足りない背伸び


「あ、いらっしゃいませ!安吾さん!待ってたんだよー!」

 足音に気付いた少女が酒場の入口を振り返った。振り返った、と云っても、カウンター前に一列で並んだバー・スツールの内、私の隣、つまり入口からは奥側の席に座っていたせいで、背の小さな彼女は首を捻ったくらいでは私の体が遮蔽物になり入口からやって来る人間がよく見えない。なので少女はそちらを見る為に一度上半身をカウンターテーブルから大きく離し、頭に血が昇るくらいに仰け反って入口の方へ向かってぶんぶんと両手を振った。背凭れの無い丸椅子に座ってそんな事をすれば後ろへ頭から落ちること間違い無しだったので、私は事前に彼女の行動を読み、無言のまま然りげ無くその背中に腕を回し、落下を防いだ。
 少女の熱烈な歓迎を受けた学者風の青年は、呆れた様な溜息を吐いて丸眼鏡の縁を押し上げると、カウンター奥のマスターへ「いつものを」と注文した。安吾が一番手前の、私の右隣の席へ腰を下ろすと同時に、マスターは安吾の云う「いつもの」を置く。このバーテンダーは仕事が早い。安吾が常連客だと云うこともあるが、入口から足音が聞こえた時点で既に作り始めていたのだろう。しかし自身の前に置かれた液体に目を向ける前に、安吾は私の左隣に座る少女にいつもの様に「教育」を始めた。間に挟まれた私はとりあえず邪魔だろうから、体を少し後ろへ傾け、二人が顔を合わせて喋りやすいように気を遣った。

「この場合『いらっしゃいませ』は店内で働く人間が遣う言葉では?」
「でもマスター、いらっしゃいませ云わないよ。それなら代わりに誰か云わなくちゃ!ねぇマスター!」
「恐れ入ります」
「それに、お出迎えの言葉でしょ。いらっしゃい!って。来てくれて嬉しいよって意味なんだから、間違ってない!」
「はあ、そうですか。何故待っていたんです?僕に何か用事でも?」
「ううん、会いたかっただけ!」

 ぱっと花が咲いたように笑う少女に安吾が一瞬面食らって、だけどすぐに動揺を誤魔化すようにふぅと溜息を吐き、肩を竦めた。やれやれ敵わないなというジェスチャーを見せると、安吾はカウンターの向こうのマスターへ目で合図する。最初から判っていた様にすぐさまマスターがオレンジ色の飲み物を少女の目の前に置いた。色を説明する必要も無いか。ただのオレンジジュースだ。その液体の入ったグラスをきらきらした目で少女はいろんな角度から観察し、安吾の方へまた満面の笑みを咲かせてから、嬉しそうに口をつけた。

「良かったな、
「うん!安吾さんが奢ってくれた!」
「おや成る程。その為に煽てられたんですか、僕は」
「えっ、違うよ!ほんとうにほんとうに会いたかったし待ってたよ!」
「ええ、判ってますよ。冗談です。貴女は嘘が吐けませんから」
「安吾安吾。私も安吾に会いたくって会いたくって胸が張り裂けそうだったよ。何か奢って」

 私の隣の隣。つまりと呼んだ少女の隣、一番奥の席から声が投げ入れられる。先ほどから喋らなかったので寝ているのかと思ったが、太宰はしっかり起きて、空になったグラスをこれ見よがしに振っていた。安吾は呆れた様にじっとりとそちらを睨む。

「残念ながら僕のこのサービスは嘘が吐けない純粋な方のみが対象です」
「あらら。安吾ってばちゃんには甘いんだから」
「太宰さん、お金ないの?オレンジジュース半分飲む?」
「えっ本当?優しいねぇ。ちゃんと飲み物の半分こが出来るなら無一文でもいいや」
「早速純粋な少女を利用しないでください」
「財布を忘れたのか?仕方ないな、それなら…」
「織田作さん。貴方まで騙されないでください。彼、僕が来る前に何杯か飲んでいるんでしょう」

 そういえばそうだな、と私が納得するのと同時に、太宰は蟹缶をマスターに二つ注文し、その内の一つをの前に置いた。するとは嬉しそうに太宰の食べ方を真似て、その蟹の身を指でつまむ。どう見たって酒が飲めるような歳ではないでも、この酒場はお気に入りだ。なんたって座ってにこにこしているだけで、ジュースと蟹缶が目の前にやってくるのだから。

「…今日も理由なく集まってしまいましたね、この場所に」
「そうだな。俺が来た時には太宰達はもう既にいた」
「私は店の前でちゃんと鉢合わせたよ。二人同着で今日の一番乗りだ」
「えへん、いっちばーん!一人じゃ入れてあげられませんってマスターに前云われたからね、誰か来るのを待ってたんだ」
「まァ、子供が来る所じゃないからね」
「子供じゃありません!立派なレディなのです」
「立派な淑女は二桁の足し算くらい出来ますよ」
「できますとも!」
ちゃん、十八足す十は?」
「えーとね…きゅうじゅう」
「惜しい」
「惜しくありません」
「繰り上がりは苦手なんだ!」
「それ以前の問題です」

 三人がワアワア云っている間、私はちらりとカウンターの奥のマスターを見た。グラスを拭いていて、視線はわざと此方に向けない。の事もすっかり常連扱いしているかと思いきや、誰かと同伴でないと店に入れないというのは初耳だ。当然と云えば当然なのだろうか。はまだ子供だ。見た目も中身も幼い。酒も飲めない。そんな彼女が当然のようにこの場所へ足を踏み入れているのは、確かに、私達三人の内誰かしらが一緒に店へ入ってやるからだ。
 しかし私達は、これといって日にちを決めて集まっているわけではない。気が向いたら誰かが此処に立ち寄って、何故か他の連中もやってくる。そんないい加減な会合だ。私達三人は他の連中がやって来なくても一人で酒を飲んで帰ることができるが、の場合、ふらっと立ち寄っても店の中へ入れてもらえないのでは、三人の内誰もやって来ない日は店の前で待ち惚けをくらうことになる。いつも何分程待ってから諦めるのだろうか。ぱっと諦めて帰るような奴にも見えれば、ぽつんと店の前で朝まで待っていそうな奴にも見える。私はあまり、の本質を知らないのだろう。彼女が何を思って此処に在るのか、よく知らないのだ。

「どうかしたの?織田作さん」
「いや…そういえば、俺はの連絡先を知らないなと思ったんだ」
「携帯電話持ってないよ?」
「そうか。それなら仕方ないか…」
ちゃんは謎の女だからね。私達ではその尻尾を掴むことなんて出来ないよ、織田作。抜け駆けは止め給えよ。私でさえ無いんだから。ちゃんとの連絡手段。デートに誘う手段がね」
「なぞのおんな!ミステリーな響きだね!」

 どういうつもりで太宰が私の言葉を「抜け駆け」と称したのかは判らないが、特に意味は無くふざけて云ったのだろう。私の言葉にだって特に他に意味は無かったのだが。ただ、連絡先が判れば、私達三人が集まった夜に「お前も来ないか」と誘う事が出来るし、逆にだけが此処へやってきた時には一つ電話さえくれれば自分も向かう事が出来るな、と思っただけだ。安吾はそんな私達の会話に深く溜息を吐き、呆れた声音で太宰を窘めた。

「太宰君、やめてくださいよ?こんな歳の女の子にまで」
「そうは云ってもね。こう見えて私、ちゃんのボーイ・フレンドの一人だもの」
「そうやって子供をからかうのをやめなさいと云っているんです」
「なんで?大歓迎だよ!男の友達だよ?ボーイのフレンドだよ?」
「ほらね公認だ。私とちゃんはそれはそれは仲の良い友達だから」
「友達はよく選ぶように」
「安吾さんは友達になってくれないの!?」
「えっ」
「ひどいよ安吾!いたいけな少女の望みをこうも踏み躙るなんて!」
「太宰君は黙ってくれませんか」
「織田作さんは!?友達だよね!?」

 今まで友達だと思っていたのは自分だけなのか、と酷く狼狽えた様子で私を振り返ったに、きょとんとした顔で応える。泣き落としでも始めそうな潤んだ目で見つめられて、ふむ、と私は少し考えこむ素振りをみせた。それにすら少し落ち込む様な顔を見せただが、不意に自身の前に置かれたジュースのおかわりに、コロッと機嫌を直す。私が頼んだのとほぼ同時にグラスを置いたマスターは一体どれ程勘が良いのだろう。
 とにかく、この一杯が、に対しての返事としたい。

「しかし友達と云っても、僕と貴女では年齢も立場も違いますから」
「はは。そんな事を云ったらちゃんを抜かした我々だって、年齢も立場も違う集まりじゃない?」
「それはそうですけど。もう少し歳の近い、女の子と女の子らしい遊びをした方がいいのでは?」
「友達ひゃくおくにん作るのが夢なんだから!女も男も関係ないよ!」
「百億人は多いな」
「人口が追い付いていませんよ」
「人類以外をも友達にすると云うちゃんの意気込みじゃない?」
「それに例え安吾さんが友達になってくれなくても太宰さんとは友達だもん。安吾さんが太宰さんの友達ならすなわちと安吾さんも友達。織田作さんも友達。みんなともだち!」

 得意気に痩せた胸を反らすに、安吾が苦笑し、太宰は「それもそうだね」と感心したような芝居で深く頷いた。は隣に座る私にも同意を求めて視線を寄越したので、太宰を真似るように頷いた。

「良いね。限りの無い素敵な友情の輪に乾杯」
「太宰君が云うと胡散臭いんですよ」
「えー。安吾が云っても中々だと思うけどなぁ」
「友達百億人にする為にはあと何人くらいなんだろう?」
「さあ、どうだろうな。まだまだ遠いと思うが…」
「あ、そうだ。じゃあ今度私の部下を紹介するからさ、友達になってみない?」
「えっ本当!?なるなるー!」
「良いのか、太宰。勝手に決めて」
「どんな人物か会ってもいないのに即答する彼女も彼女ですが」
「私が直々にスカウトした子がいるんだけどね。これがちっとも周りを見ない一匹狼状態で、中々頑固だ。組織に入ってから、友人も作らない。寂しいだろう?ちゃんさえ良ければ、遊んでやってよ。缶蹴りとか」
「二人で缶蹴りか?」
「織田作も混じりたい?」
「否、遠慮しておこう」
「じゃあ綾取り?」
「わーい!楽しみ!仲良くなれるといいな〜」

 太宰の提案を無邪気に喜ぶを見ながら、安吾が苦い顔で「良いんですか。噂に聞きましたけど、その彼、かなり攻撃的な異能を所持しているらしいじゃないですか」と太宰に小声で云った。安吾と太宰は私達四人のカウンター席の端と端に座っている。当然ながら二人の会話は私とを挟んで行われるので、耳打ち等と云う程内緒話では無い。私にも聞こえる会話だ。には聞こえていないようだったが。否、聞いていないようだったが。安吾の言葉に私も少し不安がある。しかしそんな私達の心配を適当に手で払い、太宰は云う。

「大丈夫だよ。ちゃんに彼が危害を加えるようだったら私がきつくお仕置きしておくから」
「それも勝手な気がしますが…突然上司から赤の他人の女の子を紹介されて『この子と仲良くね』と云われて、其れを破ったら罰が下るなど…」
「まるで過保護な親の様だな…」
「当然。もし彼女に何かあったら君達は怒り狂うだろう。其れが怖いので、扱いが丁重にもなるさ」
「…つまり過保護なのは太宰君でなく僕と織田作さんだと?」
「ああ否、もちろん私も数に入れよう。私達は皆、ちゃんには甘いよね。可愛くって仕方が無い」

 笑って、太宰は視線を我々からに移した。「ね。ちゃん」と、話の流れを全く聞いていなかったであろうに話しかける。するとはグラスに付けていた唇を離して、太宰へ笑う。「うん!すっごく楽しみだよ!」と。矢張り私達三人の話は聞いていないようだった。
 私と安吾はお互いの顔を見合わせた。けれど直ぐに眼鏡の向こうの瞳が穏やかなものになったので、きっと私も同じ様な目をしたのだろう。お互いに、否定は出来ないようだ。
 ふと思い付く。太宰を真似る訳ではないが、私にも何人か、と友達になれそうな子供達のアテがあった。洋食屋に預けられた孤児の顔が順番に頭に浮かぶ。歳はばらばらな子供達だが、このが相手なら、問題無いだろう。年上とも年下とも接する態度は変わらなそうだ。五歳児、三歳児、否、零歳児とだって対等に渡り合える気がする。にはそんな無邪気さが有った。若しかしたら本当に、人口と時間さえの願いに追いつけば、百億人の友人作りも夢じゃないかもしれない。否、人口と時間が実際に追いつくわけが無いのだから、夢は夢で終わるのだろうが。

「…ところで、マスター」

 今度から、もしも自分達がいない日にがこの場所へ入りたがったら、その時は、出来れば、店内に入れてやってはくれないだろうか。のことだ。雨の日でも雪の日でも、ふらっと、他人に会いたがる事だろう。会いたい人間に、会いたいという理由だけで、会いに来るのだろう。そんな気がする。――その件を頼み込もうとしたのだが、私が何か続きを云うより先に、マスターがスッとグラスを置いた。明るい色をしたその液体を私は見つめて、数秒経っての手元を見た。また空になっている。ああ、そうか、と独りでに納得して、「、」と、その名前を呼んだ。はグラスに気づいて、ぱっと笑みを浮かべる。

「おかわりだ」
「ありがとう!」

 べつに、マスターへ声を掛けたのは、おかわりをやってくれ、という意味では無かったんだが。けれどまァ、いいだろう。を待ち惚けさせない為に、これからも三人の内誰かしらが、きっと、此処へやって来るのだろう。雨の日でも雪の日でも、が居そうだな、と思った途端、駆け付けるのだ。その度彼女はタダで飲み食いが出来て、こうして笑顔を浮かべるのだろう。友人との他愛ないお喋りをこうして、楽しむのだろう。