02



「や。お疲れ様です、さん」
「谷崎さん…」
「例の作戦会議の為に呼んでおきましたの。さァ、座ってくださいな」

 ナオミちゃんに呼びだされた先の喫茶店には、もう既にその姿があった。てっきりナオミちゃんと二人きりでのティータイムになると思っていたので少し驚いたけれど、彼女の隣のその男性の柔和な目元に、すぐに心が解れる。二人は恋人同士の様に、喫茶店の向かい合ったソファの一方にぴったりとくっついて座っていた。私はその向かい側のソファに腰を下ろして、珈琲を頼む。それで、と早速谷崎さんが話を切り出したので、私は、ぴっ、と背筋を伸ばした。

「ナオミから話は聞きました。さんがそんな被害に遭っていたなんて…同じ職場の一社員として、気付かなくてすみません」
「いえ、そんな…被害だなんて、物騒な事じゃないんですよ。ただ、このままじゃいけないな、って困っていただけで…」
「え?でも、ナオミからは陰湿なストーカー被害に遭ってるッて…」
「ナオミちゃん!?そ、そんなに話を大きくして…!! 誤解ですよ!特に何か嫌がらせをされたわけではないんです!」
「そ、そうなんですか…?」
「だって大袈裟に話さないと、兄様、同じ殿方として相手の味方に付いてしまいそうだったんですもの」
「だからッて嘘を混ぜて話されると困るよ!ナオミ!」
「細かいことは置いておいて、兎に角、きっぱりと相手にお断りを入れる、という方向で話を進めるんですから、途中で同情して『矢っ張り少しくらい相手の気持ちを尊重すべきでは』なんて云い出さないでくださいね!お二人とも!」
「はい…」
「判りました…」

 二人して少し、強く出られない部分がある私と谷崎さんは、ナオミちゃんの言葉に行儀良く返事をして、肩を竦ませる。ナオミちゃんが「よろしい」と胸を反らすので、私はますます苦笑いだ。そこに運ばれてきた珈琲を一口飲んで、ほっと息を吐いた時、谷崎さんがテーブルの上にあった書類を此方に見せた。

「ええとそれで、ナオミに頼まれて簡単に少し調べたんですけど」
「ああすみません…お忙しいところに面倒を増やしてしまって…」
「いえいえ、気にしないで。寧ろ、こういう時は頼ってくれていいンですから。あ…頼りないかもしれませんけど」
「そんな、とんでもないです。本当にありがとうございます」

 はは、と苦笑する谷崎さんの声を聞きながら、受け取った書類に目を向ける。添えられた写真を指して、「その人で間違いありませんか」と尋ねられた。じ、と写真の男性の顔を見る。仕事用の写真なのだろう。そこに写った人物は、難しい顔で真っ直ぐに此方を見据えていた。なんとなく直視していると、申し訳無さが押し寄せて、そっと視線をずらした。「ええ、この方です。間違い有りません」
 悪いことをした、と思った。本当に、相手にとっては災難だっただろうな、と、別の意味で同情してしまう。伝えてくれた気持ちをお断りするのは、「これから」なのだから、本当に相手に悪いことをするのは、これから。けれどそれ以前に、あの日、「貴女に心を奪われました」と告げられた時から、抱いている感情は、申し訳無さだった。舞い上がる気持ちは無く、ましてや迷惑だとも思わない。ただ、申し訳なかった。私を好きになっても、何も返せない。気持ちに応えることは出来ない。好きになってあげられなくて、申し訳ない。だけどどうしたって、返せるものはない。――なんて、自分の考えに、自分で嗤う。報われる手段のない恋心というものは、無駄なものだと云っているみたいだ。無意味で、無価値で、プラスにもマイナスにもならない。
 あの人も、私の気持ちを聞いたら、同じことを考えるだろうか。勝手に心を奪われた此方に、無駄な感情を与えてしまって悪かったね、と、時間の、心の、無駄だったね、と、済まないね、と、云うのだろうか。

さん?」

 ふと頭の中に割り込んできた、鈴を転がす様な声で我に返った。ナオミちゃんが心配そうに眉を下げて、私を見ていた。同じ様に、その隣の人物も、こちらを気遣うような表情だった。私は慌てて首を振って、なんでもない、と誤魔化して、改めて谷崎さんの調べてくれた情報に目を通す。谷崎さんも、気を取り直して、とでも云う様に、調べた事について解説してくれた。

「最近になって父親から社長の座を引き継いだ、所謂ファミリー企業の若社長さんですね。前に探偵社に入った依頼も、その会社の経営に関しての物でした。社長の座の継承の際に内部で反発があって大きく揉めて、その内の過激派が裏で通じてる取引相手を探って欲しいだとか、そんな感じの。ボクは直接担当していないので、多分この依頼の詳細は資料で見るより担当していた賢治君に聞く方が早いかと。で、目出度く問題が解決して、内部の毒も抜いて、今は会社の経営もかなり安泰しているみたいです。中々凄腕の社長さんなんでしょうね」
「そうなんですね…」
「…あら。イイ男の条件は、仕事が出来る、という点だけではありませんわ」
「ナオミ……や、でもホラ、学歴も中々」
「学歴なんてものも大した問題ではありませんわっ!」
「え、えーっと、趣味もスポーツで体格も良いし」
「大した問題ではありませんっ!」
「男のボクから見ても結構顔も良いんじゃないかなーなんて」
「関っ係ありませんの!」
「ナオミっ!いくらなんでもさっきから突っ掛かりすぎ!ボクは客観的に見て云ってるだけだからッ!」

 谷崎さんに窘められても、ナオミちゃんは口を尖らせてつーんとそっぽを向いていた。そんな様子に困ったように谷崎さんが肩を竦めて、だけど結局それ以上の反論は諦めて、私の方へ向き直る。「ナオミはあんまり気に入ってないみたいですけど、まァ兎に角、そんな人物です」と話を纏め、私の顔色を窺った。そこまでの情報に御礼と、それから何か感想を云おうと口を開きかけた時、ナオミちゃんがぽつりと呟いた。

「継承したばかりの若社長、とは云え、そこまでの会社ならきっと次の世代にも既に目を向けているのでしょう?」
「えっと…どういう意味…?」
「大方、早く結婚相手を見つけろと周囲にせっつかれているのではなくって?」
「…それは…」
「もっと突き詰めれば、早々に跡取りを産んで欲しいだとか」
「ちょ、ナオミ…そういう事云うなッて」
「……」
「兄様こそ、どうしてさっきから相手の肩を持つことばかり云うんですのっ!」
「そっ…それはっ、せっかくさんが相手のことを嫌わないまま断ろうって気を遣ってるンだから、印象を悪くする様な事を云ったらあんまりだって…!」

 わっ、と目の前で繰り広げられた兄妹喧嘩の中で、谷崎さんの云った言葉に目を瞬く。谷崎さんも谷崎さんで、はっとして伸びた服の袖を口元に当てた。視線をすすす、と此方に慎重に向けて、私を気遣う様に見つめる。

「いや、あの、都合の悪い事は隠すだとか嘘を云うだとか、そんな事はしてないンですよ…」
「…ええ、判っています。谷崎さんは、お優しいので」

 だって、私の話を聞くまでは、ナオミちゃんに「酷いストーカー男」なんて嘘を吐かれていたのだから、あまり良い印象は持ってなかった筈だ。それなのに、私の様子を見て、出来るなら嫌わずに、という気持ちを尊重するよう、咄嗟に気を利かせてくれる。優しい人だ。だけどナオミちゃんだって同じく、優しい。

「…判ってますわ。判ってるんですのよ。悪い人じゃないだろうって、私だって。でも…なんだか…」
「ええ、ありがとう。ナオミちゃん」

 しゅんと縮こまったナオミちゃんに、私はそっと微笑みかける。遠慮するようにおずおずと視線を上げたナオミちゃんは、谷崎さんと同じで、私を気遣う様に見つめる。どうしてか沢山、二人には心配を掛けてしまう。

「…明日、此処へお呼びして、はっきり云おうと思うんです。ナオミちゃんのお陰で、決心が付きました」
「そうですか…」
「はい。谷崎さんの話を聞く限り、本当に優れた方なんだなって思って…尚更、早くお断りしなくっちゃ、って。他にもっと相応しい人がいるでしょうから、私なんかに寄り道をしていちゃ、本当に御迷惑になってしまいます」
「そ、そこまで卑下しなくても良いと思うんですけど…えっと、それでボクは、さんの恋人役を演じれば良いんですよね…」
「あっ…は、はい…不名誉な役を…すみません…」
「ええっ!?いえいえ、此方こそ、ボクなんかで本当、すみません…あ、でも精一杯務めますンで…宜しくお願いします」
「はい、宜しくお願いします…!」

 ぎこちなく、けれど深々とお互いに頭を下げる私と谷崎さん。その間にも、ナオミちゃんからの視線は、じっ、と私から外れない。やっぱり、目の前で私と谷崎さんが恋人同士の演技の打ち合わせ挨拶をする様子なんて、見たくなかったかな。嫌な気持ちになってしまったかな、なんて心配していると、ナオミちゃんがぐっと向かい側に座る私の方へ体を乗り出した。そして私の手を取って、「本当に、きっぱりとお断りできるんですのね?」と心配そうに、念を押すように尋ねる。

「私、さんとその好きな人の事、応援しているの」
「……ナオミちゃん…」
「だから、迷わないでほしいんです。どうせ叶わないのなら新しい恋を探さなくては、だとか、あの人もきっとそれを望んでいるのだわ、だとか、絶対にそんな理由で、自分の気持ちを見ない振りはしないでください。そんな気持ちで誰かからの愛情を受け入れても、きっとさん自身が後悔するもの。……さん、優しいひとだから…」

 きゅ、と私の手を握って、祈るように目を伏せる。私はそんな彼女から目が離せなくなって、同時に、胸がいっぱいになって、何にも云えなくなった。ナオミちゃんの言葉が、心の中にずっしりと積もる。優しいのではなくって、私はただ、心が弱いのに。私もそっと目を伏せかけた所で、ナオミちゃんがふいに勢い良く顔を上げて、その場から立ち上がった。隣に座っていた谷崎さんも、私も、驚いてそれを見上げる。

「私、行きたい所が出来ましたので、少し席を外しますわ」
「えっ、ちょっと、ナオミ!?今!?このタイミングで!?」

 谷崎さんが引き止めるのも聞かずに、ナオミちゃんは走って喫茶店を出て行く。取り残された私と谷崎さんは呆然と口を開けてそれを見送り、暫くの沈黙の後お互いにはっと我に返って、微妙な気まずさの中、苦笑し合う。「と、とりあえず、ナオミの事待ちましょうか。珈琲、おかわり貰います?」と谷崎さんが空のカップを揺らした。

「…ナオミちゃんは、善い子ですね」
「え?ああ、そうですね…ちょっと困った所もありますけど。ボクよりしっかりしてるンで」
「……あんな善い子に、心配掛けて、迷惑を掛けて…自分が情けないです」
「そんな事は無いと思いますよ。ナオミ、本当にさんを友達みたいに慕ってるンです。迷惑だなんて、とんでもない。ナオミなりに、力になりたくて仕方無いンじゃないかな、と」

 谷崎さんは柔らかく、優しそうに微笑んで、私を安心させてくれる。本当に、優しそうな笑顔。ナオミちゃんを窘める時に少し怒った様な表情をしても、どうしても柔らかい印象が拭えないのは、目元のせいかな。判りやすく垂れ目な目元を見つめて、そんな事を考えた。――やっぱり、似ていないな、ナオミちゃんと。その点について何か言及するのは止めよう、と社内でも暗黙のルールとなっているので、何も云わないけれど。
 ナオミちゃんが居なくなって二人きりになると、微妙にお互いの距離感が掴めない。妙に沈黙してしまい、手持ち無沙汰になった様に、谷崎さんは改めてもう一度、テーブルの上に置いた資料に手を伸ばした。沈黙を埋めるように、でもあるし、話を戻して、という様でもあるけれど、再び写真に写った男性の話題になる。

「この人、悪い人ではないンでしょうけど、確かに好きな女性の出勤ルート周辺で待ち伏せっていうのは少しやり過ぎな気がしますね。熱烈すぎる…」
「…そう…なんでしょうね。こういうの、初めての経験なので異常なのかどうかもよく…あ、でも、あの、毎日って訳ではなくて。向こうもお忙しい身だと思いますし」
「あはは…。明日で円満に一件落着になればいいンですけど…諦めてくれない様だったら、もっと上の人に相談しても良いと思いますよ。一回依頼人として接触してるから、邪険に出来ないって思いやすいでしょうけど、多分、社員を守るのも上の役目だー、って云ってくれるかと。今後この人物からの依頼は受けない、とか、探偵社の周囲を彷徨いているようだったら追い払えー、とか…所謂、出禁にしてもらう、みたいな」
「そ、そんな、そこまで大袈裟には…」

 驚いて何度も大きく首を横に振ると、谷崎さんはきょと、と目を丸くして、首を傾げて、しげしげと私を見た。何か可笑しな事を云っただろうか、と身を強張らせる私に、「ああ、いえ、そのう」と困ったように彼は笑う。

「普通こういう案件って、相手はそんなつもりなくても此方が不快に思えばそれは迷惑行為だ、ってなると思うんですけど…さんは本当、全然不快には思ってないンですね」
「…おかしいでしょうか」
「おかしい、と云うよりちょっと心配になります。さん、結構自分の身に関しては無頓着っていうか無防備っていうか…でも、まァ、そうか。迷惑だからじゃなくて、気持ちに応えられないから、なンですよね」

 谷崎さんはそう笑って納得して、珈琲のおかわりに口を付けた。それでいいと思いますよ、と許してもらった気分になる。私も苦笑を返して、そっと、あの男性の事を考えた。あの人は、私の何に、心を奪われたのだろう。貰った手紙には、そこまで細かに、何処かどうであるから、と云う口説き文句が書いてあっただろうか。今夜家に帰ったら、もう一度読んでみようか。読んだ上できちんと返事をしなくては、失礼に当たるだろうし。そう考えていたら、不意に、「さん」と、声が掛けられる。

「ナオミはああ云ってましたけど、流されてナオミの云う通りになってしまっているなら、無理に合わせなくても良いんですよ」
「…と、云うと?」
「試しにお付き合いしてみたら、好きになるッてこともあるかもしれません。お友達から始めてみる、とか。さんがそうしたかったら…ナオミは煩く反対してくるかもしれませんけど、気にしないでください。それがさんの為になるって判ったら、文句は云わなくなると思いますし」
「……」
「…なんて…あはは、すみません。ナオミに怒られるな。断る方向で話は固まってるンですよね。揺らがせる様な事云ったら駄目だ、ッて念を押されたンでした」

 申し訳無さそうに眉を下げて、忘れてください、とでも云うように、何でも無かったふうにまた一口珈琲を減らす。谷崎さんは、優しいから。だから少し、困ってしまっているのかもしれない。私があんまり、相手の殿方に対して嫌そうにしないから。迷惑そうにもしないから。だから、若しかしたらこの人は妹に流されてそういう選択をしているだけで、本当は、別に、断らなくっちゃいけない強い理由は無いんじゃないか、って。そう心配してくれているのかもしれない。谷崎さんの言葉は優しい。甘やかすみたいに、優しい。だけど私にとってそれは、どんな意味を持つだろう。魅力的な話に、聞こえる?そう思うことが出来る?私は膝の上に手を置いて、カップの中の液体を、じっ、と見つめた。
 私にも、わからない。そう、口にするつもりは無かったのに、自然と声に出していた。その小さな声を拾って、谷崎さんが視線をこちらに向けた。え?と尋ねる声を、何処か遠くに聞きながら、私は唇を動かす。

「……私、お慕いしている人がいるんです」
「…はい」
「すきなひとが、いるんです」

 すきな、ひとが。ぽつ、ぽつ、と。雨粒が落ちるように、自分の唇が言葉を発する。ぼんやりとした声にも、谷崎さんはもう一度、「はい」と相槌を打った。一度目よりもっと、はっきりと。聞き逃さないようにとするみたいに、はい、と。好きな人がいる。だから、と続けようとして、声にならなくて、私は俯く。好きな人がいるんです。「だから」も「だけど」も紡げずに、私は膝の上できゅっと強く拳を握った。言葉の続きを見失った私に、谷崎さんは、「続きは?」なんて云わずに、ただ小さく、微かに笑った。

さん。その人以外の人を、好きになれると思いますか」

 ゆったりとした時間の流れる喫茶店で、谷崎さんの声だけが激しく私の心を揺さぶる。

「その人より、強く、誰かを想う事が出来ますか」

 す、と顔を上げて、谷崎さんの瞳を真っ直ぐに見つめる。気恥ずかしくていつも苦笑してどちらかが目を逸らすのに、今はそんな空気にもならない。

「出来ません。きっと、私にとって、その人がすべてだから」

 その人の傍に居たいと思うから。その人の為に何でもしたいと思うから。泣くのも、笑うのも、呼吸をするのも、その人の為に費やしたいと願うから。あの人にお前なんか要らないと云われれば、私は私を失うのだろうとすら思う。あの人を想うという事だけが、私で在る条件だ。あの人以外に、だとか、あの人以上に、だとか、そんなこと、考えられない。
 私の答えに谷崎さんは薄く微笑み、そうですか、と頷いた。

「本当に、余計な提案でしたね。最初からさん、手酷く振りたくないと云うだけで、気持ちを受け入れるかどうかでは迷ってなかったンですから。…だとしたらナオミのあれも、要らない心配の様な…」
「…なんだか本当に、二人を振り回して心配を掛けてしまっていますよね…」
「ああ、気にしないでください。何て云うか……ボクも判ります。本当に唯一の、尊く思える存在ッて、他の誰かとか、何かとか、そんなものとは次元が違う。較べられませんよね」
「谷崎さんも、いらっしゃるんですね。そう云う大切な人が。きっと、とても素敵なひと」

 その言葉に微笑んだ谷崎さんの表情には、照れや迷いなど微塵もない。絶対的で、唯一のものを、当たり前に信仰する様な眼差しだった。私はきっと、彼の神様を知っている。



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