06





「お気持ちは大変嬉しいのですが…御免なさい」

 その店にはいつもと変わらない珈琲の香りが在って、静かな音楽が在って、ただ一ついつもと違うものと云えば、向かい合った所に座っている男性の存在だった。店に入って来た時の様子が、落ち着かなくって、けれど嬉しそうで、その顔を見れば見るほど反対に私の気は重くなった。貴女から誘ってもらえて嬉しい、此処には善く来られるのですか、善い店だなあ、なんて、少年の様に瞳を輝かせるその人は、成る程、私に少なからず善い感情を持ってくれていたのだなと判る。珈琲を頼んで、沈黙を許さないとでも云う様に忙しく喋る彼に「ええ、はあ、そうですね」と相槌を打ちながらも、私の頭はこの後の展開への心配でいっぱいだった。矢張り、罪悪感は拭えない。誰かを、用意周到に傷付けると云うのは、気分の善くない話だ。彼の話が途切れて、「それで、僕へのお話と云うのは」と話を切り出された時、意を決してようやく、この言葉を云えたのだ。貴方の気持ちには応えられません。ごめんなさい。好きになってあげられなくって、ごめんなさい。

「………」
「…………」
「…そう、ですか。あのう、よく知らない男に云い寄られて、不快な思いをさせてしまったのなら謝ります。本当に申し訳ない。僕、一目惚れと云うものを、初めてしたのです。もう、どうやって貴女に自分を知って頂けるかと、躍起になってしまって、周りが見えなくなって」
「はい…その…いいえ、不快だなんて、そんな事は」
「でしたら、そのう、どうか…もう少し、機会を頂けませんか。もう少し、貴女に好かれる努力をさせて頂きたい。お友達からでも、どうか」
「いえ、あの…その…」

 真面目な顔で、切実な訴えを聞かせられて、私は言葉に困ってしまう。どうにかやんわりと、言葉を選んで伝えたいと思うのに、用意してきた「御免なさい」に早速こんな反応をされてしまうと、頭が上手く働いてくれない。伝えなくてはいけない事は沢山有るようで、たった一つだと云うのに。私は小さく深呼吸をして、きゅ、と膝の上で自分の拳を握る。云わなくては。彼を傷付けないために。傷付けてしまうとしても、これ以上は傷付けないように。

「私には、お慕いしている人が居るので」

 ああ、ああ、凄く衝撃を受けた顔をしてらっしゃる。ずきり、と、胃だか心臓だかが痛んだ。罪悪感。それでも、頭に浮かぶのは、与謝野先生の姿だ。嘗てこんなに、あの人を想う事に胸を痛めた事があっただろうか。暫く硬直していた目の前の人物は、はっと思い付いたように、「それは!」と少し大き目の声を上げた。

「それは、恋仲に在る男性なのですか?それとも、貴女の、一方だけの好意なのですか?」
「いっ……、…いえ、いいえ、え、ええと、恋仲です!」

 思わず本当の事情を話してしまいそうになった時、はっとして咄嗟に云い直した。先程よりも深く衝撃を受けて放心している男性から視線をそうっとカウンターテーブルへ移す。其処には長い黒髪の女の子が座っていて、丁度同じタイミングで私を振り返る。こくこくと首を縦に振られ、私も負けじと首を振った。ナオミちゃんは昨日の約束通り本当に、近くで私と男性の会話を聞いて、私が上手くやれるか見守ってくれている。此処で下手を打ってこの後の展開を台無しにしてしまっては元も子もない。店の外で待機してくれている谷崎さんに申し訳が立たない。
 最初から恋人役である谷崎さんが同席していては相手も私も上手く話を進められないだろう、と云う事で、谷崎さんはあくまで「最終手段」として、控えてくれている。相手が「それでもどうか!」としつこく迫ってきた場合、ナオミちゃんの独断で谷崎さんに合図を送り、谷崎さんは偶然此処へ来た風に店へ入って来る、と云う脚本だ。私の恋人です、と紹介し、谷崎さんが「俺の女に手を出すな」と一喝する…と云う、ナオミちゃんの作った筋書き。なんだか美人局みたいだ…と顔を引き攣らせる私と谷崎さんと違って、ナオミちゃんはとても楽しそうだった。
 そんな事を思い返していると、放心状態から還ったその人が、顔を上げて、きり、とした目で私を見つめた。真剣な声で名前を呼ばれて、びくりと私も体を強張らせる。

「その男は、どんな人物なのですか」
「…え?」
「その男より、僕の方が貴方を幸せに出来るとしたら、振り向いて頂けますか」

 怯んだ一瞬を突く様に、その人は言葉を続けた。

「失礼かもしれませんが、その男の御職業は?収入は?仕事の出来は?」
「…あの…」
「ご結婚の約束はされているのですか?されていないと云うのならそれは、」
「お医者様ですっ!」
「…医者」
「どんな怪我も絶対に治してしまう凄腕のお医者様です!あの人に治せない怪我なんてありません。瀕死の人間ですら無傷の状態に戻してしまうんです。本当に、凄いお人です。あの人以上のお医者様なんて世界の何処にも存在しませんわ」

 きゅ、と膝の上で握った拳が固くなる。捲し立てるように云い放った私の言葉に、相手は何か思うことがあったのか、再び口を閉ざした。ああ、どうして、こんな事を口走ってしまったんだろう。きっと、少し離れた所で聞いていたナオミちゃんが驚いているだろうな。ああ、どうしよう。後でどういう事だと訊かれるかもしれない。ああ、それよりも、谷崎さんも驚くだろうな。恋人役を演じてくれると云ってくれた谷崎さんに、余計な設定を付けてしまった、というか。ああもう、どうしてこう、こんな時、あの人の事しか頭に浮かばなくなってしまうのだろう。そっと目を伏せた私に、先程より幾らか落ち着いた声で、男性は話しだした。

「…貴女のその顔を見れば判ります。本当に貴女が、その男の事を愛していると云う事が」
「……はあ…、男…です、か…いえ、あの、ええ、そうですけれど…」
「僕は…昔から、父の云う『将来に役立つ事』だけを学び、こなしてきました。あらゆる勉強も、経営も…父の云う『将来』とは、自分の会社の将来の事だけを指すのだと思っていました。けれどきっと、それだけでは無かったんです。権力も地位も、自分の為だけじゃない。男として、いつか出会う、素敵な一人の女性を幸せにする為にきっと必要な物だった。僕が身に付けてきた全ては、その為にも在るんだと思うんです。僕は自分の持てる全てを使って、この人、と決めた女性を幸せにしたい。幸せに出来ると、思っています。今の自分は」
「…はい」
「それでも、僕は、貴女の想い人には勝てないのですね。その男の方が、貴女を幸せに出来るのですね…」
「それ、は…」
「教えてください。こんな事を訊いても、負け惜しみの様ですが……僕は、その男より何が劣っているのでしょうか」

 彼の表情は真剣だ。それでいて矢張り、何処と無く沈んだ様子にも見える。その瞳に見つめられると、心がざわざわと落ち着かなくなった。責める色がある訳じゃないと思う。それなのに、どうしてか、追い詰められている気持ちになる。ナオミちゃんにも谷崎さんにも、例の男性に対して無防備すぎて心配です、と云われたし、彼の言動は別に不快な訳じゃないと、先程本人にも私の口からそう云った。それなのに、今更、どうしようもなく、怖くなる。彼の言葉に答えなくてはと思うのに、何を云ってもこの人には、判ってもらえない、と、そんな気がしてしまう。
 私の想い人が、私を幸せにしてくれる?そうじゃない、いえ、そうだけど、そういう問題じゃない。私があの人に何かを求めているのではないし、何かをしてほしいと願っている訳ではない。ただ私が、勝手に幸せになるの。ただ私は、あの人があの人として居てくれればいい。そうだ、昨日も云ったじゃないか。「妾じゃアンタを幸せに出来ない」と告げられた時、私は、胸を張って云えたじゃないか。同じことを今口にすれば良い。――だけど、この人が、納得してくれる気がしない。そして、納得してくれないと云うのは、とても怖いことに思えた。「普通の人は」、私の言葉に納得しないのかもしれない。普通なら、私の此れは、幸せと呼ばれないのかもしれない。其れを真正面から実感すると云うのは、恐ろしい事に思えた。

「…何が、劣っているとか、そう云う事じゃ、ないと思います…」
「と、云うと?」
「貴方はきっと、女性を幸せに出来るだけの、権力も地位も持ってらっしゃる。だけど、私は、其れでは幸せになれない女で在ったと云うだけなんです。御免なさい」
「では、貴女の恋人は、僕には無い何を持っているのですか。どうしてその男とならば、貴女は幸せになれるのですか」
「…私の、幸せには…権力も地位も要らないのです。将来も、約束も要らない。与えてくださらないと云うのなら、愛情さえも求めません。ただ、ただ…」
「そんなものは、幸せとは呼べないではありませんか!その男が本当に僕より貴女を幸せに出来ると云うのなら潔く身を引きます、けれど、そうでないのなら…!」
「違うンですっ!私は、先生をっ」

 思わず両者が大きな声を上げた時、店の入口の方が何やら騒がしくなった。誰かが店に入ってくる。ああ作戦通りに谷崎さんが、と考える余裕すら無かった。私は興奮しきっていて、そちらを振り返る事を出来なかった。足音は迷わずに私達のテーブルへ向かってくる。そのずっと後ろから、男の人の声がした。その声は間違いなく谷崎さんの物だった。けれどつまりそれは、こちらへ近付いてくる足音の正体は、谷崎さんでは無いという証拠だ。カウンター席のナオミちゃんが思わず立ち上がっていた。ヒールの靴が、床を鳴らす音がすぐ近くで聞こえた。


「――与謝野先生ッ!待ってください!ちょっと!」


 入口から叫んだ谷崎さんの声に、はっ、と自身の目が見開かれる。その人はいつの間にか私達のテーブルにやってきていた。そちらに目をやって、私は呆然とする。どうして、と声に出したいのに、喉が干上がったように言葉が出ない。その人は私の呆然とした顔を一瞥し、それから向かい側に座った男性へ視線を移した。「何ですか、貴女は」と、男性が突然の来訪者に疑問の声を上げた直後、その女性は――与謝野先生は、私と男性の間に挟まれたテーブルを、バン!と手の平で叩いた。大きな音が響き、一瞬で店内が沈黙する。

「妾の女に手を出すな」

 それは、ナオミちゃんの考えた台詞、そのまま。用意された、作戦通りの台詞。けれど、この人が云う筈のなかった、一言。私はいよいよ頭が真っ白になって、いいえ、もう、脳みそも、体、指先までが、じぃんと痺れていくような感覚に陥って、何も云えず、何も考えられず、呆然とその言葉を耳に入れていた。私の向かいに座った彼も、状況に追いついていない様に、ぽかんとしていた。与謝野先生だけが、気怠そうに、そして幾分、不機嫌そうに、はあ、と溜息を吐く。

「…なんて、有りがちで安っぽい台詞、妾は好きじゃないンだけどねェ」
「……あ、貴女は、一体…」
「此れだけ派手に登場して、判らンのかい?ほら、いつまで呆けてるンだ」
「あ…」

 先生の手が、此方に伸ばされる。私は引き寄せられるようにふらりと立ち上がって、その手を取った。どうして此処に、とか、どうしてあんな台詞、って、云いたいのに、全部尋ねてしまいたいのに、今はまだ駄目だ、と私の手をぐいと引っ張る先生がそれを制している気がした。

「…な、何をふざけた事を…貴女は女性でしょう、僕をからかっているんですか!まさかさん、僕に諦めさせる為にこんな茶番を…」

 男性が、私の顔を見た気がした。何かあなたも云ったらどうだ、と云う視線だったのかもしれない。けれど私の顔を見て、何かを察したように彼は息を呑んだ。きっと私は、だらしのない顔をしていたのだと思う。先生の事しか目に入れていない私に、気付いたのだろう。本物だと気付いたのだ。自分を騙す為の嘘では無く、本当に、この女はその人の事を想っているのだと、判ったのだ。きっと、誰が見たって、判ってしまうんだ。

「そう云う訳でねェ。悪いがこの娘の事は諦めな。なァに、アンタなら直ぐイイ女に出会えるさ。イイ嫁さんにもイイ家庭にも恵まれるだろうね。けど、相手はこの娘じゃない。他を当たっとくれ」
「な…」
「行くよ、
「……はい、先生」

 さっさとその男性に背を向ける先生は、私の手を離さない。ああ、そういえば、ナオミちゃんの脚本には、「最後は二人手を繋いで店を出て行くの」と有った気がする。その、筋書き通りなんだろうか。先生は、それをなぞっているんだろうか。ナオミちゃんの計らい?それとも、これは、先生の…、否、どちらだって良い。構わない。都合の良い解釈をすればいい。あの夜の様に、心の中で謝るのだ。仕組まれた事であったとしても、先生にそんなつもりなんか無くっても、都合がいいと思ってしまって御免なさい。嬉しく思ってしまって御免なさい。そう、心の中で唱えて。だけど、きゅ、と握った手が強く握り返された時、私はたまらなく胸が震えて、ばかみたいに泣きそうになった。
 そんな様子が、男性の自尊心を酷く傷付けるものだとは、考える事が出来なかった。

「ふざけるな!こんな屈辱を味わったのは初めてだ!自分より相応しいとは、どんな男が相手かと思えば、女だと!?僕より幸せに出来る男ならばと思ったさ!だが男ですら無い!其れ以前の問題じゃないか!馬鹿馬鹿しい!女同士で恋い慕うなど、何の生産性も無い!ただの頭の狂った異常者だ!貴女達には恥と云うものが無いのか!女が男に当たり前に与えられる幸福を拒む事になるんだぞ!結婚をして、子供を産む、そんな当たり前の、」

 強く握っていた筈の私の手から先生の手が擦り抜けていった事に気付いたのと、興奮しきった様子で声を荒げていた男性が先生に殴られた事に気付いたのは、どっちが早かったか。もちろん私から手を離さないと殴る事は出来ないので、手を離した方が先だっただろう。だけど、その間が判らないくらいに、迷いなく、一瞬にして、先生はその男性の頬を思い切り殴っていた。平手打ちなどと云う可愛いものじゃない。固く握った拳は、一撃で、男性の顔の形を作り変えた。男性の体がテーブルに沈む。がたん、がしゃん、と大きな音が響く。寝ている暇など無いだろう、とでも云う様に、先生は男の胸倉を掴んで、顔を近付けた。私は、その人に云われた言葉も、今のこの状況も、上手く飲み込めない。判っている筈なのに、何も声を上げられない。

「へェ。女の癖に、男を愛さず、家庭を持たず、男の為に股を開かないなんて生意気だ、と」
「…ぐっ…が…」
「これはこれは、さすがは活躍めざましい若社長様だねェ。高尚な考えをお持ちでいらっしゃる」
「や、…やめ」
「しかしねェ、女に振られて、女に負けたのが、それほど恥ずかしいかい?妾ゃ潔く身を引けない、のみならず煩く喚き散らしてる事の方がよっぽどみっともないと思うンだがねェ?」
「よ、与謝野先生!企業の社長相手に暴力沙汰は、あまり善くないンじゃないかな、と、思うンですが…」

 いつの間にかすぐ傍までやってきてくれた谷崎さんが、先生の背中にそう声を掛ける。よく見ればその隣にはナオミちゃんの姿も有った。引き攣った顔で与謝野先生を宥める谷崎さんとは違い、ナオミちゃんは随分ときつい視線を、先生に掴まれている男性に向けていた。谷崎さんの言葉に、与謝野先生は数秒固まって、それから、ぽい、と要らない物を捨てるように男の胸倉を放した。目を回しそうな、真っ青な顔色。歯が折れたかもしれない。血が出ている。頬の凹凸も不自然だ。そんな男性を、先生は見下ろし、それから不意にくるりと谷崎さんを振り返った。目が合って、びくりと谷崎さんが後ずさる。

「其れもそうだねェ。下手にウチに因縁付けられても面倒そうだし」
「そっ…そうですよ、ねえ?」
「そうさねェ。この頬の殴られた痕が何よりの証拠になっちまうねェ」

 そう云って、また与謝野先生は男性の方を振り返った。もう完全に先程までの威勢を失った彼は、ヒッ、と短い悲鳴を上げた。そんな相手をいたわるように、しおらしい様子で、先生はその指先で彼の頬から顎をするりと撫でる。

「悪いことしちまったねェ。妾も少し、気が立ってたもんでさ。あぁ、あぁ、イイ男が台無しだ」
「…あ、」
「けど心配するこたァ無いよ。妾はこう見えて医者でね、どんな怪我も綺麗さっぱり治せるッて評判なンだ」

 その言葉に、谷崎さんがもっと顔を引き攣らせて後ずさる。ナオミちゃんがにこりと笑いながら、「与謝野先生、お荷物ならこちらに」と、先生の「治療用」の鞄を差し出す。ああ、それ、持ってきていたのね。与謝野先生はナオミちゃんに負けじとにっこり笑って、その鞄を受け取った。

「そうだろう?谷崎。殴られた証拠…いいや、殴られた痕なんて、綺麗さっぱり消えちまうンだったねェ?」
「あ…あはは…ええと…そうですね……さ、さすがに、此処じゃあ、御迷惑を掛けるンじゃないですかね…?」

 先生の鞄から覗いた鉈の先端に、悲鳴を上げて男性が気を失ったのは、その直後の事だった。



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