04



「あ、ナオミ!おかえり。さんと鉢合わせなかった?時間気にしてたから、大丈夫ですよッてナオミが来る前に帰しちゃった。まだ何か話し合いたい事があったら明日―…、ナオミ?」

 “行きたい所”から帰ってきたナオミは、店を出る前よりも不機嫌そうに、店を出る前より泣きそうに、ボクの顔を見た。思わずソファから腰を浮かせ掛けたところに、いつものナオミの渾身の“抱きつく”と云う攻撃を喰らう。情けない悲鳴を上げつつ、後ろに引っくり返ってもソファの上なので特にダメージを受ける事は無かった。引っくり返ったボクの上にナオミが平気で乗っかって来る、ッて云う、世間的には「場所を弁えろ」と云われそうな光景が繰り広げられても、そんなもの見慣れているこの店の人間は何も云わない。

「ちょ、ナオミ…」
「…納得行きませんわ」
「どうしたの」
「傍に居るのが当たり前だって思っている癖に、他のひとの所へ行っても構わないなんて云うの、どうしてなの。ナオミには判りませんわ、兄様…」
「……」
「どうして、大切に想い合っている二人が、永遠を信じないのかしら。まるで、幸せになってはいけない、と決めつけているみたい」

 そう云ってナオミは、ボクの服を皺になるまで、ぎゅっ、と強く握り締める。悔しくって堪らないみたいに、ボクの薄い胸板に顔を押し付けた。泣いているかは判らない。泣きはしないのかもしれない。だって、当事者の二人すらも泣かないんだ。ボクはわざと、子供をあやすみたいに、よしよしとその頭を撫でた。眉を下げて笑ったら、ナオミが少し拗ねたように顔を上げる。

「ナオミは、悲恋の物語は嫌い?」
「だって兄様、私は小説の話をしているんじゃないわ」
「判ってるよ」
「創作なんかじゃないんだもの、幸せなのが一番よ」
「そうだね」
「なのにあの方ったら、二人が一緒に居る事は、幸せなんかじゃない、って!」

 八つ当たりみたいに、ナオミがボクの胸を叩く。思い切りではないけれど、とりあえず、痛いよナオミ、と困った表情を浮かべた。まあ、八つ当たりで間違っていない。どんなに納得が行かなくっても、“あの人”相手に掴み掛かる事なんて、怖くって誰も出来やしない。だから代わりに、僕が殴られておく。

「ハッピーエンドでなくっちゃ嫌、って我が儘を云うのは、子供かしら?」
「そんな事は無いと思うけど…でもさ、ナオミ。ハッピーエンドでなくっちゃいけないから、幸せじゃない選択をする人だっているンだ」
「矛盾してますわっ!」

 そうだね、本当に。凄く矛盾している。苦笑して、ボクは覆い被さっているナオミの背中をぽんぽんと叩いた。そろそろ体を起こさせてくれ、と云う合図。大人しくナオミが一旦離れてくれた間に、ボクは起き上がる。少し前までさんが居た、向かい側のソファをちらりと見た。誰かを、自分の全てだと云い切れるというのは、別に強さでも陶酔でも何でもない。それは本人にとって、只の事実でしかないんだ。可笑しいことなんて何もない。世界中の誰が死んでもたった一人生きていて欲しい――そんな存在を求める生き物なんだろう、人間は。そう云うふうに出来ている。あの人も、ボクも、もう見つけているんだ。

 矛盾ついでに、ボクは思う。幸せの為に幸せじゃなくなる人もいれば、幸せじゃなくても幸せになれる人だっているンだ。

「二人は、幸せになろうとしていないのかしら。“普通”じゃないと、幸せになっちゃいけないのかしら。そんなの嫌だわ。他人から見て“普通”じゃなくても、幸せで在っていいはずよ。そうでしょう?兄様」

 強気な瞳が、ボクを見上げる。その眼差しは本当に真っ直ぐで、疑いなんて一つも混じっていない。ボクの唇が、勿論だよその通りだ、と告げるのを待っている。それ以外の言葉なんて許されない。だけどボクだって最初から、肯定する以外の答えを持っていない。

「そうだね、ナオミの云う通りだとボクも思うよ」
「でしょう?ああそれなのに…どうしましょう、兄様。さんが、今回の事だけじゃないわ、いつか、諦めてしまったら…あの人以外を好きにならなくっちゃ、って、思ってしまったら…」
「ああ、それは…心配要らないと思う、かな」
「どうして?」
さんは、あの人以外を好きにはならないから」
「それは判っているけれど…その筈だけれど、でも、だって…無理矢理に自分の気持ちに蓋をしてしまいそうで」
「大丈夫だッて」
「どうして云い切れるの?」
「あの人が、さんの世界の全てだからだよ」

 若しもその想いを捨てる時が来るとすれば、それは彼女の世界の全てが消え失せると云うことだ。彼女が、世界を捨てる時。ボクの言葉に、ナオミは目を見開き、それから、ふっと笑って、「そうね、きっとそうよね」と云い聞かせるように、確かめるように呟いた。ボクも頷く。あんまり判ったようなことばかり云っていると、なんでさんのこと、そんなに詳しいの、と云われかねない。判った様な、と云うだけで、ボクだって本当の所は何も知らないんだ。ただ、一つ、これだけは判る。

「それに、あの人――与謝野先生だって、きっと…」



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