バーのカウンターに突っ伏していた私は、隣に誰かが座る気配にはっとして顔を上げた。そしてすぐ隣にいる人物に目を見開く。その驚きように呆れて、笑われた。そのひとは、笑った。眉を少し下げて、困ったように、でも以前と変わらず、「ばかだな、お前は」って笑うときの、かおだった。

「何驚いてんだ。待ち合わせた時間通りに来てやったのに」
「え、えめらるど、さん……」
「他の誰に見える?」
「……本物?まぼろし?」
「おい、もう酔ってんのか」

 眉を顰めて、私が肘でテーブルの端に追いやっているグラスをちらりと見る。いや、言うほど飲んでない。飲んでないけど。
 私はぱくぱくと口を動かして、エメラルドさんの顔を指差す。その人差し指が情けなく震えて、困った。「だって、でも、だって……」と、言い訳するときの文句を続けようとして、言葉が出てこない。私は昔からすぐ、うじうじもにょもにょするから、エメラルドさんに「『でも』だの『だって』だの言うんじゃねえ!」ってよく怒られたけど、今日その怒声は飛んでこなかった。

「なんで来てくれたの……」
「ハァ?ここ最近、呼び出しても誘いを断り続けてたのはお前の方だろ」
「だって……」
「前まで何があってもすっ飛んできてたヤツが、良い御身分だな」
「だって、エメラルドさん忙しいだろうなって思ったから……私なんかに会う時間つくるの、もったいないし……」
「……」
「そ、それに、なんで……その格好……」

 そう、驚いたのは、エメラルドさんが今私の隣にいることだけじゃなくて。見慣れた、メンズサイズのシャツとズボン。私にとっては、「見慣れた」だった。だけど、最近は――世間は、きっとそうじゃない。
 私に服装の上から下までをじっと見られて、エメラルドさんはやれやれとわざとらしく肩を竦めた。そして長い脚をバーのスツールに座りながら組んで、私に言う。

「この格好の方がお前も見慣れてて気が楽だろ」
「でも……それ、今のエメラルドさんは……」
「……」
「…………」
。お前本当に『忙しそうだから』って理由で誘いを断ってたのか?『今の俺』に会いたくなかったからじゃないのか?」

 怒って問い詰めているわけではない、真剣な声。私はぶんぶんと首を横に振った。そんなことない。そんなんじゃない。

「違う。違うけど、だって、エメラルドさん……昔とは違うから。私にとって、エメラルドさんはずっと、昔から……カッコよくて……強くて……男の人みたいに、だけど、男の人なんかよりずっとずっとカッコよくて……だけど今は、すっごく素敵な、モデルさんでしょう?私、この間の新しいコマーシャルも見たよ。あのドレス、すっごく似合ってて綺麗だった。でも……」
「……男の格好してる俺の方が好きだからガッカリした、って?」

 私はもう一度、今度はもっともっと力強く首を横に振った。やっぱりエメラルドさんの声は怒ってなんかいないし、静かに、私を諭すように尋ねるから。それがなんだか心苦しくて、エメラルドさんが優しすぎて、涙がにじんできた。
 だって、きっと、エメラルドさんはそう思ったってことだ。私が、今や人気モデルとして女性らしくきらきらした場所で堂々と胸を張って生きているエメラルドさんのことを、モヤモヤしながら見ているんだろうって。見たくないんだろう、会いたくないんだろう、変わらないでほしかったって思ってるんだろうって。だから、今日こうして私の前に、以前と同じ格好で現れた。私に気を遣ったからだ。そんな悲しい気を遣ってほしくなんかなかったのに。

「違うの。たしかに、テレビや雑誌にうつるエメラルドさんを見て、ああ女のひとなんだよなって思うけど……でも今までだって私べつに、エメラルドさんのこと女のひとだってわかってたし!今のエメラルドさんがいやだとかがっかりだとか、き、嫌いになるとか、そんなんじゃないの」
「……
「きらいになんてなるわけないの!むしろ……」
「ん?」
「き……きれいすぎて、ドキドキする、から……」

 涙ぐみながら、きっと今顔が赤い私のことを、エメラルドさんがきょとんとした表情で見つめる。恥ずかしいことを口にした、いや、もっと口にしようとしている自覚があるから、顔がどんどん熱くなる。お酒のせいじゃない。

「私、エメラルドさんのこと、ずっとずっとかっこよくって大好きで……でもそれって、男の人みたいにカッコいいから好きなんじゃないんだ、って……綺麗な女の人、って感じのエメラルドさんを見ても、ドキドキして、好きだあって……」
「……」
「でも、好きでいていいのかなあって、前よりずっと不安になっちゃって……会うのが怖くなって……」
「……、お前……」
「でも!でもエメラルドさんが綺麗なひとだなんてそんなの私昔から知ってた!モデルさんになる前より、みんなが気づく前から知ってたもん!すらっとしてて背が高くてスタイルもよくて、本当に昔から憧れのかっこいい女の人だって、私ずっと……私が一番知ってるもん!」

 話している内に興奮気味に前のめりになっていた。目をぱちくりさせて圧倒されているようなエメラルドさんの顔が近くにある。けどその綺麗な顔が、ふいっと横に逸らされたかと思うとその瞬間、ぶはっ!ってふきだすような笑い声が聞こえた。それを合図に、エメラルドさんが大きな口を開けて、天井を仰ぐようにして、ばくしょうした。

「アッハハハ!!お前、ほんっとに…っ!」
「そ、そんなに笑わなくてもいいのに……!!」
「はーっ……ったく、面白い女だよ、お前は昔っから」
「だって……」
「そうだったな。昔からお前はそうだった。マフィアのボスの娘で、こんな性格とこんな図体で、周りがどれだけビビッて俺から離れようが、お前は離れなかった」
「だってエメラルドさんはかっこいいもん」
「そう。そう言って、聞かなかったな」

 懐かしいものを見るように、エメラルドさんが目を細めて、笑った。その懐かしい思い出を大事に触れるみたいに、指先が伸ばされて、私の頬を撫でた。ドキリ、と小さくはない音を立てて、心臓がそれを喜ぶ。まともに目を合わせていられなくって視線を落としかけたら、それを許さないみたいに追いかけてエメラルドさんが顔を覗き込む。視線が絡んで、言葉に詰まった。だって、綺麗なんだもん。変わらない、エメラルドさんのその真っすぐな瞳が、好きだったから。

「逸らさなくたっていいだろ。目の前にいるのはお前の大好きな『エメラルドさん』だぞ」
「でも、だって……」
「次に会うときは、そうだな、とびきりのドレスにしよう。もちろん、も着るんだからな」
「……い、いいの?」
「何が」
「私、エメラルドさんのこと好きでいていいの?エメラルドさんはこんなに綺麗な女の人で、私はこんな、うじうじした女で……それでも、好きでいいの?前よりもっともっと、好きになっちゃったのに……本当に、いい?」
「ああ、最高だよ」

 笑った口元、強気な眼差し。何も変わらなかった。私の大好きな、かっこよくって素敵なエメラルドさん。
逃げ口上に混ぜた恋