二
「おや、織田作が女の子連れだなんて初めてじゃないか。こんなに可愛らしい子と何処で知り合ったのやら」
「…いや、偶然そこの道で会っただけなんだが」
「こんばんは!」
「やァ、今晩は」
いつもの店の扉をくぐり、階段を下りた先にその男は当然のように待っていた。まるで私が来るのを知っていたように。だが、私達は事前に約束を取り付けることなどしない。太宰からすれば、逆に、「まるで自分が居るのを知っていたように織田作がやってきた」と捉えるだろう。いつものことなので、今更お互い驚きもしない。いや、今日に限っては少し太宰も驚いていたようだ。私と一緒に、見慣れない子供が酒場に入り込んだのだから、驚きもするだろう。元気に太宰へ向かって挨拶をしているその人物を見下ろした後、カウンターの向こうのバーテンダーの反応を窺った。表情という表情は判らせずに、黙々と仕事をする男だ。この場に相応しくない来客を好ましく思わなかったとして、私はその表情で読み取ることが出来るだろうか。
「…マスター、店の決まりに子供の来店に関するものは有るのか?」
「有ったとしても佳いじゃない。女遊びの噂を聞かない織田作が初めて連れ込んだ相手だよ。マスターも祝福してくれるさ」
お前が許可を出しても仕方ないんだが。茶々を入れる太宰に呆れていると、マスターが静かに顔を上げた。足の長いスツールに飛び乗るように座った小人と目を合わせる。少女がにっこり笑いかけた。「こんばんは!」と、先ほど太宰にした挨拶と同じものを送る。すると寡黙なバーテンダーが僅かに頭を下げた後、「お連れ様ですから」と云った。その言葉が、私と太宰の訊ねた「子供を店に入れても構わないのか」に対する返事だと、遅れて気付いた。そしてその言葉の直後に、私がいつも頼む酒の入ったグラスが置かれる。
「君は何が飲みたい?織田作が好きなだけ奢ってくれるよ」
「そうなの?ええとね、じゃあね、なんでもいい!」
「マスターにお任せだそうだ」
私と太宰の間に座った少女に向けて、濃い色の液体の入ったグラスが置かれる。酒ではないのだろう。そういえば太宰も未成年だった、とふと思ったが口にはしない。そこにはすっかり暗黙の了解が成立しているのだ。少女は律儀にバーテンダーへ向かって「ありがとう」と云った後、奢る役目らしい私の方を見上げてもう一度「ありがとう、いただきます」と云った。グラスに口をつけて、ちびちびと勿体ぶる様に中の液体を飲んでいる少女を私と太宰はしばらく黙って眺める。十分な沈黙の後、太宰は頬杖をつきながら、「それで、」と話を切り出す。
「どうしたの、この子」
「偶然知り合った」
「偶然かぁ」
「偶然だな」
「それなら仕方ないねぇ。今に安吾がやってきて、説明を求められると思うけど」
「偶然としか答えようがないな」
「あんご?友達?もう一人来るの?」
「そうだよ。丸い眼鏡にむつかしい顔をして、今にそこの階段を下りてくる」
それを聞くと、嬉々として少女は太宰の指さした階段を振り返った。今か今かと胸を躍らせている様子だが、果たして安吾はやって来るのだろうか。仮に来るとして、子供を喜ばせる何らかのアクションを安吾が見せるとはあまり思えないのだが。太宰の云うように、ただ眉間に皺を寄せて、見慣れない異質な存在を凝視するだけかもしれない。だが、恐らく少女にとってはこの場で出会う人数が増えることが重要なのだろう。こつ、と革靴が床を叩く音に、少女も、私も太宰も、そちらを見た。計ったようなタイミングだ。
「……」
「こんばんは!」
「…今晩は」
見慣れない顔に数秒表情を固めた安吾は、気持ちが良い程の元気な挨拶に、はあ、と気を抜きそうなくらいの呆然とした声で返事をした。にっこりと微笑んでいる太宰と、黙って事を見守っている私に気付き、眉を寄せる。状況が把握できない、さっさと説明をしてくれ、と云わんばかりに大きな溜息を吐いた。自分だけがこの状況に置いてけぼりだと思っているようだが、置いて行けるほど、状況は進んでいないのだ。ただ、私が偶然出会った子供になつかれて、ついて来られた、それだけだ。安吾は私達の横を通り過ぎて、一番奥の席へ向かう。座ると同時に、「いつものを」とマスターに一つ注文した。
「やあ安吾。お疲れ様。今日はまた随分くたびれた様子だけれど、楽しい仕事だったのかい」
「ええ、いつも以上に疲れますね。相変わらず突っ込み不在なこの空気に、どう切り込もうか考えるだけでも」
「大丈夫?お仕事だったの?お疲れ様!肩揉む?」
「お気遣い無く。早速突っ込みどころを増やしてくれて有難うございます。それで、あなたは?」
「ああ、俺も訊こうと思っていた」
「……頭が痛い…」
「大丈夫?肩揉む?」
「…大丈夫です。お気遣い無く。まあ違うだろうとは思いましたが、お二人のどちらかの御兄弟という訳では無いんですね」
「御兄弟?」
「ええ、こちらの男の子は弟では―…」
「弟?」
「男の子?」
私と太宰は顔を見合わせる。私達二人の視線が絡まるのを頭上で見ていた小人は、きょとん、という音がぴったりに、首を傾げた。
「…いや、すまん。てっきり俺は…」
「女の子だよね?君は」
確かに少女とも少年とも取れる見た目をしていた。だが、第一印象ですっかり「少女」だと決め付けていた私は、安吾の言葉に引っかかるものを感じ、自分の勘違いに気付き謝罪をしようとした。だが、太宰が其れを遮る。今の今まで私が勘違いに気付かなかったのは、安吾以外の誰もそのことを口にしなかったからだ。それどころか太宰も私と同じで「女の子」として扱っていた。そしてその扱いに、当の本人も何の文句も云わなかった。太宰の「女の子だよね?」という台詞に、今度は安吾が「まさか」と衝撃を受けた顔をしている。恐らく、男を女と勘違いするよりも、女を男と勘違いする方が、安吾の中では罪が重いのだろう。失礼に当たるのだろう。全員が、中心に座っている人物の答えを待った。まるで賭け事のようだ。自分たちの目の前の人物は、少年なのか、少女なのか。その二択であるはずの答え。
「うーん?店に入った時、可愛い女の子だって云ってくれたし、女の子ってことにしたほうがいいだろうな、と思ったんだけど。でも女の子だと弟にはなれないから、男の子にならなくっちゃいけないよね。なら、自分のこと“ぼく”って話したほうがいい?」
二択であるはずの答えは、当の本人の口によって、曖昧に広げられ、二択ではなくなった。何の悪気もなく、躊躇いもなく、当然のように。私も、安吾も、眉を寄せて首を傾げた。「つまり、どっちなんだ?」と。ただ一人、興味深そうに微笑む太宰は、首を傾げる様子もない。
「こんなに可愛いのだから、女の子に決まっているよ。安吾ってば失礼な男だなァ」
「凄い自信だな」
「勿論。君もそう思うだろう?織田作」
「…まあ、確かに俺も女だと思っていた。違うのか?」
少女、のようなその人物を見る。太宰も、安吾も、そちらを見た。安吾に至っては少しその視線に込めた気合が違う。この多数決で劣勢である状況をどうにか覆したいという眼差しだ。焦りを感じる。我々二人が当たり前に判ったことを自分だけが正解できなかった、なんて、当然落ち込むだろう。太宰に至っては反対に自信に満ちた表情だ。さてそんな期待と不安の入り混じった視線を受けて、当の本人はというと、楽しそうに笑うだけだった。
「どっちでもいいよ!どっちがいいかなあ」
「いや、佳くないでしょう」
「じゃあやっぱり女の子ということにしよう」
「じゃあ、って。そんな適当に」
「だって本人がどちらでも佳いと云ってるんだよ。なら、私達が好きに決めようじゃないか。男だと疑う君に一つ訊くけどね、安吾。君は『この子が男の子でなくては困る』という理由があるかい?」
「…いいえ、ありませんが」
「なら決まりだ」
「はあ。太宰君には有るんですか?女の子でなくては困る理由が」
「当たり前だよ。だって可愛い女の子のほうが嬉しいもの。女の子のほうがいいに決まってる」
安吾が額を押さえて深く溜息を吐いた。呆れているのだろう。太宰はにこやかに、かつ当然と云わんばかりに、“少女”に向かって「ねぇ?」と同意を求めた。負けじとにっこり機嫌良く笑ったその人物。決まりだね、と。そうだ、勝敗は決まった。この瞬間から、以降「彼女」は女の子だと私達の中で取り決められた。本人の、私達の前での振る舞い方も定まった。溜息を吐き尽くして顔を上げた安吾は、小さな淑女に謝罪する。中々に紳士だ。
「失礼しました。子供とはいえ女性に対して」
「ううん、べつにどっちでもいいのに!優しいね、お兄さん!」
「はあ、それはどうも」
「…話を戻すと、別に俺や太宰の妹でも弟でもない。さっき道で偶然知り合っただけだ」
「……織田作さん。貴方、ついさっき会った少女をこの店に連れ込むような人でしたっけ?」
「つい。なんとなく放っておけなかった。俺が会った時には、通りの車の数を延々と数えていたんだ」
「…成る程」
変わった奴だな、という感想を持ったに違いない安吾の表情。しかしそれが少女に向けられているのか、そんな変わった少女に声を掛けて酒場まで連れてくる私のことを物好きに思っているのか、判断しかねる。それ以上は深く訊かず、答えず、曖昧に話を流した。
太宰が、頬杖をついて少女を眺める。少女はその視線に気付かずに、あるいは気にも留めずに、グラスの中の液体をちびちびと飲みすすめた。
「偶然、そう、偶然か。全く面白い男だよねぇ、織田作。君って奴は」
「そうか?」
「まったくの偶然で、この子と出逢うのだものねぇ」
「…どういう意味だ?」
「いや、だってさ、この子がマフィアの関係者とは知らずに此処に招き入れたんだろう?凄い偶然だよ」
「……」
「…」
何も問題は無い、当たり前に誰もが知っている知識を語るように、太宰がそう云った。途端に、その場の空気が変わる。正確に云うのならば私と、安吾の、だ。少し声を硬くしながら、「何故最初に云わなかった?」と太宰に訊ねる。この口ぶりでは、知っていて敢えて私や安吾に伝えなかったのだろう。まさか、この幼い見た目の少女が。夜の闇とは無縁そうな、明るい、陽の下が似合うこの少女が。自分達と同じ、この街の暗部に属する者だとは、とても思えない。見えない。安吾も眼鏡を押し上げながら、じっと太宰の言葉を待った。私達二人の視線を浴びても、太宰は肩を竦めるだけで狼狽えない。
「私も詳しい事は何も。けれど昼間に執務室で見かけた子に違いないよ。我らが首領と仲良くお喋りしていたから、話しかけはしなかった」
「首領と?」
「ああ。確かそう、名前は――…君、と呼んでいたかな」
「…""?」
太宰の口にした名前を、オウムのように繰り返す。視線を少し下げると、私と太宰の間に座っていた少女と目が合った。まるい瞳がこちらを覗き込む。自身が二羽目のオウムとなりながら、「?うん、」と頷いた少女は、改めて、というように私達を見回しながら、名乗った。
「はだよ?森先生…じゃないな。これからは首領って呼ぶんだ!首領が君って呼ぶから、君って呼んでくれてもいいし、でも君付けってことは男の子になっちゃうのかな?」
「じゃあ、ちゃん、というのはどう?」
「ちゃん!いいね!ちゃん賛成!」
「二人はなんて呼ぶ?」
「いえ、待ってください。呼び方なんかよりもっと他に尋ねることがあるでしょう、太宰君。そもそもこの子は、」
「ちゃん付けは少しむず痒いな。""でいいか?」
「織田作さんまで…」
「うん、勿論!はだから!」
にこにこと嬉しそうに、機嫌良く笑う少女――改め、。安吾の懸念も理解できる。幼く非力に見えるが、この街、この裏社会を牛耳るポートマフィアの長である首領と「仲良くお喋り」できるような少女が、只者であるはずがない。無邪気な幼さは実はすべて演技であるかもしれないし、この街を一瞬で焼け野原にできるような強力な異能者である可能性も捨てきれない。それくらいの理由が、首領にとっての何らかの利益が無ければ、ポートマフィアの執務室にこんな子供が出入りは出来ないだろう。一体この少女は何者なのか。それをハッキリさせない限りは、どう接するべきなのか判断しかねる。
そのはずなのだが。
「じゃあ、は三人をなんて呼ぼう?貴方は太宰さん?まあるい眼鏡の人は安吾さん?」
私達がお互いを呼び合うのを横で聞いて、覚えたらしい。此方が自己紹介をする手間を省いて、はそれぞれの顔を見ながら呼び名を確認していく。最後に私の顔を見上げて、「織田作さん」と呼んだ。声に出してから、にっこりと笑う。その顔を見てしまうと、矢張り――この少女が危険な存在だとは思えないのだ。ただの子供ではない、というのは太宰の話を聞けば判る。しかし、素性の知れない相手だ、と警戒することは出来なかった。もしそれが実は只者ではない彼女の、「見た目や言動で油断させて…」という作戦だとすれば恐れ入るのだが、どうもそういうつもりにも思えなかった。ただただ純粋な人間に思えた。純粋に、今のこの時間を楽しんでいる。
「オダサクさんっておもしろい名前だね!」
「…織田作之助だ。織田作というのは、周りが呼んでいる渾名のようなものだな」
「おださく…が苗字?ノスケさん?」
「いや、織田が苗字だ」
「いいのいいの、織田作は織田作だよ。そして安吾も安吾だ。ねえ安吾?」
「はあ…判りましたよ。好きに呼んで頂いて結構」
「そっか!じゃあ、太宰さん、安吾さん、織田作さん!よろしくね」
「ああ」
「よろしく、ちゃん」
「…やけに気に入りますね、太宰君」
「そりゃあね、云っただろう?"織田作が連れてきた正体不明の謎の女の子"というのが面白くって仕方がない」
「……偶然なんだがな」
「それがいいんじゃないか。楽しい事が起きる予兆だとすら思える」
「そういうものか?」
「そういうものだよ」
「いっきに四人も友達が増えちゃった。嬉しいな!」
「…四人?」
「仕事中のマスターを数に入れているんですか。…いや、そもそも僕が入っているんですか」
「えっ…駄目だった…?」
「えっ」
「えっ」
「…、…いえ、まあ駄目というわけではなくて」
「やった!」
何かぶつぶつと言葉を続けようとした安吾も、相手に素直に喜ばれてしまってはそれらの言葉を引っ込めるしかないらしい。額を押さえて溜息を吐く安吾は、私達との会話中もたまにこうして頭痛に悩まされている。働きすぎなんだろう。頭痛持ちは辛そうだ。そんな安吾の様子をからかって笑う太宰。確かにこの少女のことを気に入っているように見える。マフィアの首領と面識がある、気に入られている、のみならず、マフィアの最年少幹部に気に入られている、というステイタスを手に入れてしまった少女だ。矢張り、只者ではない。只者ではない少女―…は、グラスの中の飲み物を最後の一滴まで飲み干すと、満足そうにふうと息を吐いてから、行儀良く「ご馳走様でした」と両手を合わせ頭を下げた。グラスに向かってか、マスターに向かって。それから、私の方を見て笑ったので、私にも云ったのかもしれない。
「それじゃあ、そろそろ行くね!楽しかった!」
「帰るのか?家はどこなんだ?送って行く。この時間に子供が、」
「ううん、大丈夫!ばいばーい!」
ぴょんと椅子から降りたは、御機嫌な様子で出口の階段へ向かう。ちょっと待て、と引き留めた声にも、大丈夫大丈夫!としか返さず、大きく手を振って階段をぱたぱたと駆け上っていった。足音はすぐに遠ざかる。帰ると言い出してから行動に移すまでが早すぎて、追いかけることもできずに私達はぽかんと見送ってしまった。
「…嵐のようでしたね」
「……随分気紛れな奴だったな」
「…ま、それも面白いじゃないか。その内また執務室か、此処で会うことになるんじゃないかな」
そんな気がする、と云いながら、太宰は手に持ったグラスを揺らし、氷の音に目を細めた。
「では、とりあえず乾杯しよう」
「此処にも気紛れな人間が居ましたね。…何に乾杯するんです?」
「いつもの夜に刺激をくれた、素敵な出逢いに…じゃない?」
「その刺激をくれたスパイス張本人はもう帰ったが?」
「そりゃあね、スパイスにも足は生えているのだから仕方ない」
肩を竦める。それでも、結局私達はグラスを突き合わせた。まるで今日という日を何かの記念にするための儀式のようだ。そんなことを云ってしまえば、私達の間では、何でもない記念日がいつも生まれているけれど。