怪物になりたかった僕
「失恋」というものに対してのショックはあまりなかった。何故かって、俺が好きだった女と付き合い始めたのは俺のよく知る平古場凛という男だったからだ。凛がいいやつだってことはこの俺がじゅうぶん理解していたし、「凛ならしょうがないな」という気持ちが自分の中で大きかったから。決してべつに凛より俺が劣っているだとか、卑屈になってるわけじゃない。俺は俺でと付き合ったら相手を楽しませる自信はあったし。ただ、は凛が好きで、凛もが好きだったから、二人が付き合うのは当たり前だったんだ。二人が両想いってことを前から分かっていた俺は、多少の寂しさは抱きつつも、「に俺を好きになってほしい」とは思わなくなった。それどころか、二人の仲を取り持ってやろうとすら思った。だって俺は、二人が大事だったから。好きだったから。ありきたりな言葉だが、「幸せになってほしい」と思ったんだ。自分の恋はもう終わったんだから、すっぱり諦めて。たかが中高生の内の幼い恋心だ。これから俺は違う恋をすればいいんだし。自分でもびっくりするくらい何の未練もなくへの気持ちに蓋をした。そうしてやがて二人が付き合い始めたときも、俺は単純に嬉しかった。よかったな!って二人の肩を叩いて、自分も一緒に幸せになれた気分でいた。凛から奪ってやりたいという気持ちは微塵もなかったし、むしろ二人のじゃまをするものがあるなら俺が蹴散らしてやりたいくらいには、俺は二人を祝福していたんだ。もしかしたら俺はのことを本気で好きだったわけじゃないのかもしれない。だって本当ならもっとショックを受けて、悲しんだり、羨んだり、怒ったりしてもいいはずなのに。俺はただただ一方的に想うだけの関係が心地よくて、と付き合いたいとか、そういう願いは抱かなかったんだ。だからきっと、二人が付き合っても平気でいられるんだろう。もしかして、もしかしたら、こんなのは恋と呼ばなかったのかもしれない。俺は、たぶんまだ、恋ってもんがどんなものなのか、失恋ってもんがどんなものなのか、分かっていないのだろう。
「なあ、。昨日初めて凛の家行ったんばー?」
「へっ?あ、え、うん。どうかしたの?」
「きったなかっただろー、部屋!いっつもあの部屋、CDも雑誌も床に散らかってるんばーよ」
俺がけらけら笑いながらそう言ったら、は一瞬だけ面食らったような顔をして、それから思い出したように笑顔を作った。「そうでもなかったよ。意外に片付いてた」そのいつもの笑顔になるまでの過程がどうもぎこちなく思えたけれど、きっと俺の思い過ごしだろうと適当に言い聞かせて、俺は話を続ける。
「ぬぅやがー。つっまんねーの!彼女が遊びに来るからって掃除しよったー、凛のヤツ」
言いながら、俺ももたまーに教室の入口を横目で確認する。そして二人で目を合わせて、小さく笑うんだ。今に凛が教室へ入ってきて、何余計なこと言ってんだよ裕次郎ー!って怒るんじゃないかって期待しているから。今凛は生活指導のセンセーに呼び出しくらって退席中。高校生になっても凛は変わんねーな。俺とは教室でその帰りを待っている。「今日久しぶりに三人で帰ろうぜ」と誘ってきたのは凛だ。これでも俺は気を遣って、凛たちが二人きりで下校できるように仕組んでやっていたというのに。けどまあ、凛ももなんてことなさそうで、むしろ歓迎してくれちゃっているので、俺としては嬉しかった。早く三人で、寄り道でもしながら帰りたい。そうだ、誘っておいて待たせた罰として凛にアイスでも奢らせるのはどうだろう。我ながらいい案だ。もきっと「いいね」と言うはず。想像して思わず零れた笑みを隠しもせず、のほうへ視線を向けた時、ふと彼女の首元から目が離せなくなる。
「どうしたの?」
「ん、いや…どうっつーか、、首に怪我してるやっさー」
「え?首?」
「ん」
ちょんちょん、と自分の鎖骨あたりを突いて場所を教えてやると、は首を捻りながらも俺を真似て自分の鎖骨あたりを指でなぞる。「もっと下のとこ」俺の言葉に、小さく浮き上がった骨を細い指がなぞり、そのままゆるゆるとシャツの中に入るか入らないかの胸元のほうへ下りていく。鎖骨の下、というか、胸の上というか。そういえば中学のときはセーラー服だったなあ、こいつ。今は白いシャツだけど。(そういえば、俺、のこと好きかもって思い始めたのいつからだったかな。凛より早かったかな。が凛を好きになるより、早かったかな。誰の、誰が、一番最初だったんだろう)
「赤くなってるさぁ。なんか斑点みたいな痕が、」
そこまで言うと、バッとが自分のシャツの襟を引っ掴み首を隠すように覆った。ひどく焦ったように。シャツを首元まで引っ張りあげてぎゅっとシワになりそうなくらい握り締める。顔も俺から背けた。「…ぬぅやが、心配してやってるんばぁよ、わんは」むすりと俺が口を尖らせたら、は俯いてぶんぶんと首を横に何度も振った。なんだその反応は。まったく会話になってない。俺は大袈裟に溜息を吐いてから、ひょいとしゃがんでの顔を覗き込む。そこで、どきりと大きく胸が音を立てた。顔を真っ赤にさせて、恥ずかしそうに唇を噛んでいる。泣きそうなのか、瞳には薄い水の膜が張っている。そんな表情に、どうしようもなく俺の心臓が悲鳴を上げた。頭が真っ白になる。、と小さく名前を呼ぼうとして、声が出ない。
「…ご、ごめ、」
「 、は…え、あ、はっ!?…や、その、なんで、やーが謝るんばぁ…」
「凛に、怒っとくから…ほんとごめん、…ごめん…恥ずかしいなあ、もう…」
「…わ…わんも、その、悪かった」
わけもわからず謝罪の言葉を口にしながら、自分の顔にも熱が昇ってくることに気付く。熱い。熱いせいで、脳みそが、頭がぼーっとする。なんだこれ、わけわかんね。なんでお前そんな死にそうなくらい恥ずかしがってんの。なんでそこで凛の名前が出てくんの。凛がやったのか。怪我じゃないのか、それ、いや凛がに怪我させるわけねーし、じゃあ、なんだろ、あの赤い痕は。抓ったとか?噛んだとか?いや、多分、そういうんじゃなくて。(そういえば、昨日が凛の家遊び行ったって)(そういえば、その話したときすごくが動揺してたっけ)
頭の中に、シャツのはだけたの首元へ顔をうずめる凛の姿が映る。想像でしかないのに、やけにリアル。クリアな映像として、俺の脳内を侵食する。かあっ、と目の前が赤くなった。痛いくらいに握りしめた拳が、小さく震えた。
「裕次郎、すごい汗…大丈夫…?」
さっきまで顔真っ赤にして俯いていたっていうのに、が俺を心配そうに覗きこんできた。いや、自分の恥ずかしさを紛らわすために、話題を変えるために、このタイミングで言ってきたのかもしれないけど。のまるい瞳と完全に目があう前に、俺はの肩を掴んでぐっと突き離した。突き飛ばすほどの力はない。ただ、それ以上こっちに入ってこられたら、たぶん自分がおかしくなるって、怖かったから。俺に近寄んないで。俺は、もうお前に好きになってほしいなんて思わない、思わないけど、嫌われたくもないんだ。だから。
「…先に帰る」
俺は鞄を引っ掴んで、逃げるように教室から走り去った。廊下をバタバタと駆けていたら、後ろから名前を呼ばれた気がした。の声。凛の声もしたかもしれない。遅い。いや、遅くてよかったけど。凛のいる前での首の赤い痕について訊いたら、それこそ、俺は余計に追い詰められていたかもしれない。みじめのような、恥ずかしいような、そんな嫌な思いを味わっていたかもしれない。帰ろう。はやく家に帰ろう。頭の中をさっきの「想像」の光景がちらつく。振り払うように頭を左右に動かしても、余計に消えてはくれなくて、そればかりを考える。息が上がってきた。くるしい。わかってなかった、俺はちっとも。二人が好きあってることに抵抗なんかなかった。好きだ好きだと囁き合っていることになんの嫌悪感も抱かなかった。それだけだと思ってた。だけどどうだろう。二人はきっともうキスをして、それ以上のことだってして、心だけの関係じゃなくて。そう思い知った途端、急にどろどろした汚い感情が胸の中に溢れてくる。きもちわるい。痛い。苦しい。うまく呼吸ができない。ちくしょう。多分しばらく凛の顔もの顔も見れない。ああでも顔を真っ赤にして泣きそうになってるはすごく可愛かった。
(そこではじめて俺は知ったんだろう。「恋」も「失恋」も、はじめて。)130501