「今日は織姫と彦星、会えないかな」
ぼんやりと空を見上げるその横顔に、俺はちら、と目をやった。空を見上げて、右手には傘。左の手のひらを少し傘からはみ出して、雨の勢いを確認する姿。雨の勢いといっても、小雨程度だ。俺は視線を正面に戻して、彼女の言葉をゆっくり頭の中で咀嚼する。ああ、そうか。傘を持つ手とは反対の手でポケットの携帯を取り出す。ディスプレイに書かれた数字を視界に収める。そこには縁起の良さそうなラッキーセブンがふたつ。七月七日。そんなこと言われるまで気付かなかった。今日、七月七日は七夕ってやつらしい。個人的には物凄くどうでもいいことだった。クリスマスや誕生日と違ってケーキやプレゼントが出るわけじゃないし、学校が休みになるわけでもない。普通の日。特に普段と変わらない平日。2010年の7月7日水曜日。天気は曇りのち雨。降水確率はどれくらいだろう。気温は…まぁそこまで暑くもない。天気予報とかうろ覚えだしお天気お兄さんでもないんだから、確証はないけど。
「雨だと川を渡れないんだっけ」
「天の川の水かさが増えるんだよ」
「そうなんだ」
「でも確か、雨が降ってもかささぎが橋を作ってくれるんだったかな」
「じゃ、会えるんじゃない?」
幼稚園だったか、小学生低学年だったか。この時期になると必ずといっていいほどその手の絵本とかを読み聞かせられた気がする。でもそんなの何年も前になるし、確かな記憶じゃない。七夕イコール、織姫と彦星。笹と短冊。うん、それも小さい頃書かされた気がする。短冊にお願い事ね。書いたやつは笹にぶら下げる。クリスマスツリーの出来損ないみたいだな。まぁ、サンタクロースが来るわけじゃない。短冊に書くのはほとんど「〜できますように」っていうお願いの仕方だった気がするけど、どうしてサンタへのお願いみたいに「〜が欲しい」とかじゃだめなんだろう。それもリッパな願い事なのに。何か理由があったような気もするけど、思い出せない。七夕の物語ってどんな話だったっけ。
「え?季楽くん、織姫と彦星の話知らないの?」
「覚えてないや。あんまり興味ないから」
「織姫と彦星は結婚したあと仕事をサボったから、織姫のお父さんに離れ離れにされちゃったんだよ」
「へえ。面倒なお父さんだね」
「うん。二人はとっても夫婦生活が楽しかったんだよ。働き者の二人が仕事手付かずになっちゃうくらいだもん」
「ふうん」
そうそう、少し思い出してきた。織姫のお父さんが二人に腹を立てて、天の川で隔てて離れ離れにしたんだ。で、一年に一回だけなら会わせてくれる。幼稚園のとき、紙芝居で見た気がする。エプロンした保母さんの声も名前も顔も覚えてないけど。ふと、俺たちの歩く横を、小学生くらいの男の子が走り去っていく。その子は傘をさしていなかったから、雨はあがったんだろうかと思って一度自分の傘を横に傾けたけど、まだ少し降ってた。確かに、傘ささなくても平気な量かもしれないけど、なんとなく閉じることが面倒だった。
「織姫も彦星も馬鹿だね」
「え?」
「怒られるのなんて目に見えてたんだから仕事サボんなきゃよかったのに。そんなツマンナイことで恋人取り上げられて、馬鹿みたい」
「…うーん…それくらいお互いのことが好きだったんだよ」
「好きなら離れないように努力するよ。俺だったら」
頭悪いな。他人事だから言うけど。俺の言葉を聞いて、ふとさんが笑った。べつに俺、ムキになったわけじゃないからね。所詮七夕伝説なんて、伝説なんだから。間違っても「こどもだなぁ」とか「そんな本気で考えちゃうなんて変なの」とか思わないでほしい。言い出したのは向こうだし。俺がさりげなく傘を傾けて顔を隠すと、彼女は「真面目だね」と言った。やっぱり声が笑ってる。
「でも私も、織姫と彦星には疑問を持ったことがあるよ」
「どんな?」
「一年に一度しか会えないから、その日を楽しみに仕事に精を出すようになった二人だけど」
「うん」
「じゃあもう二人を許してあげていいと思わない?」
いつまでたっても一年に一度しか会えないなんて悲しいよ。バットエンドだと思う。彼女は疑問に思ったことを素直に大人にたずねる幼稚園児みたいに意見した。目が合うと、ねえなんで?と聞かれたような気がした。でも聞かれたって俺は答えを持ち合わせてなんかないから、「そうだね、俺もバットエンドだと思うよ」と肯定しておいた。
「だから私、短冊にはよく『織姫と彦星が一緒にいられますように』って書いてたよ」
「くそまじめ」
「えっ!」
「他人のお願い事しても自分の得にならないじゃん」
「…じゃあ、季楽くんは『テストで100点とれますように』って書く?それこそくそまじめ」
「俺だったら」
俺だったら、なんだろう。言いかけて、言葉の先が見当たらなかった。傘に落下するたびかすかに聞こえる雨の音をぼんやりと耳に入れながら、考える。俺だったら、テストで100点じゃなく、織姫と彦星が一緒にいられますようにじゃなく、そうじゃなくてもっと、スケールの大きいもの。くそまじめ、と口にした彼女は少し不満そうに口を尖らせていたから、なんか自分も相手も納得するような返しを見つけたい。でも特に思いつかなかった。何か誤魔化してみようか、と適当な言葉を探った。頭の中はごちゃごちゃとしたワードしか落ちてなくて、手探りにそれらを繋げ、思いついた先から声に出してみる。
「俺だったら、天の川泳ぎきるのに」
「ぶっ」
「あ、笑った」
「願い事と関係ないじゃん。それに嘘っぽいんだもん。絶対そんな面倒なことしないよ、季楽くん」
「…じゃあ織姫のお父さんに土下座する」
「あ!それこそ嘘っぽい!絶対しなそう!」
「俺をなんだと思ってるのさ」
「めんどくさがりのひねくれやさん」
まぁ、あたりだけど。
「でも織姫が君だったら」
「え?」
「なんでもないよ」
織姫が君だったら、べつに天の川泳ぎきってもいいし土下座してやったっていいのに。泳ぎきる途中に流されて死んだらそこまでだし、土下座しても聞き入れてもらえなかったらそこまでだけど。それでも一年に一度しか会えないのはツマンナイような気がした。俺はきっとどんな手を使ってでも彼女に会いに行くんだと思う。そんな必死になる俺なんて誰も想像できないだろうけど、働き者の彼らが怠け者になってしまったように、恋愛感情っていうのは時に想像以上の影響を与えるんだよ。俺はそれをいい方向に使ってみせる。なんて。雨の上がらない曇り空をちらりと見て、ご苦労様、と心の中で呟く。ほんと、ご苦労様。一年に一度の逢引を存分に楽しめばいいよ。俺は彦星みたいに馬鹿じゃないから、織姫と離れ離れにはならない自信があるんだ。くだらない優越感に浸って、俺はビニール傘をたたんだ。
「雨、まだ少し降ってるよ?」
「これくらい平気だよ」
「そう?」
じゃあ私もいいや、と傘をたたむ。女子はひらひらのついた傘が好きだな、と彼女の手元を見てて思った。ふと、彼女が顔を上げて「この雨って織姫と彦星の涙じゃないかな」とよく分からないことを言ってきた。「ああ、そうかもしんないね」という俺の言葉を聞いて彼女は小さく微笑んだ。ああ、ほらやっぱり。想い人が隣にいるって幸せなことなんだろうな。(100707)//閉じ込められた天の川