ぼくが幸せだったわけ


「太宰君のその生き物は足の付き方がおかしいんですよ。あと口も、というか目も、いや全部ですね」
「ちょっと安吾、君ね、ちゃんに甘いのは善いけど私に厳しすぎない?」
「太宰さんの猫も可愛いよ!ギニャー!って鳴きそう!」
「流石はちゃん。見る目がある」
「ぎにゃーってなんですか。猫じゃないですよ、それ」
「心が純粋な人間には見えるのさ。猫に」
「こんな見る人の心を不安にさせる生き物いませんよ」

 酒場のドアを潜ると、そんな声が耳に届いた。一段、また一段と階段を下りると、その話し声はより私と距離を詰める。階段を下りた先のカウンターの席には、見慣れた顔が三つ。最初に目が合うのはいつだって、小さな少女だった。私の方を振り返って、腕を広げ、背凭れのない椅子に座っているのも忘れて後ろに大きく仰け反る。彼女の隣に座っていた太宰がすかさず「おっと」と、その背中に腕を回した。落ちはしなかった。

「織田作さんだ!お疲れ様ー!」
「…ああ。お疲れ様。随分楽しそうだな。何の話をしていたんだ?」
「聞いてくれ、織田作!安吾ったら酷いのだよ、全く」
「織田作さんからも云ってあげてください。酷いのはその絵の才能だ、と」
「織田作さん見て見てー!」
「ふふふ、いいとも。では織田作に聞いてみよう。此れが何に見えるかを!」
「じゃじゃん!何に見えるかを!」

 の手前の席に座って、太宰と、二人が突き付けてくる紙に目をやる。店にやってくるなりこんな様子では酒を頼む暇も無かったが、常連だということもあって、何も訊ねずにバーテンダーがいつものグラスを私の前に置いた。それに一先ず安心してから、二枚の紙にますます目を凝らす。
 手前にあるの紙には、猫の絵が描いてあった。三毛猫らしい。色の付いた鉛筆は使っていないが、薄く色を塗る箇所と、濃く色を塗る箇所で描き分けられており、一目見てその模様が三毛だと判る。なかなかに上手い。恐ろしく写実的な上手さという訳でもないが、誰が見ても猫だと一目で判るだろう。そしてそのの奥に座っている太宰が見せつけてくる紙には、…これは、一体何だ?五本足の生き物に見えるが。眉を寄せて考え込む私を見て、一番奥の席に座っていた安吾が「そうでしょうそうでしょう」と云う様に深く頷いていた。しかし手前の太宰とは依然、何かを期待するような目で私を見つめてくる。正解を探してやらなくてはいけない。いや、の絵は猫だと判るが。
 そういえば、先程、階段を下りてくる時の会話の中にヒントが有ったような。が「太宰さんの猫も」と口にしていなかっただろうか。口振りからして、二人で同じ題材を使って絵を描いたのではないか。「太宰さんの猫も」と云うからには、太宰が描いたものは恐らく、否、本当に恐ろしいことに、猫、らしい。

「……猫、か?」
「大正解!」
「ほうら、私の絵もちゃんと猫だと判るということが証明された。ポイントはこの愛らしい尻尾だよ」
「いえ、今のは織田作さんも、太宰君の絵ではなく彼女の絵を見て猫だと判断したと思いますが」
「…尻尾だったのか。足が五本有るのかと…」
「上手い?上手い?これね、三毛猫なんだよ!」
「ああ、は絵が上手いな。驚いた」

 自分もそれほど絵の才能に自信は無いので、あまり太宰の事を笑えないが、だからこその絵に感心したというのは事実だ。心から、上手いな、と云ってやると、はぱっと表情を明るくさせて、嬉しそうに両手を上げた。この歳になると両腕をそんなに目一杯上げての万歳なんてする機会が無いな、とこれまた妙にの行動に感心した。

「友達とするお絵かき対決ではいっつも負けちゃうんだ。だから上手って云ってもらえて嬉しいな」
「…こんなに上手く描けていても負けるのか?その友達は余っ程絵が上手いんだな」
「うん!上手!」
「善かったですね。太宰君との対決では圧倒的な差を付けて勝てますよ」
「まあねえ。ちゃんには勝てないかな」
「じゃあもっと練習して上手くなるね。そうしたらもっと褒めてもらえる!」
「今でも十分上手いぞ」

 私が来る前にどんなやり取りがあって絵描き対決になったのかは知らないが、どうやら本当に、普段から絵を描く事が好きらしい。彼女が取り出した私物であろう一冊のノートは、ぱらぱらと捲るのを盗み見た程度だが、ほとんどの頁が落書きで埋まっているようだった。太宰がテーブルの上の皿に敷き詰められたチョコレイトを一粒摘んで、「それじゃあ」と話を切り替えるように云った。

「折角だから他にも何か描いてほしいな」
「うん!何描けばいい?」
「そうだねえ…矢張りモデルが良くないと良い絵は描けないだろうし…あ、私の似顔絵なんてどうだい」
「直前の言葉の流れで頼みますか、それ」
「おや、安吾も描いてほしいらしい。でも駄目、順番だよ。今日は私が頼んだのだからね」
「はいはい。どうぞ、僕は結構ですので幹部殿に御譲りしますよ」

 肩を竦める安吾に、勝ち誇ったように笑う太宰。そのやり取りを目をぱちくりさせながら聞いていたは、やがて手を叩いて「じゃあ二人とも描く!」と宣言した。そして頁を一枚破ろうとして、すぐに気が変わったのか破らずに直接書き込みはじめた。鉛筆を動かしながら、紙と太宰の顔を交互に見る。私はそんなのノートを覗き見ながら、蒸留酒を一口飲んだ。気が散るだろうか。人に見られながらは描き辛いだろうか。そうも思ったのだが、描き始めるとの手は一切止まることは無かった。機嫌良さそうに胸を反らし、脚を組んだ太宰は、「格好良く頼むね。脚は長く」と茶化すように注文を付ける。「勿論!」と素直に返事をするに、奥の席で安吾が少し笑った。

「終わったら安吾さんね!」
「僕はいいですよ」
「いいじゃない。きっとちゃんの事だから、男前に描いてくれるよ」
「その後はね、織田作さんも描くね」
「俺の事も描くのか?」
「うん!みんな隣同士に描くからね」

 云いながら、視線は此方に寄越さず手の動きを止めない。紙の上にみるみる一人の男の絵が浮かび上がる。特徴を捉えた良い絵だな、と思った。猫よりは、絵のタッチが幾分可愛らしいものになっているが、人物の似顔絵を描くときはそういう風になるのが流なのかもしれない。熱心に、そしてどこか楽しそうに、絵を描き進める横顔を見ながら、私はグラスの中の液体を少し揺らして、に云った。

「そうか。それなら、自身の絵も描かないとな」

 熱心な横顔はその言葉に少し驚いた顔に変わって、そんな表情のまま、私の方へ向けられた。瞬きを何度か繰り返して、コテンと倒れるようにの首が傾く。「?」と、耳に入った言葉そのままを口にする。すると太宰がくつくつと肩を揺らして笑いだした。其れに気付いて今度はの顔はそちらに向けられる。

「いいね。その通りだ。私と安吾に織田作、その三人が揃っているのなら、其処にはちゃんの姿もなくっちゃね。ねえ?」
「…そうですね。きっと、良い絵になると思います。完成が楽しみだ」
「……うん、じゃあ、四人描くね!太宰さんと安吾さんと織田作さんとー…」
ちゃん。四人で完成だね」

 ぴ、と人差し指を立てて笑った太宰を真似る様に、も人差し指をぴんと立ててへらりと笑った。そして、描きかけの絵にまた向き直る。頬杖を付いて其の様子を眺める太宰。時折、細かな注文も入れる。其れに安吾が呆れて額を押さえ、溜息を吐く。私はそんな彼等と過ごし更けていく夜に、少し、愛おしさのようなものを感じていた。