07





「はあ…無事会社まで送り届けられて善かったよ、あの社長さん」
「ええ、無事に。ちゃんと『無傷』ですものね、文字通りに」
「あ、あはは…心にいろいろと傷は負ったかもしれないけどね…」
「あら。自業自得ですわ。与謝野先生を怒らせたんですもの」
「ナオミもノリノリでけしかけてたじゃないか…」
「うふふ」
「…ッて云うか、与謝野先生をあそこに呼んだのもナオミなンだろ。もう、困るよ…作戦変更が有るならボクにも云っておいてくれなきゃさ。店の近くで待機してたら与謝野先生が現れるし、さっさと中に入って行っちゃうし…凄く焦ったンだ」
「人聞き悪いですわ。私は呼んでないったら。ただ昨日、作戦決行の場所と時間をさんと喋っている時に、与謝野先生に聞かれてしまったみたいで」
「聞かせた癖に…」
「だ・と・し・て・も、来るかどうかは与謝野先生が決める事でしたもの。私は何もしてませんわ」
「…そう?」
「そうよ」

 ナオミは笑って、上機嫌にボクの腕に抱きついた。すりすりと頬を擦り付けて、本当に本当に、機嫌が良さそうだ。今日はいろいろあって疲れたけど、無事に、一人の男性を送り届けたし、もう家に帰ろう。陽も落ちて、辺りはすっかり暗くなっていた。ボクとナオミで例の彼を送ってくる、という話になった時、「二人にばかり御迷惑をかけられない」とさんも来たがっていたけれど、やんわりと断った。「そんなことより、与謝野先生を気にしてあげて」と云うと、驚いた顔をして、それから、眉を下げて笑ったんだ。その笑顔を思い出して、なんだかボクまで、胸が痛んだ。

「ナオミ。さんから連絡有った?」
「ええ、矢っ張り、まだ医務室の扉の前に居るらしくって」
「…与謝野先生、まだ閉じ籠もってるンだ?」
「仕事と片付けが溜まっているから邪魔されたくない、なんて云ってましたけど、嘘ですわね」
「多分ね。あんな事が有ったすぐ後じゃ…あんまり、顔を合わせたくないンじゃないかな」
「でも、与謝野先生はさんの為に一肌脱いでくださったのだし、後ろめたい事なんか無いのに」
「…顔を見たら、酷い事を云ってしまいそうで怖いのかも」

 あの喫茶店の一件で気絶した彼を、与謝野さんは「こんな所に放置しておいたら可哀想だろ?」と尤もらしく理由付けて探偵社の医務室に運んだ。傷を治してからボクらに彼を預けて、自分はまたさっさと医務室に戻ったのだ。何でも、「それまでの仕事を一旦放り投げてあの時間にあの場所へ足を運んだものだから、まだ今日の内にやらなきゃいけない事が溜まってる。意図せず急患の治療もしたし。集中して仕事を片付けてしまいたいから誰も医務室には入るな」と云って、さんの入室すら拒んだらしい。いやいや、あんなことがあった後に、何もさんに説明してあげないなんて、云いたい事を話してあげないなんて、とは思ったけど、暫く一人になりたい、と云う与謝野先生の気持ちも、判らなくはない。さんだってたくさん、聞きたいことがあるだろうけど。

「酷い事って?」
「んー…思ってもないこと?」
「…『誰の嫁に行こうが関係ない』とか、『その方が妾も嬉しいよ』とか…? 嫌だわ、またさんが元気を失くしてしまうじゃない!私、ちょっと様子を見に行こうかしら」
「そこまでかは判らないけど…いや、でも、今日はボクらはこれ以上首を突っ込まない様にしよう」
「どうしてよ!」
「ナオミ。きっと大丈夫だよ、あの二人は…二人で解決出来ると思う」

 心配な気持ちは判る。ボクだって、此処まで来たら最後まで世話を焼きたい気持ちもある。だけど多分、この先は二人の問題だ。二人だけで解決する問題。ボクらが口を挟めるのは、此処までだ。口を尖らせて、不満そうにボクを見上げていたナオミが、少しの沈黙の後、「判ったわ」と肩を竦めた。

「でも…あの男性、最初はあんなににこにこしていたのに、あそこまで逆上するなんて…正直私も予想外でしたわ」
「ああ、確かに…素行を少し調べた限りでは、そんな感じしなかったんだけどな…余っ程だったンだろうね」
「余っ程、認めたくなかった?」
「うん」
「余っ程、理解できなかった?」
「うん、マァ、そうだろうね」

 ボクの言葉に、ナオミはまた浮かない顔で、少し唇を突き出した。俯き気味に、肩を落とす。「なんだか、」と小さな、消え入りそうな声で呟く。やがてそっと顔を上げて、ボクを見て、改めて言い直す様に、今度は少しだけ音量を上げて、はっきり云った。

「なんだか、悲しいわ」

 そうだね、と口にしたつもりが声になっていなかった。言葉にする代わりに、ボクは困ったように少しだけ微笑んで、ナオミの頭を撫でる。此ればっかりは、別に、彼が悪人だと云う訳じゃないんだ。何が悪いだとか正しいとかじゃないんだ。ただ、個人の気持ちの問題なだけ。だからこそ厄介で、だからこそ悲しい。

さんは大丈夫かしら」
「ん?…彼、あれだけ酷い目に遭ったンだから、さんももう付き纏われる事は無いと思うよ」
「それもあるけど、そうじゃなくって…あの言葉に傷付いてないか、って…」
「…うん……明日になっても若しさんが元気無かったら、その時は…ナオミが沢山、優しい言葉を掛けてあげるといいンじゃないかな」
「……そうね、そうよね、兄様」

 全ての心配を払い除ける答えじゃないけれど、ボクの言葉にナオミは頷いて、微笑んだ。うん、とボクも頷くと、ナオミはわざと気持ちを切り替えるように、ぎゅう、とボクの腕に抱きつく。「さすが、ナオミの兄様ですわ!」そう云ってナオミは嬉しそうな顔をしてくれるけど、ボクはいつだってこの子以外の他人には、当り障りのない、普遍的な優しさしか口に出来ない。

「ねえ、兄様。ナオミは兄様が大好きよ。誰かに異常だって云われても、好きな気持ちは変わりませんわ」
「…それは、」
「だから兄様!お願いがあるのだけれど!」
「えっ!?何いきなり!?」
「せっかく兄様に細かく演技指導をしたのに、『恋人役』の出番が無くって残念だったでしょう?だからせめてもの供養として、今!ナオミに御芝居を見せて頂戴!」
「はっ!?ええ!?今!?」
「そうよ、兄様はナオミの恋人役で、私の肩を抱きながら愛を囁くの。ナオミは誰にも渡さない…って! ね?良いでしょう?」
「……あのさ、ナオミ。一応聞いておくけど…与謝野先生がボクと役を代わってくれて喜んで…ッて云うか、其れを目的に仕組んでた、なんて事は…」
「あら、恥ずかしいなら良いンですわよ。家に帰って二人っきりのところで、ね?うふふ」

 笑って、ボクの腕に抱きつく力をより強めたナオミに、敵わないなってボクも苦笑する。まあ、ボクだって、ナオミ以外の女の子が腕に抱きつくのは少し、落ち着かなかったと思うから。此れで良いんだろう。良い結果になった。最初から、ボクの偽者の「恋人役」の出番は要らなかったんだ。後は、あの二人が笑って明日を迎えてくれるのなら、ナオミの憂いも無くなるだろう。此れで良い。此れでボクらは幸せ。あの二人が、否、世界中の人が、そう気付いてくれたのなら、もっとボクらはボクらを愛しやすくなるのにな。



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