
「なにを?」
「だ、だから試合を、だろ!」
「…ああ!なるほどね。荒井が試合出るようになったら、ってこと?」
「そうだよ。フッ…お前、周りに自慢することになるぜ」
「なにを?」
「だっ…だから!俺が試合で活躍するだろ!?」
「あ、うん?」
「そんな俺のカノジョだ、ってことを!周りに自慢しても構わねーぜ、って言ってんだよっ!!」
必死にデカい声できゃんきゃん言うので、私はちょっと身を引きながらも、ああ、なるほど、と相手の言いたいことを理解する。お前の自慢の彼氏になっちゃうぞ、ってことだ。なるほどな。現テニス部レギュラーって女子人気高いしな。私の周りは不二先輩派が多いけど。私は想像する。テニスの試合で、ギャラリーに「わーすげえ!」「かっけー!」って言われている荒井のことを。
「……キャーキャー言われるのかあ…荒井が」
「…お、おう」
「不二先輩のようにかあ…」
「はっ!?な、なんでそこで不二先輩の名前が出てくるんだよ!?」
「や、だって私の周り不二先輩派が多くて。まあ私はあんまりわかんないけど。好みのタイプではないかな」
「! へ、へえ……まあ、そりゃあ、お前は…」
「私は菊丸先輩派って言ってる」
「はあ!?」
「えっなに。いいじゃん。顔とか」
「お、お前は俺のカノジョじゃねーか!!」
とっさに出たような大声。びりびり、と空気を震わせるようで、私の心臓までびりびりさせた。目を丸くして固まった私の様子に荒井がハッとして、口をおさえる。焦ったように恥ずかしそうに、「いや、だから、その」なんてごにょごにょ言って。でも結局みえっぱりなプライドが勝ったのか、「間違ったこと言ってねーだろ」と無理矢理に余裕を取り繕った。
私は、なんだかとても、胸がざわついて、もやもや、ぐしゃぐしゃ、なんともいえない気持ちになる。これ、という的確な言葉は見当たらない。この気持ちがなんなのか、わからない。荒井にとって、私は「カノジョ」だ。「俺のカノジョ」だ。とはいえ――名ばかりの、じゃないか。「俺のカノジョ」であることにしか意味はない。だから、今だって焦って「いや俺のカノジョだろ、俺のカノジョであるからには俺のでいてもらわなきゃ困る」みたいなふうに言ってきた。私は、都合のいい時にいてくれないと、だけど、都合のいいときだけ存在していればいい、「カノジョ」だ。
わかっていたのに。それでいいと思っていたのに。なんで今、こんなにもやもやするんだろう。
「……荒井さぁ」
「な、なんだよ」
「それでいいの?」
「……は?」
「や、うん、『カノジョがいる』ってステータスで周りにちょっとフフンってなれるのは分かるよ、ウチらそういうお年頃じゃん?私も結構そういうの楽しんでるしさ、友達からの見られ方とかさ。でも、なんか、そっち路線で本当にいいの?どっちかっていうと荒井って、『カノジョだなんだってチャラついてんじゃねえ!そういう浮ついた野郎がレギュラー獲ろうなんざ百年早いぜ!』みたいなキャラでいったほうが、よかったんじゃないかな?って」
「……、…」
「そのほうが荒井っぽいっていうか……せっかくいっぱい頑張ってるんだから、そういうキャラでいたほうが……なんか…誰でもいいからって私で妥協してる時点でもいろいろ…もったいない……」
どうせ周囲に「俺にはカノジョがいるんだぜ」ってマウント取りたいんだったら、もうちょっと可愛い子とかにしたほうがもっと自慢になるだろうし。や、でもそんな部分で上に立とうとしなくても、普通に素直にテニス頑張ればいいじゃないか。頑張れるじゃないか、荒井は。そういうやつだ。そういう、なんだかんだ馬鹿正直に頑張っちゃうところが、荒井らしくて。私は、ああばかだなあって、ばかでまぶしくって、かわいそうで残念で、イイなあって、……好きだなあって、思ってしまったんだった。
私たち、ぜんぜんお似合いなんかじゃない。全然似た者同士でもない、正反対。本当は、ずっと。頑張ってる荒井を、ばかだなあかわいそうだなあなんて思うような女に、荒井のカノジョになってほしくない。ふさわしくなんてない。
こんな見せかけだけの青春ごっこはやめにしよう。別れよう、と言っていいほどの関係だったのかすらわからないけど、私は――…
「……待て」
低く、どこか感情をおさえるように震えた声が私の思考を遮った。怒っている?なににたいして。今更ふざけるな、周りになんて言えばいいんだ俺に恥をかかせるな、という感じの怒りだろうか。見栄っ張りすぎる。でも荒井ならありえる。だってもともと本当、周りにドヤ顔したいだけでカノジョ作ったんだろうし。プライドが高いというか、なんというか。私が何も言わずに足を止めて突っ立って言葉の続きを待っていたら、少し顔を伏せていた荒井がこちらを向いて、言った。
「おまえ……そんなふうに思ってたのかよ」
ずき、と少し胸が痛む。口にしてはいないのに、今まで荒井の努力を「ばかだなあ」なんて思いながら悦に入っていたことが知られたんじゃないかと怖くなる。嫌われても当然なのに、この期に及んで、嫌われたくないと思ってしまう自分がずるい。視線を落としながら、ちいさく、拗ねたような自分の声を他人のもののように聞いた。
「だって、誰でもいいからカノジョ作って周りにマウント取りたかっただけじゃん。得意げっていうか、浮かれてみんなに……」
「す…、っ…好きなやつに告白してオッケーもらえたんだぞ!!浮かれたくもなるだろ!!」
「……え」
「おっ、俺はっ!……お前も、俺のことが好きだから付き合ってるもんだと思って…」
ぐっ、と荒井がズボンの横で拳を握るのが見えた。冷静にそんな光景を見ているようで、ぜんぜん冷静なんかじゃなく、ただただぽかんとした。頭の中が、ぽかーん、という効果音ぴったりに、空っぽ。何も言えないでいる私を、荒井が罰の悪そうな顔で見た。でも、その罰の悪そうな顔が、すぐに驚いた顔に変わる。そしてまた違った居心地の悪さに困惑するように、視線を逸らす。顔が赤い。
「……おまえ、顔真っ赤じゃねーか」
「…………荒井に言われたくない」
「おまえがあんまりにも赤いからうつっただけだ!」
「荒井、やっぱりばかだなあ……」
「お…俺を惚れさせたからって、いい気になるなよ…!」
「……かわいそうだなあ…」
「おいっ!!」
「私のこと好きになって、私に好きになられるとか、ほんっと」
青い春がお上手