01



「ねえ、さん。聞きましたわ。またいらしてたんですの?あの方」

 給湯室で人数分のお茶を用意しながら、隣に並んだ女の子が小声で尋ねてくる。長い黒髪に学生服の、年齢だけ見れば私よりも少し幼いその子は、目元をジトッとさせて、不機嫌そうに、不快そうに唇を尖らせていた。そんな彼女に私は苦笑し、曖昧に「うぅん、まァ、そうね」と返事をして、注いだお茶から立ちのぼる湯気に視線をやった。それとなく目を逸らしたことに気付かない程この子は鈍くないので、すぐにその強気な瞳に私はきっ、と睨まれてしまう。だけどべつに、彼女が不快に思う相手は、私ではないのだ。話に出てくる、“あの方”に、腹を立てている。それはもう、私の分まで。

「しつこい恋文の次は、しつこく付き纏って!今までは手紙程度で済んでいたから可愛いものの、実際に会いに来るとなれば話は別ですわ。もう我慢なりません!」
「ナ、ナオミちゃん、落ち着いて…」
「私だったらまず相手の…」
「や、あのう、本当に落ち着いて。そんなに心配しなくっても、何か酷いことをされたりは…」
さんは甘いんですのよっ!そうやってお優しいから、殿方が付け上がるんですわ!もっと心を鬼にして!」
「そんな…うぅん……」

 どうどう、と鼻息荒く憤慨しているナオミちゃんを手で押し留めると、彼女はますます口をへの字にして、納得が行かないという表情で私を見た。ナオミちゃんの気持ちは、とても嬉しい。私の為に腹を立てて、私の為に助言をくれる。それと同時に、やっぱり少し、困ってしまう。
 ひと月前程からだろうか。以前探偵社に依頼主としてやってきた事のある一人の男性が、私の前に頻繁に姿を現す様になったのは。聞くところによると、何処かの会社の若社長であるのだとか。私はその人の依頼の内容について知らないし、お会いしたのは探偵社のビルの中で、社員の皆様の元へと少し案内をしたくらい。ほんの少しの間、顔を合わせただけだった。だけど依頼が解決した後、御礼に伺った、と探偵社を訪ねた際に、皆の目を盗み私の手を取って云ったのだ。一目見た時から、貴女に心を奪われました、と。それ以来、手紙や、贈り物、終いには道での待ち伏せが始まった。無理やり手を引かれ何処かへ連れられることはない。ただ、一方的に、此方の返しなど求めずに、想いを伝えてくるのだ。
 ナオミちゃんの云う通り、はっきりと拒むことができない私が悪いのだろう。判ってはいる、いるのだけれど…そう邪険には扱えない。探偵社の依頼主ともなれば、今後もご贔屓にしていただけるお客様でもあるのだろうと思うし、何より―…

「自分を好いてくれる人を、傷つけることは出来ない―…と?」
「えっ…あ…」
「そ・れ・が!思わせ振りな態度なんですのよ!望みが有ると思わせる事こそ、相手に悪いと思って頂戴!」
「うぅん…それは…」
「だってさん、前に云ってたじゃない。心に決めた想い人がいる、って」

 その言葉に、ぴたり、と自分の手が止まって、私はナオミちゃんの顔を見た。意志の強さをそのまま表すような真っ直ぐな瞳が、私を見つめ返す。だけど、きっと、私は少し頼りない顔をしていたのだろう。それを察して、気持ちを汲み取って、伝染ってしまった様にナオミちゃんは眉を下げた。そんな彼女の優しさが眩しくって、私は目を細める。

「きっぱりと拒んだ方が良いって、私も判っているの。だけど…そう、私も、想い人がいるからね、きっと同情してしまうのだと思う。だって私、あの人に拒まれたら凄くつらいの。想い続けることすら迷惑だと拒絶されたら、私、耐えられない。それなら、思わせ振りな態度をとられるほうがいいの。許されていたい。夢を見ていたい」
さん…」
「…なんて、駄目ね。こんなの、臆病な私だからそうだというだけで、他人の場合じゃ違うわよね、他人に同じ気持ちを強要しては、駄目よね」

 底まで沈んでしまいそうな気持ちをなんとか無理矢理に持ち上げて、苦笑してみる。ぎこちない笑みにナオミちゃんはもっと悲しそうな顔をしてしまった。ああ矢っ張り優しい善い子なんだ。私の分まで怒ってくれて、私の分まで悲しそうな顔をしてくれる。
 ナオミちゃんの助言通り、何か、考えなくっては。このままじゃ、きっといけないのだろう。私にじゃなくって、相手にもきっと。前にも後ろにも進めずに誰かを想い続けるのなんて、そんなの、そんなどうにもならないの、私一人で十分だ。

「……与謝野先生には、相談されてないんですの?」

 俯き気味に、ぽつりと、ナオミちゃんがその名前を口にした。目を瞠った私に、だって、とナオミちゃんは縋るように言葉を続けた。「与謝野先生ならいつもさんを守ってくださいますし、何か遭っても先生がいれば安心ですわ。与謝野先生は今回の事を、なんて?」そこまで云われて、ああ、と納得する。そうか、ナオミちゃんは何も、私の“想い人”として、その名前を口にした訳ではないんだ。一番信頼している人でしょう、って、先生の名前を挙げたのだ。ああ、そうか、良かった。ほっとすると同時に、じわりと切なさが滲む。

「…先生には、何も」
「どうして?」
「余計な心配を掛けて、先生の手を煩わせるのは、あまり」
「そんなこと…」
「それに…先生はきっと気付いているのだわ。だけど、知らない振りをしてらっしゃるの。だから…」

 今度はナオミちゃんが大きく目を見開く番だった。ぐっと身を此方に乗り出して、「どういう事なんですの!」と抗議の声を上げる。しーっ、とその声の大きさを窘めて、それから、矢っ張り私は苦笑する。あまり顔を覗きこまれたくはなくって、少し俯いてしまったけれど。だってそう、私、いつだって先生の後を付いて歩いているんだもの。先生だって気付いている筈なのだ。私が、男性に云い寄られている所を、きっと見られている筈。それでも、何も訊いてこない。だから私は、何も云えない。

「…話せば、きっとこう云うの。良かったじゃないか、って。今まで男の影一つ無かったんだから、って」

 自分の言葉で改めて聞いて、なんだか本当に、想像ができてしまう。からかうように笑うのだわ。それはもう可憐に、肩を揺らして笑うの。きっと私、そんなことを云われてしまったら、悲しくなってしまう。良かったじゃないか、なんて祝福されてしまったら、先生のお顔を、ちゃんと見れないかもしれない。
 私の言葉に、ナオミちゃんは沈黙していた。暫くの間は。けれど、ぱっ、と顔を上げた時、その瞳はまた、強気で、真っ直ぐな光を宿していた。

「ますます、このままじゃ行けませんわ。やっぱり云ってしまいましょう。貴方の気持ちには応えられません、って」
「ナオミちゃん、でも…」
「迷惑だ、なんて云わなくて良いの。ただ、こう云えば良いんですのよ。“私には心に決めた人がいるので”って」
「……」
「ねえさん?好きな相手にそう云われたら、どう思います?」
「…好きな人が、好きな人と幸せになれますように、って…そう思います。きっと」
「それなら、きっとさんの事を好きになったあの殿方も、そう思ってくれますわ。円満にお断りしましょう?」

 にこ、と私に向かって微笑むナオミちゃんは、誰がどう見たって可憐だ。可愛らしくって、それでいて頼りになる。年下なのにしっかりしているな、なんて思ってしまうけれど、きっと彼女が年齢を気にせず私に親身になってくれるから、そう思えるのだろうな。ひとりでそう納得して、私はナオミちゃんに微笑み返す。

「作戦はこうですわ!」
「ええっ、もう立てたの…?今のこの短い間に…?」
「まず兄様に協力してもらいましょう。円満に、とは云いましたけど、もしもその場で下手に逆恨みなんてされてしまったらと思うと、やっぱり怖いですもの。相手の素性をよく調べてもらってから。話はそこからですわ」
「そんな…谷崎さんに迷惑を掛ける訳には…只でさえ谷崎さん、お忙しい方ですし…仕事と関係無いところで調べ物を頼むのは少し気が引けるような…」
「良いンですのよ!ナオミのお願いなら、兄様は快く聞いてくれますから!」
「ナオミちゃん…」
「それから…そうですわね、言葉だけでは納得しない様でしたら、実際にさんの想い人をその場に呼んで、立ち会ってもらうというのも良いかもしれませんわ」
「え…っそ、それは…」
「勿論、この場合その人物は偽者で構いません。影武者を用意するの。恋人役を演じてもらって、『私にはこの人がいますので』って腕に抱きつくパフォーマンスを見せれば完璧です」
「は、はあ…」
「うーん…そうなるとその役は…誰が良いかしら。敦さんや太宰さんを頼るのが妥当な所かもしれませんけど…あまり人に話して大事にしたくは無いンですものね…それなら、此方も兄様に頼みましょうか。本当は兄様が演技とは云え女性と腕を組むなんて反対ですけれど、さんなら特別ですわよ?」
「でも、そんな…そこまで…」
「こういうのは、殿方にびしっと云ってもらうのが一番効くンですの!」
「…」
「兄様、ちょっと頼りなく見えるかもしれませんけど、結構演技派ですし。敦さんの入社試験の時なんてそれはもう!」

 兄の勇姿を思い返し両手を組んで目を閉じて、うっとりと口元に笑みを浮かべる。そんなナオミちゃんを隣に、私はそっと目を伏せた。少し、耳が痛かった。胸だって少し、痛かった。

「……殿方に、びしっと云ってもらう、か…」
「…さん?」
「いいえ、なんでも。ああ、すっかりお茶が冷めちゃった!」

 口に出来たら良いのに。私にはこの人がいますので、って。与謝野先生の腕に抱きついて、叫んでしまえたらいいのに。そんな莫迦な事を考えた頭を軽く振って、私はナオミちゃんに微笑んだ。



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