何かに、誰かに、呼ばれたような気がした。

 そのような感覚は初めてだったわけでは無い。寧ろ、いつだってそうだった。あの店に足を運びたくなる時は決まって、だ。ふと、何かに呼ばれたような気持ちになって、ふらりと足が向かうのだ。きっかけは直感で曖昧な瞬間であっても、私の足は気付けば迷いなく、いつもの道を歩いていた。夜の車通りを眺める、ひとつの小さな人影を、視界に入れるまでは。それが視界に入った瞬間、私の「いつも通り」は崩れ、足が自然と止まった。その子供は――子供といっても母親に手を引かれなければ歩かせてはならないという程の歳でもない、洋食屋に預けられた孤児たちの中の一番年長と比べてみても、同じかそれより少し年上のように見える――視線を道に向けたまま、車が一台通ると片手の指を一本、折り畳んだ。私は目が離せないまま、引き寄せられるようにその人物へ近づいて行った。片手の五本の指を全てしまい終えると、今度はもう片方の手を使って、車の数を数え始める。しかし十本の指をしまった後に車が目の前を通り、あっ、という顔をしたかと思うと、自分の左右の手を見比べ、もう一度、今度はしまっていた指を一本ずつ開いていく。声を掛けてしまえば、その作業の邪魔になるかもしれない。けれど、私は興味を捨てきれず、尋ねてしまった。

「何台通ったんだ?」

 一体、この子供はいつから、何のために、此処で車の数を数えているのだろう。それを知りたくて、声を掛けた。私の声に振り向いたその人物は、きょとんとした顔を向け、それからすぐに明るく笑って、こう云った。

「分かんない。指が足りなくなるくらいたくさん!」
「成る程」
「なんで人の指、十本しかないのに、それより大きい数を数えようって思ったんだろうね、昔の人」
「…何故だろうな。考えたこともなかった」
「きっとすっごく頭が良い人だったんだね、最初に思いついた人!」
「そうだな」

 どんぐりのような丸い瞳。亜麻色の髪は耳に掛かるか掛からないかくらいの短さで、半ズボンの下から伸びる棒のように細い足は、長い靴下だろうか、縞柄だ。可愛らしい少年、とも見えるし、無邪気で活発な印象を与える少女、という風にも見える。けれど喋った時の直感で、私は目の前の人物を「少女」と認識した。会話の内容は、中身が有るようで無い変てこな会話だったが、少女はうんうんと深く頷いて納得していた。そのうち一台の車が我々の前を通ったが、数えるのをすっかり忘れているらしかった。そこで、ああきっと暇潰しに数えていただけなのだろう、と勝手に判断する。

「俺の指を使うか?そうすれば、二十まで数えられる」

 気付けば、そう云っていた。自然に出てきた言葉だった。私の提案に、少女は手を叩いて喜んだ。他人の手を借りれば二十まで数えられるという事はとても嬉しい発見だったらしい。きらきらと宝石のように目を輝かせて、「そっか!だから友達が必要なんだ!」と重大な答えを得たように笑った。それから、ぴっ、と人差し指を立てて、私に語る。

「昔おかあさんが云ってた。あなたはとてもじゃないけど一人じゃ生きられないから、たくさんお友達を作って助けてもらいなさい、って」
「…そうか」
「だからね、今たーっくさん友達作ってる最中なんだ。お兄さんでね、ええと、えーと、きっと百人目くらい!」
「俺も数に入っているのか」
「え!駄目だった?」

 駄目というわけではないが、友人の基準が甘すぎてはいないだろうか。少しの間話しただけで、彼女の中では友人になるのか。それとも、手助けを名乗り出た時点で、友人の役目を果たせたということだろうか。名前も分からず、年齢だって離れている出来立ての「友人」は、話した傍から車を数えるのは飽きたのか、道路側の手すりから身を引き剥がすと、私のすぐ横に並び、顔を覗き込んでくる。

「お兄さん、これからどこ行くの?」
「…友人と飲みに」
「そうなんだ!じゃあ、その人と友達になったら百一人目だ!ついていっていい?」
「酒は飲めないだろう」
「飲めるよ!飲んだことないけど。辛いのも苦いのもへっちゃらだから大丈夫!」

 薄い胸板をどんと叩いて得意気に反らす。どうしたものかと思案する最中も、きらきらとした眩しい無垢な瞳が私の身を焼いていた。溜息を一つ吐いてから、歩き出す。元々、白状すれば、放っておけないから声を掛けたという理由もあった。この夜の街には不釣り合いな、昼の太陽みたいな笑顔の子供だった。私のすぐ隣を歩き始めたその人物は、歩きながらもにこにこ、ぺらぺらと、私に話をした。二十は二が十個らしいけれど百十という数字は百が十個ではないらしい、という話だった。初めて知ったような気になって、「成る程」と頷く。いつもの店の看板が見えるまでの道は、退屈しないであっという間だった。

 呼ばれたのかもしれなかった。呼ばれたのだとしたら、この少女に、なのだろう。