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「…ねえ、先生?与謝野先生?…中に、入っても宜しいですか」 医務室のドアを軽く叩いて、そう尋ねる。気付けばもう完全に陽は落ちていて、仕事を切り上げた社員の皆さんも続々と帰宅している時間だ。つい先程帰る支度を整えた国木田さんが医務室の前までやって来て、まだ帰らないのかと私に尋ねた。与謝野先生がまだ残られているので、と答えれば、彼は神妙な顔付きで私のすぐ後ろの扉を見た。けれど深くは問わずに、そうか、と頷き、「あまり遅くならない様に、とお伝えしといてくれ」と残し、先に帰って行った。もうきっと社に残っている者はほとんど居ないだろう。いくらなんでもそろそろ帰らないと、と医務室の扉からの返事を待つ。暫しの沈黙の後、扉の向こうから少しだけ不機嫌そうな声が返ってきた。 「なンだい、まだ居たのかい?先に帰れって何度云えば判るンだ」 「…すみません。でも、そんな…先に帰るなんて…」 「あぁ、そう。なら其処で朝まで待ってな」 「あ、朝まで掛かりそうなお仕事でしたら、私、御手伝いしますから!…だから、その…」 中に、入れてください。消え入りそうな声は、自分の耳で聴いても弱々しくって情けなかった。親に家から閉め出された子供のよう。道に捨てられてしまった子犬のよう。同情を引いて、どうにかそこに在ることを許されようとする、弱い生き物の真似でしかない。そしてそんな私の声に流されて扉を開けるほど、先生は単純ではない。返事が無い事に肩を落として、私は医務室の扉を指先でそっと撫でた。 いつになく先生が素っ気ない。怒っているかもしれない。理由なんて、考えなくても判る。その原因を作ったのは私だ。だから、顔を見てきちんと謝りたいのに、探偵社に戻ってから、一度もまともに話す暇無く、先生は私を避けるように、医務室に閉じ籠もった。謝りたい。ちゃんと、全部、謝りたい。許されたいのではなくて、あの人の目を見て、ちゃんと、私の罪を自覚したい。 「……」 不意に、名前が呼ばれる。ぽつりと、だけど声は少し硬い。はっとして背筋を伸ばして、短く返事をした。けれどその先に何かを言われるわけではなかった。どうしようか、と考えたのは少しの間だけ。先生は、私の名前を呼んだのだ。私を、呼んだの。呼ばれたのなら、お傍に行かなくちゃ。行っても、いいはず。そう勝手な解釈をして、ドアノブを握った。 そっと開けた扉の向こうの先生は机に向かっていて、部屋への侵入者になんて目もくれない。何か書きものをしているらしい。仕事が溜まっていて忙しい、というのは、嘘じゃないみたいだ。疑っていたわけでは、ないけれど。あんまりにも無反応で、振り返ってくれさえもしないから、私が先程聞いた「」と呼ぶ声は都合の良い幻聴だったのではとすら思える。だけど、「誰が入っていいなんて言ったんだ」とも云われないので、やっぱり許されている気にもなってしまう。音を立てないよう注意深く扉を閉めて、私は部屋の隅に移動する。 「あの…先生、何か手伝うことはありませんか?」 「無いね。部屋には入れてやったんだ。大人しく邪魔にならないよう待ってな」 「でも、ただ見ているのなんて…何か少しでも、」 「。妾の云うことが聞けないのかい?」 「お、お掃除だけでも…」 「視界の端でばたばた動かれると気が散るンだ。いいから。椅子ならあるだろ。それくらい自分で引っ張りだして来な」 それだけ云うと先生は口を閉ざし、作業に没頭した。私はその背中を、部屋の隅から眺める。しゅんとして、溜息を吐きそうになって、でもそんな音すら先生の集中の邪魔になるかもしれない、と肩を竦めた。先生の苛立ちが、その背中から伝わってくる。先生は気が立っている。五月蝿いと云われたとしても、矢っ張り、謝りたい。小さく、「先生、」と口にした。返事は無かったけれど、五月蝿いとは云われなかった。だから、続けて口にした。 「今日、私のせいで嫌な思いをさせてしまって…本当に、すみませんでした」 「……」 「気分が悪いですよね、よく知らない人間にあんなふうに、怒鳴られて…」 「…」 「先生は、私のために、嘘を吐いて、芝居を打ってくれただけなのに」 実際に音なんか聞こえないのに、ぴたり、という音が聞こえそうなくらい、唐突に先生がペンの動きを止めた。続けて、机の上に適当にペンを放る。そしてこの部屋に入って初めて、否、若しかしたら今日という一日の中で初めて、私を振り返って、私と目を合わせた。やっと、ちゃんと目が合った。あんなに目を見て話したいと願っていた筈なのに、今改めて、じぃ、と射抜くように見詰められると、私はぐっと顔が熱くなるのに気付いて、思わず視線を泳がせてしまいそうになる。けれど、それではいけない、いけないわ、と云い聞かせて、堪える。 「ええと、その…、驚きました。先生が、あの場にやって来た時。若しかして、ナオミちゃんに云われて協力してくださったんですか。ナオミちゃん、与謝野先生に相談したらどうなの、って心配してくれていたから…。でも、きっとあの男性も悪い人なんかじゃなくって、悪いのは、私で…きっぱりと嫌われてしまったほうが善かったんです。だから、その…先生のことを巻き込んでしまって本当に申し訳ないけれど、先生にとっては散々だったかもしれないけれど、私は…助かりました、凄く。有難うございます」 「……芝居、ねェ…」 「…え?」 「……ああ、まァ、芝居か。そうだねェ。それもそうだ」 額に手を当てて、呆れたような表情なのに、くつくつと先生が笑った。なんにも面白くなんか無いのに、無理矢理に笑っているみたいな笑い方だった。そんな先生を見ていると、なんだか心がざわざわと落ち着かなくなって、先程までの決意虚しく、私は思わず視線を泳がせてしまった。ええと、と言葉を探しながら、もじもじと落ち着かなく指を擦り合わせる。 「それで…矢っ張り、私先生に御礼もお詫びもしていないから…何か私に出来ることが有れば、」 「」 「は、はい」 「妾が腹を立てた理由は何だと思う?」 え、と言葉に詰まって、私は固まる。先生は鼻で笑うように、依然、静かに内側に怒りを燻らせているような不機嫌さで、私を見つめていた。 「…それは…私のせいで、くだらない事に巻き込まれたから…」 「違う」 「私のせいで、理不尽に、怒鳴られたから…嫌な思いを…」 「違うね」 「…だって、理不尽じゃないですか。先生は、不本意に、ああいう芝居を…、本当だったら云われなくて良いことを、云われて」 「違うッて云ってるだろ。判ンない奴だねェ」 「だって…あんな、暴言…」 思い返して、胸を突かれる様な痛みを味わう。頭から離れてくれるわけがない。忘れるわけがない。頭に血が上った男の、びりびりと鼓膜に、脳味噌に、乱暴に響くような怒鳴り声。向けられる嫌悪、敵意、憎悪。実際に聞いた直後は頭がついていかなかったのに、今更、手が震えそうになる。気持ちを落ち着かせようと小さく息を吐いても、なんだか余計に苦しく感じるだけだった。 恐ろしいと思った。こんなにも恐ろしいことだなんて判らなかった。 「…」 「あ…」 震えそう、だなんて思っていたのは先刻までの話だった。自分を見下ろして、驚いた。自分でも可笑しいくらい、体の震えが止まらない。流石に見兼ねた先生が、椅子から立ち上がって私の元へ近寄ろうとする。けれど私は其れを拒むように、俯いて首を左右に強く振った。先生が足を止めて立ち尽くす。私は自分の肩を抱きながら、また、何度も首を振った。 「違うんです、先生」 「…何が違うッて?」 「私が、許せないのは…」 あの男性の言葉でも、態度でもない。 私が許せないのは、こんな感情を抱きながら、このひとの傍に居続けようとする、自分自身だ。其れこそが何より恐ろしい存在だと、許せない存在だと、私は今回の一件で、初めて自覚した。気付いてしまった。気付かされてしまった。今ほど自分自身を消してしまいたいと強く思ったことはない。 「私、矢っ張り与謝野先生のお傍に居ない方が良いんです」 「…何云ってンだい。落ち着きな、」 「だって、たとえ嘘でも、芝居でも、先生があんな風に罵られるのは、耐えられなくて…」 「ハァ…あんな男に負け惜しみに吐かれた暴言なんか痛くも痒くもないだろ」 「私は嫌です! 先生を悪く云われるのは、嫌です。先生の在り方に、どんな些細な傷が付くのだって、いやです」 「…」 「自分の事は何て云われようと構いません。不幸だと思われてもいい。酷い言葉を浴びせられてもいい。頭の狂った異常者だと罵られても構わない。だけど…先生がそんな風に云われるのは、嫌です…」 「…」 「先生はこんなに、完璧な人なのに…美しくて、気高くて、何も欠けてなんかないのに…、私、先生を貶める存在にはなりたくない…」 私の「恋人役」なんかを担ったせいで、先生が汚い言葉を浴びせられた。本来ならば在りもしない理由で、「お前はおかしい」と罵られた。私という存在のせいで、完璧である筈の先生の美しさが、損なわれた様な気がした。それが酷く許せなかった。酷く、恐ろしかった。 今回の事は御芝居だ。先生は、何も本気で、「自分のもの」として私の手を引いたわけじゃない。本気で、恋人同士がするように、私の手を取ったわけじゃない。恋い慕う仲なんかじゃない。お芝居だ。演技だ。だから、確かに先生自身は何も傷付いてなんかいないかもしれない。そんなに弱い人じゃない。芝居上の偽りの自分に対しての暴言なんて、本当に痛くも痒くもないのかもしれない。 だけど、若し、先生が本当に私をそんな風に想ってくれることがあったとしたら、それは――他者からすれば、異常で、咎めるべきもので、詰る対象なのだ。私の、先生に対するこの感情は、先生を穢してしまうのだ。先生を、完璧でなくしてしまう。こんなに素敵な人を、私という存在が貶める。 与謝野先生が、与謝野先生として在り続けてくれる事が自分の幸せだと云った。其れだけで良いと云った。其の癖に私は今日、あの場面で、手を引かれて嬉しかった。愛されたいなんて高望みはしないと口では云う癖に、嬉しいと思ってしまった。きっと私はこの人の傍に居られれば居られるほど、愛されたいと願ってしまうんだろう。だけどその願いこそが、私の一番の望みであるはずの、「先生が、与謝野先生という、何者にも汚されない存在で在り続けてくれること」を叶わなくさせる。 だから矢っ張り、恐ろしかった。こんな感情を抱きながら先生の傍に居る自分が。何にも汚されない筈の存在に、自分は泥を塗り得るのだと思ったら、こんなに恐ろしいことはないと、そう思えた。 「ごめんなさい、私矢っ張りおかしいのだわ。こんな女が傍に居たら気持ちが悪いでしょう、先生。せっかく、昨日、傍に居ても良いと云ってくださったのに、あんなに優しくしてくださったのに、ごめんなさい、私、そんな資格は無いんです」 傍に居て良いと云ったのは、私のこんな感情を知らないから。私がどんな気持ちで先生の傍に居るか知ったらきっと先生も嫌になるはず。不快に思うはずだ。あの人の様に、「そんなのは異常だ」と気味悪く思うかもしれない。だけど、それでいいの、そうでなくちゃいけないんだ。其れが普通で、正しいのならば、先生は正しく在るべきだ。与謝野先生という存在は、そうでなくては。 私の言葉を黙りこんで聞いていた先生が、一歩近付いてくる。びくり、と肩を震わせた私に構わず、先生は私との距離を詰めた。首を振って、「来ないで」「優しくしないで」の意志を伝えても、そんなものは先生に対する制止にはならない。優しくされたら、期待してしまう。願ってしまう。この人に愛されたいと、思ってしまう。だけどそんな願いは、私と不幸になって、と云う呪いと同じだ。そんなことは望めない。いいえ、そんなことを望んでしまいそうな自分が嫌い。汚いわ。卑しいわ。私はもっと、先生の傍では綺麗に在りたいのに。貴女みたいに、綺麗なのがいいのに。 「先生、私は…」 「もういい。」 「でも…」 「目ェ閉じな」 静かな声に、耳を疑った。目を閉じるどころか、驚きのあまり、見開いた。気付けばぐっと近付いていたその距離を、さらに限界まで詰めて、先生の片手が私の腕を掴んだ。もう逃がすものかと云わんばかりにその手に力が込められる。空いたもう片方の手が私の顎に添えられ、そっと顔を上げさせられる。必然的に視線が絡んだ。私の、すっかり水気を含んでいた瞳を覗き込んで、先生が目を細める。そのお顔があんまりに綺麗で、こんな距離で見つめていることを意識した途端、胸の奥がぎゅうっと痛くなった。せんせい、と小さく呼んだ直後、その顔が近付く。きっと一瞬の出来事だったと思うのに、どうしてかその一瞬が、勿体ぶるようにゆっくりと、私の視界を流れて行った気がした。先生が目を伏せたのを見たら、それまでの困惑や躊躇いが無かったみたいに、私も、きゅ、と目を閉じていた。きつく、何かを振り払うように、瞼を閉じて、体を強張らせて。けれど唇に触れた柔らかさに、心が解れていくような気になって、すっと体の力が抜ける。触れた所から、じんと伝わる熱が、自分の中に融けていく。距離が零になる。一つになる。欠けた部分を埋めるような、塞ぐような、そんな行為みたいだ。少し離れたと思えば、すぐにもう一度、もう何度、と唇を重ねて、どれくらいの間その行為に耽っていたのか判らない。何度目かに唇が離れていった直後、引き寄せられた体は、ぎゅう、と先生の腕に包まれていた。 細い肩。柔らかい体。私と同じ、おんなのひと。 先生は何も云わない。けれど、ぎゅう、と、苦しくなるくらい私の体を抱きしめる。私も何も云えなくて、ただ、こんなにも先生の温もりに包まれていられることが嬉しくて、目を閉じて身を委ねた。重たい沈黙ではなかった。それなのに、その静けさに、涙が出そうになる。 「…どうして何も訊かないンだ、アンタって奴は、いつも」 静寂の中、ぽつり、耳元でそんな声がした。永遠に続くように思えた沈黙は、不意に途切れる。私は閉じていた瞼をそっと持ち上げた。けれどきつく抱きしめられているせいで、先生が今どんな顔でそんなことを云ったのかは判らない。どんな表情で、そんなふうに、震えた声を私に聞かせたのか、判らない。 「訊けばいいンだ。どうしてこんな事をするのか、ッて。どうして、云わない。何も訊かない。何も、責めない。思わせ振りな事をして、素っ気無くして、また引き寄せて、酷い矛盾だ。アンタはどうしてそんな妾に文句の一つも云わないンだ。云えば良いだろう。そうすれば妾は、おまえから、逃げられやしないッていうのに。なんだって今更、妾の気持ちは要らないだなんて云うンだ。同じ気持ちじゃ困るだなんて云うンだ。今まで散々好き勝手に振り回した、妾への仕返しかい?」 ひどく、強い力で、抱きしめられていると思っていた。けれど、気付く。きっとこの腕は私でも簡単に振り払えるほどの力でしか、私を抱き締めることは無いのだと。きっと、いつだってそう。これからだって、そう。 どうして、なんて、訊けない。あの夜にだって訊けなかった。本当は、ずっと、訊かなくちゃいけない、って判っていたのに。訊いてしまえば、自分にとっての「都合の良い夢」が終わってしまうと思ったから。訊いてしまえば、もう、先生に触れてもらえなくなると思ったから。どうして、と尋ねた時に、「こんなのは悪ふざけだ。お前をからかっているだけだ」と云われたら、きっと悲しいと思った。それさえ訊かなければ、ずっとその腕に抱かれていられると思った。私は其れに甘えていた。いろんなものを、見ない振りした。 だのに、今、先生は云う。どうして何も訊かないんだ、と。どうして何も訊いてくれないのか、と。逃げられなくなる、というのはきっと善い意味での言葉では無いはずなのに、そうさせてほしい、と私に云う。訊いてはいけないことなのに。告げてはいけないことなのに。私の言葉で、後戻りなんて出来なくさせてしまえばいい、と。 「…訊いても、良いのですか」 傍に居ては迷惑にならないか、だとか、そんな回りくどい質問ではなくて。もっと私が訊きたくって、もっと私が口にしてしまいたいこと。抱きしめていた先生がそっと私から体を離して、瞳を見つめる。真っ直ぐに、受け止めてくれるのだと判る。 「どうして、今日、あの場所に来て、あの人に、あんなふうに云ってくださったの」 「アンタを盗られたくないからだ。誰にも渡してやるもんかと思ったさ」 「…、…『腹を立てた理由』は、何だったのですか」 「そりゃあ、あの男の言葉にも多少腹が立った。“芝居じゃなかった”ンだから。本気で苛ついたね。けど一番腹が立ったのは自分にだ。アンタを失えやしないのに、今まで散々、つまんないことに悩んで、つまんない意地張ってた自分に、腹が立った。結局この選択をするんだったら、もっと早く、こうしてやれば善かったのに」 「…先生」 「ナオミにも『らしくない』なんて説教されるしねェ」 「そ…そんなことがあったんですね…」 やれやれとわざとらしく肩を竦める先生に、私は少し笑ってしまう。緊張気味だった心が解れて、そんな私の様子に先生が目を細めて微笑んだ。それまでよりずっと空気が和やかになって、そんな中で笑いながら少しだけ泣きそうに潤んだ自分の目が、この場に相応しくないとすら思った。 「先生、私、まだ訊きたい事があるんです」 「そりゃあそうだろう。妾にだってまだ沢山、訊かれてない事が有るンだから」 先生の手が、私の頬に触れる。其れだけで、ぐんと体温が上がって、余計に何故だか泣きそうになって、堪える様に一度唇を噛んだ。 「…、…わたし、先生の事を、想っていても、いいのですか」 「…其れが本当に、アンタの訊きたい事かい」 「だって、私、本当に御迷惑では無いか、って…」 「もっと他に訊く事が有るだろ?」 「いいえ、其れさえ判れば、私は…」 「こういう時には、たった一言、訊けば良いンだ」 「一言、ですか」 「…愛しているのか、ッて」 内緒話をする様に、小さな声で其の人が囁く。目を瞠って、同時によりいっそう顔が熱くなった気がして、私は言葉を発せなくなる。その様子に小さく笑った先生が、すっ、と顔を近付けるものだから、思わずきつく目を瞑った。両肩を上げて、不自然に体を強張らせながら、触れてくるかもしれないその柔らかさに身構える。けれど、唇が押し当てられたのは、先程撫でられていた頬だった。安堵するように自分の肩の力が抜ける。それでも先生はすぐに私から離れる訳でなく、その唇を私の耳元に寄せて、小さく囁いた。 「“愛しているから、こういう事をするのか”、だとか」 先生の唇が、耳朶に触れてしまいそうな距離。息が掛かって身じろぎした私に、先生は笑って、さらに吐息が耳をくすぐる。 「“愛しているから、酔った振りをしてああいう事をしたのか”、だとか、ねェ?」 「せ、んせい、其れは…」 「酔ってなんかいないッて判ってたンだろう?」 脳裏に浮かぶ、誰にも云えない、秘密の夜の情事。口付けた時に微かに鼻をくすぐるお酒の匂いと、肌を撫でる指に、頭がくらくらしたのを覚えている。『そういう事』があった翌朝には、僅かな罪悪感と緊張を抱いて先生と顔を合わせていた。先生が昨晩の事を覚えていたらどうしよう――覚えている、という事にされたら、どうしよう、って。きっと先生は酔っている訳ではないのだと、私は薄々判っていたのだ。けれど、『酔っているのでは無いのなら、どうして』と考える事が少し怖くって、気付かない振りをした。深い理由なんか無く、唯の悪ふざけかもしれない。そんな風にも考えてしまうから、『先生は酔ってらっしゃるのだ』と、自分に言い聞かせた。「先生は酔っているのだから、と都合よく流される私」ではなく、「先生が酔っていないと判りながら、騙されている振りをする私」に、先生は気付いていたのだ。互いの嘘を知りながら、白々しいほどの見ない振りを続けていた。暗黙の了解だったのだ。翌朝、ちゃんと何もなかったことにしなくちゃいけないという、打ち合わせも無しに取り決められた約束。其れを初めて、先生が話に持ちだした。もう見ない振りは出来ない。もう、そんな振りはしなくていいだろ、と先生からの許しが出た様なものだ。けれど、其れならば余計に、困ってしまう。 「…じゃあ、先生も…判っていたのでしょう?先生が“何も無かった振り”をしてくれるのを良い事に、甘えて…私、凄く狡くて、端ない人間に映った筈です…」 酔っていないと気付きながらも、其の行為を拒まなかったのだから、私は狡い女なのだと、先生は知っている。何も無かった事になるのだから、と、其の夜にだけ思わず告げてしまった私の気持ちも、先生はちゃんと憶えている。そう思ったら、途端に恥ずかしくなって、その場から消えてしまいたくなった。そんな様子に先生は眉を寄せて、やがて溜息を吐いて、呆れた様に口にした。莫迦だねェ、と。本当に、呆れきったように。 「そんなの、酔った振りして、アンタが抵抗しないのを良い事に好き勝手弄んで、翌朝けろっと忘れた振りしてる妾の方が何倍も意地汚いに決まってンだろう」 「そんな…」 「ほら、妾の汚れた部分はアンタが一番善く知ってるじゃないか」 「そ、そんな事はありません!…先生は、いつも…」 きれい、と唇を動かそうとした直後、先生の指先が私の唇にそっと触れる。やんわりと押し留められた言葉を、喉を鳴らして飲み込んだ。私を見つめて、先生が此れでもかというくらい優しい表情を浮かべるものだから、話し方を忘れてしまった様に、私は黙りこんだ。ほら、矢っ張り、先生の汚い部分なんて知らない。こんな時だって、いつだって、私の目に映るこのひとは、美しいのだから。 「…訊かないのかい?」 小さく囁かれた言葉に、私の心臓が音を立てる。訊いてしまわないのか、って。何を、って、つい先程、先生が云った通りの事を。先生が私の髪を撫でて、その髪を耳に掛ける。壊れ物を扱う様に優しい手つき。自分と比べて少し背の高い先生を、そっと見つめて、視線を絡める。本音を云うのなら、訊くのは、少し怖い。其れは、悲しい答えが返って来たらどうしよう、と云う不安ではなくって、寧ろ其の逆。私の望み通りの答えが、その唇で告げられたら、どうしよう。先程までの不安はまだ自分の中で渦巻いていた。私の存在が、貴女の弱点にはならないだろうか。貴女という存在を穢してしまわないだろうか。そんな風に考えてしまうことが少し悲しいのに、自分の瞳に映るその人の姿は、矢っ張り、曇り無く美しくて、このひとが、このひとの美しさが、そう簡単に損なわれる筈が無いのだろうな、って、眩しいものを見るように目を細めた。 「与謝野先生は、私の事を…愛して、くださっているの?」 |