五
「。“やること”はもう終わったのか?」
部屋へ戻ると先程自分が風呂へ向かう時と全く同じ場所に、一歩も動かず、が座っていた。こちらを振り返り、目が合うと、ぱっと立ち上がる。何かそれまで作業をしていた風にも見えない。ただ、私が部屋へ戻ってくるのを待っていた様に思える。此方の怪訝な眼差しに構わず、は私に向かって手招きをした。その行動の意味は判らないまま、私は促された通りに近寄る。
「織田作さん織田作さん、座って!」
「…それはいいが…」
その場に腰を下ろすと、が私の背後に回った。何をする気だ、と落ち着かなかったが、そう思った直後にタオルが頭に被せられた。ん?と頭上を確認するように僅かに首を動かすと、後ろからひょいとが顔を覗き込んで来る。タオル越しに小さな手の平が私の髪に触れて、少し前の私の行動を真似るように、その手がわしわしと頭上で動き出した。
「…“やること”は、これか」
「うん!おかえし」
他人の手がこんな風に髪に触れるというのは、やけにくすぐったいものだ。新鮮な様な、懐かしい様な、不思議な感覚だった。この「お返し」をする為に、まだ起きていると云ったらしい。この部屋に、髪が濡れた私が戻ってくるのを大人しく待っていたらしい。成る程。はせっせと真面目に髪を拭いていたが、途中から鼻歌やら、何かの鳴き声のような唸り声を零し、最終的にはこれでもかというくらいわしゃわしゃと手を動かして、その後私の正面に移動してけらけら笑った。
「ふふ、織田作さん髪の毛ぐしゃぐしゃ〜」
「…腕の悪い床屋に当たったようだ」
「あははっ!へんなの!」
「よし。お返しの次は“仕返し”だな」
腕を伸ばして、の髪に触れる。おや、と相手が目を瞬いた隙に、わしゃわしゃと髪を掻き乱してやった。さながら暴風域の中での番組中継を任されてしまったレポーターの様に、可哀想な髪型になる。我々二人の頭上にだけ台風が過ぎ去った様な具合だ。しかしそんな私の暴挙にも、は楽しそうな悲鳴を上げていた。否、悲鳴なのか笑い声なのか判らないけれど、笑い声の方が近いかもしれない。やめてやめて、と抗議の声を上げながら、その声は楽しそうだった。
「へへ、もうすーっかり乾いちゃったね」
「そうだな。元々短いからすぐ乾く」
そろそろ懲りたという頃に、お互い自分の髪を適当に整え、ふと、何の気なしに頭に浮かんだ疑問を口に出してみる。
「髪、伸ばさないのか?」
少年に間違えられるのは、その髪型も理由の一つかもしれないぞ。そう云ってみた。勿論、髪型だけでなく、服装等、他人の判断を鈍らせる要素は他にも有るのだが。それに、女子だから髪は長くなければ、なんて決まりもない。だから自分の発言は、特に意味もなく、“なんとなく”で口から出た言葉だった。もで、特に気にも留めない様子で「うぅーん」と曖昧に唸って、自分の髪の先を摘んだ。数秒何か考え事をして、ぱっと顔を上げて此方に向かって笑顔を作り、実はね、と弾んだ声で喋り出す。
「内緒にしてたけど、ボク、男の子なんだよ」
「…それは驚くな。“こんな可愛い子、女の子に決まってる。安吾ってば失礼な男だなァ”と安吾を笑っていた太宰が白目を剥く事になる」
「ほんと?白目剥いた太宰さん見たい!」
「お前が頼めばやってくれるんじゃないか」
「そっかー!…でも織田作さん、全然驚かないね。白目剥かないね」
「生憎、俺は太宰と違ってお前に頼まれても白目は剥けないんだ」
云われてみれば、よく判らない。初めてが我々三人の前に現れた時、安吾はの事を「そちらの男の子は?」と云った。それを聞いた太宰が「こんなに可愛いのだから女の子に決まっている」と主張した。二人が一斉に私の顔を見たので、「女じゃないのか?」と太宰の加勢に入った。これには私も何か胸を張って主張できる根拠は無かったので、それこそ、“なんとなく”だった。なんとなく、勝手に、女だと思っていた。しかし云われてみれば男にも見える外見なわけだ。今度は三人で一斉にの顔を見た。は三人分の目玉がぱっと自分の方に向けられたのが面白いのか、笑っていた。私も、そして恐らく安吾も、自分の主張には根拠がなく“なんとなく”であることを承知していて、他者に「それは違う」と云われれば簡単に曲げられる程度の主張だった。しかし太宰は違っていた。「女の子に決まっている」と断言したのだ。根拠は、「こんなに可愛いのだから」という、根拠と云っていいのか微妙なものだが。しかし我々の中で唯一自信を持っていて、「男だろう」と云われたら「そんな筈は無い」と突っ撥ねる程度の曲げられない頑固さが有った。
そんな太宰の「当然だろう」と堂々とした態度、そして多数決での勝敗により、安吾は早々に折れた。「子供とはいえ女性に失礼な事をしてしまった」「二人が当然の様に判る事を自分が判らなかった」という点を非常に気にして、落ち込んでいた。しかしの様子と云ったら変わらず楽しそうに笑って、「べつに男の子でもいいのに!」とよく判らないフォローを入れていた。
そんな、最近とも昔とも云えない記憶を懐かしく思いながら、今一度、目の前に居る人物をじっと見詰める。あの時結局、は「女だ」とも「男だ」とも云わなかった。服を剥いで確かめた訳でもない。けれど、「男の子でもいいのに」という言葉を聞く限りでは、女なのだろう、と勝手に思った。今でも私はこの人物のことを、女だろう、と思っている。根拠は無い、のであれば、太宰の云う「こんなに可愛いのだから」を理由にしてもいい。若しかしたらあの時の私と安吾も、本当は太宰の態度や多数決の結果なんかより、彼のその言葉に同意していたのかもしれない。
「うーん、マァどっちでもいいじゃない!わたしはわたしだし、ボクはボクだし、は!」
「…成る程。少年に間違えられる事、嫌ではないんだな。寧ろそう見えるのが判っていて直さない様に感じるが」
「そうだよ!だってだって、は男の人とも友達になりたいんだから。郷に入っては郷に従え、だよ。男の子と友達になるには、先ず自分も男の子みたいにならなくっちゃ!」
「………成る程」
二回目の「成る程」には、少し疑問符が付きそうな具合だった。そういうものなんだろうか。ごく自然に目の前の少女から告げられたとんでもない持論に、私は少し首を傾げたくなった。前々から「友達をたくさん作るのが夢」という話は彼女の口から幾度と無く聞いてきたが、まさかそこまでして、自分の在り方から全てを「友達作り」に費やしているとは思ってもみなかった。相手と友達にさえなれるなら、自分が女だと思われようが男だと思われようがどちらでも良いとは云う。その人物と友達になるのに都合の良い方の性別で接したい、と。
「だからね、織田作さんがのこと、女の子なのに髪短いの嫌だなー変だなーって思うなら、ボクのこと男の子だって思っていいよ。きちんと男の子になってみせるから!」
この少女は今までの十余年の人生を、ずっとそんな風に生きて、これからもそう振る舞う気でいるのだろうか。当然の事のように語るの様子が、どうしてか酷く、不安に思えた。
「…さっきのは、髪を伸ばせと云ったつもりじゃ無かったんだ。」
「え?」
「お前はそのままでいい。そのままでいいから、男にも女にもならなくちゃいけないなんて、俺や太宰達の前では考えるな。お前のしたいようにすればいいんだ」
普段の見慣れたこのが自然体ならば、そのままでいてほしい。もしもそれすら「友達になるため」の被り物で、本来のが別にあるのならば、その自然なを見せてくれて構わない。そういう意味を込めて、「したいようにすればいい」と云った。するとはきょとんと目を瞬かせて、首を右や左に傾けた後、此方の意図を判ったのか判っていないのか、笑顔で「そっか!」と手を叩いた。
「判った!じゃあ、そのままでいる!」
「ああ」
「ありがとう、織田作さん。あのね、織田作さん、優しくてだいすきだよ」
唐突に、がそう口にした。たった数秒前の、無邪気に歯を見せるような笑い方ではなくて、ふ、と柔らかく微笑んだ。そんな、いつもより大人びて見える表情も出来たのか、と妙に感心して、同時にその笑顔で告げられた言葉がむず痒く、私はどうしたものかと然りげ無く視線を泳がせる。子供が向ける濁りのない純粋さというものは、時折汚れきった悪意よりもよっぽど、大人の首を絞めるのかもしれない。
「……そろそろ寝るか。」
「うん!」
暫しの沈黙の末に口に出した、誰がどう聞いても誤魔化したようにしか聞こえない私の提案に、はいつもの機嫌良さそうな笑顔で頷いた。
「織田作さんお布団使って寝ないの?なんで?交換しようよ!」
「俺はいい。遠慮しないで使ってくれ」
「じゃあ一緒に寝る?それなら二人ともお布団被って寝られるよ!」
「駄目だ」
「えっ女の子だから嫌?じゃあ男の子だって思ってくれていいんだよ!」
「またそれか。さっきの話を聞いていなかったのか、。あと男でも同じ布団では寝ない」
「え…が男の子でも女の子でも一緒に寝てくれないの!?」
「まあそうなるが…性別は関係ないぞ。が客人だからベッドを譲るんだ」
「でも、織田作さんの方がお家の中では偉い人だよ?だって此処は織田作さんの家だもん」
「では偉い人の命令は絶対だな」
「絶対だね!」
「今夜はが一人でベッドを使うこと」
「ははあーっ!」
そんな流れで、直前まで渋ったのが嘘のように、は素直に寝床へ向かった。少しずつの扱い方が上達してきたような気がする。小さな自信が生まれた。誰に自慢できるものでもないが。私が電気を消すのを布団に入りながらじっとその丸い瞳で見つめてきたが、パチ、と部屋が暗くなった瞬間、の視線は感じられなくなった。けれど直前に見たその目は、睡魔など全く無い様にぱっちり開いていたので、まだあまり眠くなかったのかもしれない。何度かベッドから「まだ起きてる?」「もう寝た?」という声が聞こえたが、何度目の返事を最後にその声がなくなったのか、判らなかった。