逆さまの蝶/黒子


知っていることといえば、名前くらいだった。めったに教室に顔を出さないけれど、彼女の名前がきちんと自分のクラスに在ることだけは、知っていた。彼女が学校に来てもほとんどそのまま保健室へ直行だけれど、そのことについての理由は、知らなかった。やっぱり僕の知っていることといえば彼女の名前、クラス、それくらいだ。ただ――、いつだったか、雨の降った日に。傘を差して校門へ向かおうとした際、ふっと誰かの気配を感じて校舎を振り返った時、確かに保健室の窓に人影を見つけて、そして何故だかそれが「ああ、あの子だ」と、思えてしまったのだ。何故だか、分かった。確証なんか無いはずなのに、彼女だと、僕には分かっていた。


ざあざあ、雨の音はあの日と変わらず、静かに僕の耳へ届く。そっと保健室の扉を開くと、すぐに窓辺に立っていた彼女が振り向いた。

「雨ですね」

丸い瞳で僕を見つめる彼女は、なんにも言わない。誰?とも尋ねない。僕の顔も、名前も、きっと知らないのに。ああそれなら、僕は本当なら、ここで自己紹介をしなくちゃいけない。(驚かせてすみません、僕はあなたと同じクラスの、)――なのに、僕の口からは「帰らないんですか?」と、おそらくこのタイミングではふさわしくない問いが零れる。彼女はやっぱり、誰?とも、いきなり何?とも言わず、目を細めて小さな声で呟いた。

「傘を持っていないから。私、雨に濡れるのはイヤだから。帰らないの」

ざあざあ、雨の音がバックミュージックとなって、彼女の呟きは不思議な雰囲気を纏い僕の耳に届いた。普通に聞けば、彼女は僕の「帰らないのか」に素直に答えただけ、なのに。彼女の言葉に含まれた、やんわりとした拒絶が、僕をはっとさせる。瞬間、廊下から聞こえた誰かの騒がしい笑い声、ばたばたと走る音。それにほんの少し顔色を曇らせた彼女は、僕から目を逸らし、窓の外へ向き直った。(ああ、そうか。彼女には傘が必要なんだ。この部屋から一歩踏み出した時、自分を濡らさない為の、雨をしのぐ為の、傘)

「一緒に、帰りませんか。傘なら、僕が持っていますから」




Baby Don't Cry/鳴上


人混みには慣れた。ぶつからないように歩けるようになった。数年前は、大きな交差点一つ渡り切るのも大変だったのに。地元には無くて名前も知らなかったお店の美味しいメニューも覚えた。満員電車での息の仕方も身についた。私はこの「街」の歩き方を、街での生き方を、覚えた。身につかないものといったら、人恋しい夜のしのぎ方くらいだ。一人暮らしって思っていたよりずっとずっと、心細くて寂しいものだった。そんな柄じゃないだろって地元の友達は笑うかもしれないけど、ふっと寂しくなる夜が、たまにあるんだ。私が弱いだけだろうか。他の人はどうやって、あの夜を乗り越えるんだろう。なんて。考えるのも、なんだか少し馬鹿馬鹿しく感じてしまう程度には、最近、溜息が増えた。

――俺、両親が仕事忙しくて、いつも家じゃ一人だったんだ。ひとりで過ごす夜って、案外こわくって、闇が深く思えるんだよ。

そう教えてくれたのは、誰だっけ。背が高くて、綺麗な顔をしていて、銀色の柔らかい髪が揺れていて、ああ、あの日屋上で、教えてくれた人がいたなぁ。都会的な見た目をしていた男の子。今まで周りにいなかったタイプの男の子で、みんなすぐに夢中になったっけ。いろんなことを教えてくれて、話を聞いてくれて、背中を押してくれる、頼もしい男の子。都会で夢を追いかけてみたいって話した私を、笑わずに応援してくれた人。もう何年も前になるけれど、あの当時彼にそんな話をしていたから、今こうして、この街で過ごしている自分がいるんだと思う。(なつかしい、な。)

そう、思い出に浸っていたときだった。人の溢れる交差点、少し離れた人混みの中に、たった今思い返していた「彼」によく似た人物を見た。背の高い男の子。なつかしい笑顔。まさか、って思った次の瞬間には、間違いなく彼だ、と確信に変わっていた。彼も都会に戻ってきているんだから、街で出くわしても不思議じゃない。最近すっかり、連絡を取っていなかった。けれどたった一瞬見かけただけで、私の頭は、悠くんでいっぱいになる。話したい。話を聞いてほしい。また、前みたいに。

悩みも、愚痴も、全部。どうしてか、彼に話せば自分が軽くなるって分かっていた。分かったうえで、悠くんに甘えたくてしょうがなかったんだ。押し付けて、自分が救われようと必死だった。思わず駆け出そうとした自分の足は、彼の隣を歩く見知らぬ女の子を見た瞬間にぴたりと止まる。彼女に笑いかける悠くんの穏やかな表情も、幸せそうな彼女も、私をはっとさせるのには十分すぎた。

――お前なら、大丈夫だ。やれるよ。きっと、強いから。

いつか、彼に言われた言葉がふいに私の背中を押す。あの当時、進む勇気をくれた声。私の足は勝手に、悠くんのいる方とは反対方向へ歩き出す。元来た方向へ押し戻す。だけど、その方向こそが、私が真っ直ぐ進まなくちゃいけない道なのだと、気づいている。そうだ。悠くんに頼るのはきっと楽だろう。たくさん力をくれるんだろうって、分かる。だけど、私は今、彼に頼るべきじゃないんだ。大丈夫な私でいなくっちゃ。そうでなきゃ、あの日の彼の言葉が無駄になるもの。弱いままじゃ、だめなんだ。いつかしゃんと背筋伸ばして、笑顔で、「久しぶり」「ありがとう」が言えるまで。今は、まだ、きっと会えない。ちゃんと前を向いて、歩いて行かなくっちゃ。わらって、笑って、大丈夫。


「――悠?どうしたの?」
「ん?…ああ、いや、誰かに呼ばれたような気がして」
「知り合いがいたの?」
「いや、多分俺の気のせいだよ」
「そう?」
「ああ。…俺に頼らなくっても、もう大丈夫みたいだから。呼ばれたのは、気のせい」




ほしぞらすけっち/幸村


出会いも、きっと、一冊のスケッチブックだったと思う。たまたま幸村くんが床に落ちた私のスケッチブックを拾い上げてくれて、開いてあったページに描かれた風景の絵を見て、「きれいだね。君、絵が上手なんだ」と笑ってくれたのが、始まり。私は彼の笑った顔を見ながら、「私の絵なんかよりこの人の笑った顔のほうがきれいだなあ、見たことないくらいにきれい」と見当違いなことを思ったっけ。

「空の絵がいいな。描いてくれるかい?」

彼が倒れた冬。病室へお見舞いに行った日のこと。こんなつらい思いをしている幸村くんのために自分はなんにもできないんだ、と悔しくなって、喋っている内に泣きだしてしまった私に、彼は言った。君の絵が見たいなって。小さな、囁くくらいの細い声で。真っ白い顔をした幸村くんがそっと笑うのを、私はなんにも言わず見つめていた。描いてくれる?と尋ねられて、私はほとんど無意識に、大きく頷いた。

だけど、描いても、描いても、きれいな空が描けなくって、一つも満足にいかない。幸村くんの見たい「空」は、どんな空だろう。青空?夕空?夜空?それはどんな色の。晴れた空なの?星のたくさん見える空なの?彼には空が、どんなふうに見えているの?

絵が完成しないままに、幸村くんの手術の日程が決まる。
どんな病気なのか、どんな手術なのか、成功する確率はどれくらいなのか、失敗したらどうなのか、私はそれらを何も詳しくは訊けないまま、一枚の絵に向かう。「会いに行かないのか?」そんなふうに声を掛けてくれる人に首を振って、私は絵の具を筆に取る。手術の結果を聞くための携帯電話の電源を切って、私は、ひとり、絵と向き合う。

ひとつ色を重ねるたびに、なぜだか不安が重くなっていく。手術は成功するに決まってるよって思うのに、不安が、どんどん、どんどん積もる。記憶の中の幸村くんの笑顔が、すこしずつ、薄れていくような錯覚。色を重ねることが怖くなっていく。携帯の電源を入れたら、誰かから聞けるだろうか。幸村くんは、どうなったの。まだ、私に笑ってくれるの。

なぜだか、この絵を完成させなくちゃ、いけない気がした。手を止めたら、私はもう二度と筆を取ることができなくなる気がした。なのに、この絵を完成させたとき、笑って「きれいだね」と言ってくれる彼が、もし、いなかったらと、嫌な想像をしてしまう。どうして弱気になるんだろう。どうしてこんなにこわいんだろう。描いてる内にぽろぽろ涙が溢れて、絵の具で汚れた腕で頬まで伝ったそれを拭う。描いて、拭って、描いて、拭って、拭って、繰り返している内に、とうとう筆を動かしていた手が止まり、私は俯いて小さく嗚咽をもらす。

「どんな色の空になるの?」

耳元で聞こえた声と、筆を握る右手に重ねられた別の手のひらに、私は目を見開いた。顔を上げて、声の主を見る。あの日の、細くて消えてしまいそうな小さな声じゃない。はっきりとした声。

「…わかんない、わかんないよ、何色で塗ればいいのか、全然、分かんなかったの…」
「俺が、傍にいなかったから?」
「うん…」
「そう。じゃあ、二人で」

空を、見に行こうか。二人で見たかった空を。




LONELY STAR/神宮寺


「噂の二人が生放送で共演。噂についての言及があるのか?って、一部ではもちきりだよ」
「生放送で共演って。ただの歌番組でしょ。あたしは司会の人と喋って、カメラの前で歌うだけだよ」

レンとは同じ画面に映りすらしないように、隅っこにいることにするわ。そう言って長く伸びた髪を後ろへばさっと払ったら、目の前の色男はふっと口元に笑みを浮かべた。「余裕だね」っていうつぶやきが、ちょっとだけ嫌味だ。余裕なのは、そっちのくせにね。人気アイドルグループST☆RISHのレンが今期待の女性シンガーソングライターと熱愛疑惑。世間で数日前から騒がれてるスキャンダル。あたしだって、その相手が自分じゃなかったら面白おかしく騒いでいたところだ。いや、同じ「テレビの中の人間」として、それはナシなのかしら。

「二人で飲みになんて行くんじゃなかった。まさか撮られるなんてさ」
「そうだね。俺も少し配慮が足りなかったよ」
「たくさんのレディたちを悲しませちゃってるよ」
「それに、君のファンにも悪い」

いや、あたしのファンより圧倒的に、あんたのファンのほうが多いし。愛もたぶん重いし。桁違いなんだけど。事務所に爆弾とか送られてくるかな。殺害予告とかされないかな。とか、口にしたらたぶん彼は、めずらしく悲しそうな顔をするだろうから、言わない。それに、レンの場合は「アイドルグループ」だ。他のメンバー達にも迷惑がかかってる。あたしは、ひとりで歌うから、相方も他のメンバーもいないけど。埋まるときは、一人だけど。いや、ここまで押し上げてくれたファンや関係者を蔑ろにするわけじゃないけども。

「ねえレン、このあいだのことは、全部忘れてね。酔ってただけだから」

顔も見ずに呟いたら、レンは数秒黙って、「例えばどれを?」と尋ねる。「性格悪いよ」と文句を言ってやると、彼が肩を竦めたのが視界の端に映った。だけど、これでお互いはっきりするのだ。噂を本当にするつもりは、これっぽっちもない。あたしたちは誤魔化す。やがてその噂が風化するまで。ちょうど今日の曲は叶わない恋に苦しむ女性の歌だけど、べつにレンのことを思って書いたものなんかじゃないし。

だけどさ、あたしも人間だからさ、普通の人間だから。目の前の男と恋に落ちる少女漫画みたいな展開を、想像してみることもできるんだよ。きっと、彼には出来ないだろうけど。

「じゃあ、また本番でね、レン。べつに本番中喋らないけどね」
「OK、本番で。――あ、そうだ、言い忘れてたけど」

今回の曲、すごくいいね。その言葉に、あたしは一瞬息を呑んで、すぐに、小さく笑う。「ありがとう」って、素直にお礼言って、今日も、ステージに向かうの。さっきの息を呑んだ一瞬にね、ああレンのファンに殺されるのもいいなって思った。けどほんの一瞬だったよ。だってあたし、やっぱり、ここで歌い続けたい。歌っていたい。この場所で、ひとりで、誰かのための歌をうたうの。誰かを想う、歌を。

さあ、歌って。




youthful days/宮地


例えば。わけもなく会いたくなったときに、俺は「会いたい」とメールを送るだろうか。電話を掛けるだろうか。ふいに浮かんだ疑問。俺はいつもどうしていたっけな。テーブルで缶チューハイ握りしめながら突っ伏してる女の頭のてっぺんを眺めて、考える。俺、会いたいとか口にするキャラだっけか。言ったことあるっけか。自分で覚えてないだけで、あるんだろうか。ポケットから携帯を取り出して、送信済みのメールを上から読み返してみる。大体が一行で終わる簡潔かつそっけないメール。「ふざけんな」とか「バーカ」とか「轢くぞ」とか。自分で読み返してみるとなかなかに笑える。鼻で笑える程度だけど。ほぼ同じような返答しかしてねえ。

俺はさらに考える。じゃあ、なんでコイツは、俺が会いたいと思ったときに、会いたいと訴える暇もなく俺の傍に来てくれんだろうか。気づいたら、いるんだろうか。表には出さないけど内心すげーへこんだときとか、イライラしてどうしようもないけど誰かと話してスッキリしたいときとか。俺から「会いたい」なんて言ってないのに、いる。今みたいに。眠ってもなお手放さない缶を人為的に俺が取り上げると、もぞもぞ動いて何か文句を言った。寝言だと思うので無視しとく。

缶を取り上げられてもむにゃむにゃ言いながら結局は幸せそうに寝ているヤツの髪をわしゃわしゃ撫でながら、俺はさらにさらに考える。コイツから「会いに行ってもいい?」と訊いてくることは、あるよな。来なくていいっつっても、来る。けど、来られたらマジで八つ当たりしそうなくらいいらついてて本気で来てほしくないときの「来なくていい」は、ヤツも素直に従う。逆に、俺が行こうとしたとき、「行ってもいいか」と訊く前に、相手が「来てほしい」と言ってくる。俺はいつも、なんとなく気恥ずかしくて言いづらいことを言わずに済んでいた。

なんでだ。

「私エスパーなんだよ。だって宮地の考えてること、すーぐわかるもんね」

目を覚ますと、ヤツは得意気にそう言った。これには、さすがに俺も驚く。「宮地のしてほしいこと、わたしいつもわかるよ。なんでだとおもう?」ソファーに座ってる俺の隣にぼふっと腰を下ろし、にやにや笑って、目を覗きこむ。「たぶんね、私が宮地のことしか考えてないからだよ」

ふうん。「それでね、宮地もわたしのことばーっかり考えてるからだよ」

いやいや、お前と一緒にすんなよ。俺はお前ほど単純じゃねーぞ。「あのね、案外、いいもんだよ」

何が。「宮地のことだけ考えてるの。楽しいんだよ」

こいつの言い分を、まあ好きなら当たり前だろう、なんて言えるほど自分が同じだけ応えられてる自信は無かった。なぜなら俺は、自分から「会いたい」と一言言うことすらできていない男だからだ。いつも、エスパーであるコイツの先回りに甘えている。なんか癪だな。――それでも、こいつの言っていることは、きっと正解なんだろう。俺の気持ちを先回りできるのは、こいつがきっと俺のことをいつも考えているからで、俺がこいつのことばっかり考えているからで。それはきっと、「案外いいもん」なんだろう。俺たち二人の世界というものは、頭が足りてないんじゃねーかってくらい単純だ。お互いがお互いのことばかり考えていて、二人でいられればいいと、思ってしまう程度には平和。

「宮地が今したいことあててあげる」
「…やってみろよ」
「あのね、」

こればっかりは先回りさせてやんないけどな。胸の内だけでそう呟いて、言葉を続けようとした唇を自分のそれで塞ぐ。それから、抱きしめて、それからは、どうしてやろうか。言葉を遮られてさぞ不満そうだろうと思ったのに、腕の中からはくすぐったそうな、楽しそうな、幸せそうな笑い声が聞こえた。この様子じゃ、アタリだったんだろう。俺の考えてること。俺のしたいこと。抱きしめる力をいっそう強くしながら、ああ俺コイツとじゃねーと駄目かもな、とか、ぼんやり考えた。口にはしてやらないけど。(でも多分、伝わってんだろ)