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お行儀悪く廊下を駆けて、私はその部屋へ急ぐ。事務室に姿が無かったし、給湯室にもいなかった。と、なればあの方の居場所は一つしか無い。あの人を探す必死の形相に、先程すれ違った敦さんが驚いた顔をしていたけれど、私は構っていられない。走って、走って、辿り着いた扉のドアノブを乱暴に捻る。開け放った扉の向こうで、その人は戸棚に並んだ瓶の一つを手に取り、その中身の量を確かめるように軽く振って、そして溜息を吐いてからようやく、医務室の入口を振り返った。 「なンだい、ナオミ。騒々しい。怪我でもしたのかい?」 「与謝野先生。質問があります」 腰に手を当てて、面倒そうに、「勝手にどうぞ」と云わんばかりに、与謝野先生は私を見る。薬品の匂いに顔を顰める暇もない。私は一歩、先生の方へ近づいた。 「さんが最近ある殿方に云い寄られている事、御存知ですの?」 誤魔化してほしくない一心で、私は真っ直ぐに与謝野先生を見つめる。少しの表情の変化も見逃さないようにと、じぃ、っと見据える。動揺の色なんか微塵もない。私の言葉に先生は、ああ、と何てことのない話みたいに、肩を竦めた。 「ふゥん。矢っ張りそう云う誘いだったか。へえ?」 「御存知ですのね」 「そりゃあねェ。毎度あんな道の真ン中でやられちゃ、人の目を集めるさ。の帰り道は妾の帰り道でもあるンだし」 「どうして、何も云ってさしあげないんですの?」 「何とは何さ。妾ゃ何も相談されて無いンだ。口を挟むのは可笑しな話だろ?」 「いいえ!さんは、先生に云ってもらえるのをきっと待っている筈ですわ!」 「だから何を」 「それは…」 続きを云おうと口を開いて、だけどこんな形で言葉にしてしまうのは、与謝野先生にも、さんにも悪い気がして、私は其れ以上何も云えなくなってしまう。そんな私を与謝野先生は暫くじっ、と見て、やがて興味が無くなった様に視線を外した。机の上の薬品を一つ一つ棚にしまって、書類の角を整えて、私の言葉なんて本当に何でも無かったように淡々と仕事をこなす。このままじゃいけない。いけないわ、ナオミ。ぐ、と両方の拳を握って、私はもう一度与謝野先生を真っ直ぐに見つめた。 「与謝野先生は、さんが知らない殿方の元へ御嫁に行ってしまってもいいんですのっ!?」 ぴたり、と先生の手が止まる。気だるげに、顔が此方へ向いた。 「なんだい、妾が娘を嫁に出す父親の気持ちにでもなっちまうンじゃないかッて?要らん心配だよ、そんなの」 「そう云う事を云ってるんじゃありません!」 「へェ。じゃあアレか。妾より先に幸せになるなんて抜け駆けだ、なんて凹めば良いのかい」 「意地悪ですわ、与謝野先生」 「…が嫁に行っても良いかッて?良いだろ、そんなの。だって“女の幸せ”って奴を探す年頃さ。あれなら嫁の貰い手には困らないだろう?見た所、相手も中々イイ男じゃないか。どっかの社長さんなんだって?金も持ってそうだ。良い話じゃないか。勿体無いくらいに、出来過ぎた話だ」 「だけどさんには、ずっと想い続けている相手が居るんですのよ。その人を想い続ける事は、“イイ男”との結婚とは違って、さんにとっての“幸せ”じゃないと、そうおっしゃるんですの?」 「ああ、その通りだね。いつまで経っても嫁に貰ってやらない、待たせ続けるだけでの気持ちを弄ぶ男なんて碌な奴じゃない。そんな奴より、熱烈にぶち当たってくる男の方がよっぽどましだ」 「…ッ、もう!どうしてそんな云い方が出来るんですの!?与謝野先生だって、判ってる癖に!」 此処に、さんが居なくって良かった。「良い話じゃないか」「幸せなことじゃないか」って、この人の口から聞くことが怖いから、きっと話さなかったのに。本当にその通りの言葉を、口にするなんて。私は無性に悔しくなって、唇をきつく結んだ。飄々と答えるこの人が、何を考えているのか判らない。どうしてそんな酷い事を口にできるのか、判らない。そんなに、あの人を、貴女自身を、傷付けるようなこと。 「与謝野先生が止めなかったら、“良かったね”なんて云ってしまったら、さん、本当に御嫁に行ってしまうかもしれませんわ。本当の想い人の事は諦めて、先生がそれを望むんだったら、なんていって」 「それの何が悪いッてんだい?」 「全部ですわ。全部、間違ってます。私は嫌です。さんが、諦める姿なんて見たくありませんの。さん、あんなにあんなに想っているのに、諦めてほしくなんかない。件の殿方がどんなに優れた人でも、どんなにさんの事を愛してくれるとしても、さん自身が本当に好きな人と…っ」 貴女と、笑っていてくれなくっちゃ私は嫌なんです。 だから、早く今回みたいな話、さんには、お断りしてしまってほしい。何も迷うことは無いだろうに、さんが好きなのは――与謝野先生だけだろうに、他の人を好きになんかならない筈なのに、迷っているように見えてしまうから、私はとても悲しかった。与謝野先生の口から、云ってあげてほしい。何、莫迦な事を考えているんだ、って。ずっと妾の傍にいていいんだから、って、何処にも行かなくていいんだ、って、云ってさしあげてほしい。そうすればきっと、彼女に迷いなんて無くなるのだから。 自分でも、どうして此処まで、お節介なくらい、彼女の事を応援したいのか不思議だった。友人だから?――それも、きっとある。だけど、何より、信じたかった。私自身が信じていたかった。あの人の気持ちは間違ってなんかいないんだ、って。おかしくない、って。証明してみせてほしい。 「与謝野先生だって、本当は…」 「…ナオミ」 「どうして、云ってさしあげないんですの?どうして、何とも思っていない振りをするんですの?言葉にしてはいけないんですの?」 「ナオミ」 「何を、恐れる事があるんですの?いつだって強くて、堂々として、そういう、与謝野先生らしくないですわ。先生だって本当はさんのこと、」 ばん!と大きな音が部屋に響く。私はびくっと口を閉ざして、肩を縮こませた。破裂音みたいに乱暴な音は、与謝野先生が手に持っていた書類の束を思い切り机に叩き付けた音だった。それ以上口にするな、と云う圧力だ。聞きたく等ない、という訴えだ。私は唇を噛んで、怯みそうになった瞳を今一度真っ直ぐに向ける。与謝野先生は床を睨んでいた顔を上げて、私の視線を迷いなく受け止めた。睨み合うような時間が流れても、私も相手も引くことはない。 「私、お節介かもしれませんけど、間違った事を云っているつもりはありませんわ。だって、後悔してほしくないんですもの。さんにも、与謝野先生にも」 「ナオミ。そろそろ帰ンな。妾も今日は早めにさっさと帰る予定なんだ。ほら、出てった出てった」 「話を逸らさないでください!」 「アンタの“兄様”が待ってンじゃないかい?妾も、人を待たせてる」 え、と口にしかけた時、廊下から誰かの足音が聞こえた。その音は迷いなくこの部屋を目指して近付いて来て、私のすぐ背後の扉を開ける。振り返った先には、きょとん、と目をまたたくさんがいる。驚いている私と同じくらい驚いて、「あれ、行きたい所って医務室だったの?具合が悪いの?」と尋ねてきて、私は咄嗟に言葉が出てこない。 「ごめんね、ナオミちゃんが店に戻って来るまで待って居ようと思ってたんだけど…先生との約束の時間になってしまって…」 「……」 「ナオミちゃん?」 「…明日、約束ですわよ」 「えっ」 「明日!絶対に作戦を決行するんですのよ!ナオミとの約束ですわ、さん!」 「え、ええ、勿論」 「いつもの喫茶店に十六時!私も何か遭った時のために離れた所から見守らせて頂きますっ!」 「ありがとう…?」 「では兄様が待っているので私は此れで!どうぞお二人で!仲良く!お帰りになってくださいましっ!」 「え、え?ナオミちゃん、怒っているの?ナオミちゃん?」 「怒ってませんわっ!」 「放っときな、」 「でも、先生…」 長い髪をわざと大袈裟に後ろに払って、私はさんの隣を抜け医務室を後にする。すれ違う瞬間のさんの表情は少し不安げで、私を気遣う様な表情だった。それを横目でほんの一瞬確認しながら、私は足早に去っていく。廊下に響く自分の足音が、苛立っているようで、何か強烈な感情に急き立てられているようで、最終的にはまた、来た時と同じ様に走りだした。 |