05





。アンタ、いつの間にあんなにナオミと仲良くなったンだい」

 医務室を出て、さっさと帰るよと急かしながら階段を降りて、その最中、思わずそう口にしていた。元々ナオミは、人並みの正義感や甲斐性を持った女だ。中々に気が強い。頑固だ。そんな少女に、曇りのない瞳で見据えられたあの時の感覚を、思い出す。彼女の口にした言葉さえも、思い出す。正直、本当に予想外だった。ナオミがあそこまで、の為に妾へ声を張り上げるとは。口を、挟んでくるとは。否、心配してくるとは、の方が正しいか。ああ見えて世話焼きだ。ナオミも、その兄も。自分達二人だけで世界が完結しているような顔をして、他人に口を挟む余裕を持っているらしい。ああ、否、完結しているからこそ、他人へ口を挟む余裕が有るのか。自分達の世界はもう完成しているから、他人の世界の綻びを、気にするんだろう。
 妾の言葉に、は目を瞬く。あんなに、とは、どんな位を指すのだろう、と云う顔だ。妾が云ってるのはそりゃあ、“の為に妾に生意気な事を云うくらい”と云う意味だけれど。自分が訪れる前にあの部屋でどんな話をしていたかなんて、は知る由もないんだった。

「別れ際、明日二人で悪巧みをしようッて約束をするくらいの“仲良し”だろう?」

 の肩が判りやすく跳ねる。ぎくり、と云う効果音がぴったりに、は目を泳がせた。目の前で話されたんだから、当然、聞こえていたさ。“作戦”って云うからには、あんまり他人の前で云うべきじゃあ無いんだろうけど。…まあ、わざとか。ナオミのことだから。慌てながらもは、「いいえ、いいえ、違うンですよ、あれはそのう」なんて、ぎこちなく言い訳を探す。

「別に良いさ。アンタが自分の時間に何をしようが、アンタの勝手だ。口を挟むつもりは無いよ」
「…そう、ですか…ええ、そうですよね…ありがとうございます」

 ぽつぽつと、萎んだ声では云った。妾の言葉を“素っ気無い”と受け取った癖に、口先では御礼を云うのだから、健気なものだ。この娘が妾に文句なんて云う筈無かった。不満を、ぶつけてくる筈が無い。先程のナオミの様に、「どうして何も云ってくれないの」と、妾に声を張り上げる筈が無い。だから妾は何も云わないで済むんだ。余計な事も、重要な事も、何にも。
 階段を降りきって道に出ると、それとなく妾もも周囲を探る。お互い口には出さないけれど、探しているものは同じだろう。
 ああ、今日は居ないらしい。背の高い、上等そうな背広を着たあの男は。

「……先生、あの…」
「…なンだい」
「そ、その、ですね…」
「云いたい事が有るなら、はっきり云いな」

 そうだ、はっきり、口にすればいい。自分がそれを聞いてやろうとしない癖に、随分な事を云うものだ、と自分自身に嘲笑ってしまいそうになる。だけど、この娘がはっきり言葉にする訳がないと云うのは、なんとなく判っていた。妾の触れたくない話も、妾の聞きたい言葉も。

「……迷惑では、ないですか」
「何が」
「…私が、お傍に居ること」

 急に、何を云い出すんだか。思いも寄らない切り口に、一瞬、面食らう。

「その…私、きっと、先生に許可を頂ける限り、傍に居続けてしまうと思うンです」
「…」
「此れって、迷惑なんだろうか、とか…考えてしまって。先生が一言、迷惑だと仰れば…その…」

 は俯いて、小さな声でそう云った。消え入りそうな声。最後の方はどんどん萎んでいって、よく聞こえなかった。きゅ、と感情を抑えるように片方の手で自分の手首を強く握っている。感情、と云うか、その手の震えを押さえているのかもしれない。なんだか見るに堪えなくてそれとなく視線を外す。薄暗い空に目をやった。
 どうして今、そんな事を訊くのか。来年だって再来年だって、一緒に桜も雪も見てやるから、なんて約束をしたのはいつだったか。アンタは妾の傍に居ればいいんだ、それだけで良いんだ、と云ってやったのはいつだったか。妾のその言葉を、忘れたのか。それとも、そんな言葉達が、只のその場凌ぎの口約束に過ぎないと霞んでしまうくらい、彼女の心を揺るがす事件なのか、今回の其れは。妾が一言、迷惑だと云えば、この娘は本当に妾の傍から居なくなるんだろうか。妾だって、考える。妾にだって本当は大きな事件だ。妾の事さえ無ければ、この娘は見合った男と結ばれて、幸せに暮らす人生を送るのだろう。この娘がどれだけ妾に囚われているかなんて、妾が一番判ってる。良い男と結ばれて平穏な家庭を持つ事だけが女の幸せなのだと押し付けてくる世間には辟易するが、自分の身ではなく他人の問題となれば、少し話は変わってくる。きっと幸せなんだろうと思うことが出来る。その方が幸せなんだ。放してやっても良い筈なんだ。首輪を付けていないとは云わないが、繋いでいる縄をそこまで短くしてやったつもりは無い。妾の一言次第で、この娘は今よりずっと幸せな選択が出来る。彼女自身、すぐには受け入れられず暫くはめそめそ泣くだろうが、長い目で見れば、それはきっと正しい。

 なんて、

 莫迦みたいだ。妾がそんなまともな人間で在ったなら、酔った振りをして彼女をこの腕に抱く事なんてしないだろう。

「なンだい、アンタは妾がお婆さんになっても面倒見ようッてのかい?」
「せ、先生はきっとお婆さんになっても可憐な女性です!」

 からかうように云ってやったのに、そんなことを前のめりになりながら真剣に返してくるものだから、妾は思わず声を上げて笑った。妾があんまりにも笑うから、真剣な顔をしていたも徐々に恥ずかしさが込み上げたのか、顔を赤くして俯く。
 頭では判る。何度も考える。此処らで突き放してしまおうと思う。だけど、誰にも渡してやるもんかと意地の悪い顔をして笑う悪魔が自分の中に居て、其奴がギリギリの所で邪魔をするのだ。其奴は、どの程度迄なら突き放しても良いと云う加減を知っていて、の事を遠ざける態度を取るくせに、離れた分以上に引き寄せようとする、厄介な奴だ。だから、は妾から離れられない。何度も悲しい顔をさせられる癖に、期待が捨てきれない。ああ、本当、莫迦みたいだ。

。そんな事云ってると、アンタまであっという間にお婆さんになっちまうよ。勿体無いねェ」
「勿体無くなんてありません。もしも其れが叶うなら、私、ずっと…」
「ああ、止め止め。何が楽しくてうら若い女史が老後の話なんかしてるんだか」
「そ、それは先生が喩えとして持ち出したから…!」
「はいはい、全部妾のせいって事にしておくよ」

 そうさ、全部妾のせい。放してやらない妾のせいだ。その癖、「どうして何も云ってあげないの」「どうして言葉にしてはいけないの」と云うナオミの言葉の答えを、見つけていない振りをしている。


「は、はい」
「許可が要るッてンなら、いいさ。妾が許してやっても良い。アンタは妾の傍に居な」
「…っ! はい!」
「だけど此れだけは云っておく」
「…なんでしょうか」
「勿体無いッて事には変わりないンだ。妾はアンタを幸せには出来ないよ」

 自分の言葉が、自分の胸を突いてくる。この息苦しさの正体こそが、ナオミの求める答えだろう。妾はこの娘を幸せになんか出来ない。誰に云われなくても判る。が知らない男の元へ嫁に行っても良いかって?良いに決まっているだろう。妾を想い続ける事は幸せじゃないのかって?そんなの、決まっているだろう。にはきちんと幸せになる権利が有る。妾は其れを取り上げたい訳じゃない。突き放したって何をしたってこの娘が妾から離れないのは、きっと今だけなんだろう。いつかはこの娘も気付くだろう。ただ自分は酔っていただけだ、と。判っているのに、どうして、この娘は妾を、そんな目で見るのか。

「でも…私の幸せは、与謝野先生なんです」
「…なンだって?」
「先生が、先生として、其処に在り続けてくれる事が、私の幸せです」
「……」
「強くて、格好良くって、優しくって、気高くって、美しくって、凛として、何者にも汚されない、先生のことがすきだから。私は、貴女が貴女で居てくれればそれで、それ以上は、何も」

 の言葉に迷いは無い。恥じらう様子の一つも無い。ただ、当たり前の事を唱えるように唇が動く。じ、と黙りこんだ妾に、微笑みかけた。その表情があんまりにも満足気で、“幸せそうで”、目眩がしてくる。いっそおかしくなって笑いだせたら善かった。其れすらも出来ない。言葉が出ない。もういい加減によしてくれ。が、与謝野晶子を失えなくなればなるほどに、妾は妾を失えなくなる。

 そうして、アンタを、失えなくなるんだ。



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