|
※「逮夜の落雷」のその後 「さん、無事彼氏と別れたんですって?」 給湯室で同じ事務員の春野さんにこっそりと声を掛けられて、私は少し苦笑いしながら、ええ、まあ、と頬を掻いた。周囲を気にして話していた春野さんが、私の答えにホッとしたような表情を浮かべて、手を握ってくる。「よかったぁ、おめでとう!」と。別れて周囲から祝福されるような酷い恋愛をしていたんだなという実感が湧いて、なんともいえない気持ちになるけれど、春野さんのその純粋な「おめでとう」と、続けて加えられた「いろいろ、お疲れ様」という言葉に、なんだか気が抜けて、へらりと笑った。 「話を聞いてる限り酷い男だったから、もう心配で心配で…」 「あはは……そうですね。別れる気はないだとか、浮気なんかしてないだとか、証拠を見せてみろとか、ごねられたときはどうしようかと思いましたよ…」 「最後までサイッテーね!それにしても、浮気の証拠を見せろだなんて、よくそんなこと云えるわよねぇ…」 「はい。証拠なら……たくさんありましたから」 たくさん。口にしてから、私は少し目を伏せる。写真、書類、香水の匂い。どれも直視したくはない「動かぬ証拠」だったけれど。それを見るだけで、ちくちくと胸に棘が刺さったけれど。だって、それを用意してみせたのは私じゃなかった。「あの人」が私に、突きつけたものだ。まさかこんな形でそれらに縋ることになるなんて、皮肉なものだな、とは思った。 元恋人は、青ざめて、いっそ恐ろしささえ感じているような引き攣った顔で私に叫んだ。「お前、探偵でも雇ってたのか?」――思い出して、少し、呆れ笑い。雇ってたわけじゃない。でも、たしかに、いた。それも、世界一の名探偵だ。 「……あの人にも、話さないと」 乱歩さんにも。ちくちく、苦しいとまではいかないけれど、胸の棘が痛い。ちくちく、もやもや、すっきりしない。その原因は、たった一人、そのひとにある。話さなくては、と思いながら、なかなか面と向かって話すことができなかった。あの日以来、余計に。前から少し、乱歩さんの傍若無人さには苦手意識があったけれど、いろいろ重なって、本当、ますます余計に。思い出すのは、いつもの自信満々に笑っているその人の顔ではない。私が、今、思い出すのは…泣き喚く手前のような、あの、子供みたいな声。 ひどく勝手な言葉を、私はあの人に浴びせたのだと思う。私が思っていたより、あの人は意地悪くもなければ取り繕うのが上手くもなかった。私に泣きながら睨まれて、あんな狼狽えた表情を見せるなんて、考えつかなかった。謝らなくては。それと、お礼も。 「あら?乱歩さん。お茶お持ちしますか?」 春野さんの声に、はっとして顔を上げる。廊下から給湯室を覗いた乱歩さんが、春野さんに返事をしかけて――私に気付き、ぴたりと口を閉じた。私だけが気まずいのではなくて、乱歩さんも気まずいらしかった。あの日以来。 「あ、お茶、私が淹れます。淹れさせてください」 咄嗟に出た言葉に、しまった、と思った。自分で云ったくせに、逃げ道が断たれたような気になった。あらそう?と春野さんが少し意外そうに私を見た。乱歩さんも、固まったままだ。すると廊下の向こうから、「春野さん、お電話がー」なんて聞こえてくる。どんなタイミングだ、とつっこみたくなる。あっという間に春野さんは持ち場に戻ってしまった。乱歩さんも乱歩さんで適当にその場から去ってしまうと思ったのに、そうしない。そこに突っ立って、お茶を淹れる私をじっと見ていた。 謝らなくては。お礼を云わなくては。直前まで思っていたはずなのに、言葉が出てこない。いやに緊張して、手が震えるかと思った。 「……あの…乱歩さん…」 「別れたの?」 私は、はっと乱歩さんの顔を見る。「はい、」おかげさまで、とか、云うべきなんだろうか。つっかえたように、声が出ない。私の短い返事に、ふうん、そう、となんでもないような相槌を打って、乱歩さんは帽子のつばを引っ張る。しばらく、沈黙が続いた。沈黙が続けば続くほど、話し出すことが困難になることは判っていたのに、なかなか切り出せない。 「……乱歩さん、あの、この間のことなんですが…」 「いいよ。判ってる。僕のせいなんでしょ」 「え、」 「僕を恨んでるんでしょ。僕が余計なことを云わなければ、君が恋人と別れることはなかったし」 「…そんなこと…」 「だってあのとき君は泣いたじゃないか。僕が傷つけたんだよね?」 不安げに聞くというよりは、どこか諦めたような、そんな云い方だった。だから私は、ますます言葉をなくしていた。どうしてそうなるんだ、そんな八つ当たりみたいなこと、……そう思いかけて、気付く。今だからこうして冷静に「そんなの八つ当たりじゃないか」と云えるけど、私があの日乱歩さんに向けたのは確かに「恨み」で、「八つ当たり」だった。あのときの言葉が、まだ、この人の中に残ってる。ずっと。 「……確かにあのときは傷付きましたけど、必要な痛みだったと思います」 「あと、実際に傷つけたのは乱歩さんじゃなくて元恋人ですから」だから、べつに乱歩さんが謝ることじゃなくて、むしろ。「乱歩さんには……感謝してます。ああやって、はっきり…傷つけてくれて…」ああ、なんだか変な云い方だな。なんて云ったら正解なんだろう。感謝、そうだ、感謝は云えたから、あとは。 「私の方こそ、傷付けてごめんなさい」 酷いことを云ってごめんなさい。私の不幸を嘆いてくれるようなその優しさを、拒んでしまってごめんなさい。考えてみたら、感謝よりも謝るべきことの方が多い気がする。私は深々と、乱歩さんに向かって頭を下げた。私はきっとあの日まで誤解していた。乱歩さんは凄い人で、自分なんかとはまるで違うつくりをした人間で、誰かを傷つけたって心は痛まないし、誰かの言葉で傷つけられることもないのだと思っていた。けれどきっとこの人はただの人間だ。私と同じ。ただ少し、ひとより我が侭に振る舞えるだけの。 乱歩さんの反応がまるでなくって、私はおそるおそる、そうっと顔を上げた。なんだか気まずいような気がして、そわりと、耳に髪をかけて、そうっと。だけど、顔を上げた先の乱歩さんの表情を見て、私は目をぱちくりさせる。乱歩さんも同じように、ぽかんとしていたから。 「……乱歩さん?」 「…じゃあ、もう…」 「…」 「僕のことは、恨んでないの?」 「……恨んでないですよ」 「じゃあ、もう、泣いてないの?」 「え…」 「昨日はよく眠れた?あんな男を思い出して、布団の中でめそめそべしょべしょ泣いたり、別れなければ良かったって後悔したり、してない?」 「…してませんよ」 「本当に?」 「してません」 そりゃあ、直後は、泣いたりもしたけど。布団の中で泣きぬれたり、したけど。だけどそれは後悔ではないし、もう吹っ切れてしまったことだし、問題ない。「もう大丈夫」になってる。だからはっきりと、乱歩さんに「してません」と答えた。頷いた。すると乱歩さんは私の言葉に、そっか、そうなんだ、そうか、とつぶやく。茫然と。だけど、その直後、ぱっと顔を上げて。 「なぁんだ!そうか!そうだったのか!ああ、心配して損した!まったく君ってば本当まぎらわしいことするよね!僕のせいでずっと君が泣いてたらどうしようって、いやーまったくひとの気も知らないでさあ。心配してあげたこっちの身にもなってほしいよ!ああ、よかった。うんうん、まあ、そりゃあそうに決まってるよね。よかった、間違いじゃなかった。僕のしたことは正しい!そうさ、この僕が間違うはずがないもの!あーあ、安心したらお腹減ったな。僕お菓子食べたくてついでにお茶を貰いに来たんだった。ねえ、お茶まだ?僕ぬるいのは嫌だな、熱すぎるのも嫌だから丁度いいのをお願い」 ぺらぺらと捲し立てるその言葉に、目を白黒させる。ああそうだった、乱歩さんというひとは、こういうものだった。圧倒されるけれど、以前ほど気持ちが後ずさりはしない。私はなんだか一気に肩の力が抜けて、笑えてきてしまう。ああなんだか、もういいや。「わかりました」と私はちいさく笑って、お茶の準備へ向き直る。乱歩さんも機嫌が良さそうだった。「…ああ、よかった」まだ云ってる。 「君が、泣いてないならいい。不幸じゃないなら、いいや」 私は、振り返る。そこにいるのは、あのときの子供ではなくて。 「それは、『僕が嫌だから』、ですか?」 「ん?」 「乱歩さんはどうして、私が不幸だと、嫌なんですか」 「そんなの―……」 当たり前のように笑って、当たり前に答えを口にしようとした乱歩さんが、はた、と口を動かすのをやめる。直前まで確かにそこにあったはずのものが、一瞬でぱっと手品のように消えたのを見たみたいに。答えを、見失ったのだろうか。乱歩さんは、固まっていた。だけどどうやら「見失った」わけではなさそうで。当たり前にそこにあったものを、「どうして自分は当たり前だと思っていたんだろう?」と疑うみたいに、顎に手をあてて考え込んだ。私は用意したお茶の白い湯気を眺めて、彼の言葉を待つ。 「……さあ?」 「乱歩さんでも解けない謎、あるんですね」 「まさか!解けないんじゃない。名探偵には『解かなくていい謎』があるんだよ」 きみにはきっと、わからないだろうけど。名探偵はそう云って、答えを私に見えないように、迷宮の中に押し込んだ。//201201(目聡い彼の不文律) |