いつから気付いていたのかと云われたら、確かな事は答えられない。けれど、そういえば、傍に置き始めた当初から、この娘は何も変わっていないかもしれない。仲の良い姉妹の様だと云う者も居た。成る程確かに、そう見えない事も無いだろう。だが、実際の所は「姉妹のよう」とは少し違っていた。此方の何気無い言葉に耳まで赤くなったり、些細な贈り物や労いに心底嬉しそうに笑ったり、少し気紛れに触れてやったら生娘の様に大袈裟に飛び上がったり、そう、まるで―…初めての恋を知った、いじらしい、乙女みたいな反応をする。妾の、手で、声で、そして言葉で。そんな反応が、自分の中の悪戯心を刺激して、つい、必要以上につついてしまう時もあった。此方を見つめるその瞳の熱っぽさや、敬愛の眼差し。悪い気分はしなかった。寧ろ可愛いものだ。優しくしてやっても良い。悦ばせてやっても良いだろう。最初はきっと、そんな程度の気持ちだった。


「…せん、せ、っ…矢っ張り、待って、待ってください…」
「……何だい。今更」
「わ、私…まだ少し頭が付いて行ってないと云うか、心の準備、みたいなものが、できていなくて…」
「…初めてじゃないと思うンだがねェ」
「だって…その…其れとはまた、別じゃないですか…いつも先生、酔った振りをしていたから…こうやって改めて、なんて、全然違います…」
「恥ずかしい、ッて?」
「そ、そうです…だって今、私、おかしい…」
「おかしい?」
「…心臓の音が、痛いくらいうるさくって、胸がすっごく苦しくって、先生の顔を見たら、涙が止まらなくなりそうで…」
「……」
「……、…今、先生に触れられたら、いよいよどうにかなってしまいそう…です」

 だから、少しだけ待ってほしい、その“少し”がどれ位の時間かと訊かれれば、答えるのは難しいけれど。だって、どうすればこの状態が収まってくれるのかなんて判らない。治るものかどうかすら、知らない。二人分の重さを乗せた医務室のベッドが、中途半端に開いたカーテンの隙間から溢れる月明かりに照らされる。すぐそこに目をやれば先生のお顔が在る。其れが判っているから、私はわざと顔を背けて、うるさい心臓の音が小さくなるのを待った。けれど、自分の上に覆いかぶさったその人物の存在が、頭から薄れる訳が無いのだから、困った。心臓が破裂しそう、なんて大袈裟な表現が、こんなに相応しい状況は他に無い。私の言葉に暫く先生は沈黙していたので、私の望み通りに、少しだけ待ってくれているのだと思った。けれど、不意に吹き出して、くつくつ笑う声が私の頭上から聞こえた。かあっ、と唯でさえ熱かった顔が更に熱くなる。こんな時の笑い方は、子供みたいに可愛らしいから狡い。


 けれどある時気付くのだ。自分が思っているよりも、妾を見つめる瞳に宿る熱情は深く、眼差しは余りにも一途過ぎる、と。自分が抱え込める以上の無茶を当たり前の様にしでかそうとしたかと思えば、何の迷いも無い瞳で「貴女の為ならば」なんて口にする。“妾の為”に刃物で刺されるなんて大怪我をした事もあったか。あれはいけない、本当に、我慢ならなかった。心配だとか、呆れだとか、其れ以上に腹が立つ。彼女は自分のしでかした事の重大さを判ろうとしない。ひょっとしたら今だって、判っていないだろう。また同じ場面に出くわせば、同じ選択をするかもしれない。


「せ、先生…」
「へェ、そうかい。妾に触られたら、どうにかなっちまうのかい。ふゥん」
「笑わないでください…可笑しな事を云っているのは、自分でも判ります…」
「…どうにかなっちまえばいいだろ。妾にしか見せない、妾しか知らないが一番可愛いに決まってる」

 その言葉の最後にはもう、愉しそうに笑ってなんかいなかった。吐息混じりに耳元で囁く声は、扇情的な響きを持っていた。私が何か云うより早く、先生の手のひらが乱れたシャツの隙間に滑り込む。常時黒の手袋を愛用している先生が、今は其れを外して、何の隔たりも無く直接私の肌に触れている。自分の物ではない他人の体温に、胸が震えた。だって先生の指が、少し冷たく思えるくらいだ。自分の肌がどれだけ熱いのか、と考えるとまた恥ずかしくなって、余計に体温が上がった気がした。胸の膨らみを、形をなぞるように指が撫でる。手つきは優しい。それでもわざと焦らされるようなもどかしさを感じて、自分の卑しさが嫌になる。先生が、見ているのに。先生の目には、私はどう映っているのだろう。私の、醜い所も見透かされている?それが“先生にしか見せない私”なのだとしたら、それすら、可愛いと、云ってくれるのだろうか。


 きっと、憧れだとか、恋だとか、そんな淡い色をした感情なんかじゃ無い。もっと鮮明で、強烈すぎる。けれどその色がどれだけ目に痛いかっていう事に、この娘は気付かない。妾一人の為に何でもする。其れはもう、いじらしいだとか、慕われて気分が良いだとか、そんな程度を飛び越えている。何かが悲しいとすら思った。妾はそんな事を望んでなんかいないのに。こんな筈じゃあ無かったのに。無責任に、思った。この娘の為にはならないから。


「……」
「…っ、あ、あの…、せんせ、」
「……ん?」
「無言だと、なんだか、不安で…」
「…アンタが声出せば済む話じゃないか」
「な、なん、っ」
「そもそもベッドの上でおしゃべりな奴なんて碌な男じゃないだろ」
「…先生、男の人じゃないもの…」
「女も一緒さ」
「もう…」
「それに、アンタこそやけにだんまりじゃないか。妾が酔っ払った振りした夜は、もっと素直に口にしてたこと、有るだろう?今日はまだ一度も其れを聞いてないねェ」
「…それは…」

 翌朝には無かったことにされるから、だから、云っても許されるだろうって、あの夜告げた言葉。先生が何の事を指しているのかは、すぐ判った。けれど、私は唇をきつく結ぶ。視線だって矢っ張り、先生の顔は直視できない。目を合わせず、唇も開かない私に、先生が小さく溜息を吐いた。そして自身の服を脱ぎ捨てて、ぐっと深くベッドに沈み込んでくる。自分の胸に先生の胸が押し付けられて、途端になんだか、今更、酷くいけない事をしている気分になった。思わず首を動かした私の目に、先生の微かに笑った顔が映る。


 妾が彼女に向ける事が出来ない分の愛情を、いつか誰かから注がれればいい。其れが一番の幸せなんだろう。彼女の為なんだろう。そう、思ったのに。“この娘の為ならば”と考えるくらい彼女を想い始めたその時点で、妾はもう、彼女を自分の傍から手放すことが惜しくなっていた。妾を見つめるその瞳が、自分以外の誰かへ向けられるなんて。妾に向けるものと同じ笑顔を、他の誰かに向けるなんて。想像したら、自分の中でぐつぐつと煮え立ってくるどす黒い感情があった。いつかきっと、妾の其れとは違う、逞しい腕に抱かれて、妾の知らない声で啼くのだと思ったら、気が狂いそうになった。今、一番愛してやれるのは妾なのに。今、が一番愛しているのは妾なのに。“今”、今だけ。今だけなら。今だけでも許されたいという気持ちと、の“いつか”の為にも妾離れさせなくてはという気持ちは同時に在った。天秤の片方がやけに傾いてはいたけれど。


「あの時は、妾が酔っ払った振りをしていたから別だッて?“無かった事になる”のが前提だったから口に出来ただけだッて?そういう事なら、善いさ。それで素直になるンだったら、今日も同じ様に、“振り”をしてやろうか。ほら、明日になったら綺麗さっぱり忘れてやるから、云ってご覧。


 或る夜酔った振りをして唇を奪ってやった。驚いた表情はすぐに悲しそうな顔に変わったけれど、は何も云わなかった。翌朝になっても何も云って来なかった。それがお互いにとって都合の良い事だと判っているのに、何故か悔しくなって、一夜限りと決めた行為は二度、三度と回数を重ねて、其の度に行為はエスカレートしていった。それでもは何も云わない。どういうつもりだ、と訊きやしない。酔った振りの演技も徐々に雑なものになった。それでも、騙されているような振りを続けた。そのくせ、行為の最中には消え入りそうな声で何度も「好き」と口にした。「貴女が好きです」と。何気無い会話の中で零す其れとは意味が異なる事くらい判っていた。妾が酔った振りをして、“無かったことにされる夜”にしか、その言葉を口にしない。その先なんか望んじゃいないと云わんばかりだ。自分のその言葉は、無かった事にされて然るべきだと。なんとも健気だ。なんとも、聡い娘だ。も同じだったのだと気付いた。“今”だけ、“今”だけなら許されるから、と、妾に想いを告げたのだ。


「…嫌です、先生。そんなのは嫌。無かったことになんて、しないで…」

 わざと皮肉る様な笑い方をしたその人を見て、胸が切り裂かれる様な思いを味わった。じわじわと視界が滲んで、堪え切れなくって唇が震える。思わず腕を伸ばして、先生の首にしがみついた。抱き締める、なんて、ものとは少し違う。ただ、離れないように、今にこの幸せから振り落とされてしまわないように、先生にしがみついた。必死過ぎて、子供みたい。だけど、先生もそれに応えてくれた。私の頭の後ろに腕を回して、ぎゅう、ときつくその体に押し付ける。こんなに素敵な、幸せな思いをして、明日になったら夢だった、なんてこと、想像しただけでも悲しくって仕方無い。確かに夢のような話だ。夢みたい。けれど、夢じゃないはずなんだ。今私に触れているその人は、紛れも無く本物で、現実だ。判っているのに、どうしてこんなに不安なんだろう。

「…きかせておくれよ、

 お互いの肌が触れ合った零の距離で、先生が囁く。その声は少し、聞き慣れない、わざと甘えたように云う様な声だった。先生の知らない一面を、こんな形で引き出せたことに、自分が少し、どきどきと興奮しているのだって気付く。自分は何も、意地悪で、焦らしたくって、その言葉を口にしなかった訳ではなかったのに。
 ただただ、本当に、不安だった。怖かった。先生の云う通り、「今だけだから」という理由を付けないと、私はその言葉を口に出来なかったのだから。だって、その言葉が、「今だけ」じゃなくなったら、きっと先生が困るんじゃないか、って。私、自分でも困ってしまうくらい、先生の事が好きだから。きっともう私、一度云ったらとまらなくなって、溢れて、どうしようもない。だけど私は今、自分で云ったじゃないか。無かったことにしないで、と。先生にそう願うのだから、私だって、留めておくことはしちゃいけない。先生が、聴かせて、と云ったのだから。

「…私、貴女が好きです…先生。朝陽が昇っても、もう、私、無かったことには出来ません。それどころかきっと、明日の朝、目が覚めたら今よりずっと、もっと、先生の事が好きになっていると思うんです。先生のこと困らせても、迷惑だと思われても、私、気持ちが抑えられない。貴女が、好きです」

 二度目の「貴女が好きです」は、一度目よりもはっきりと、声に出せた気がする。先生が抱き締める腕を緩めて、私の顔を見た。心臓の音がうるさくって、それ以外の音が遠くに掠れてしまいそうなくらいだったのに、先生がこつんと額を触れ合わせて、「やっと聞けた」と呟いた小さな声は、そんな音に負けない程、私の中にじいんと響いた。だって、そんな、とびきり優しい声、聞き逃せない。
 目を合わせて、瞳に映っているのは自分だとお互いに確かめ合えば、やがて自然に、どちらからとも無く唇を寄せた。最初は唇と唇が触れ合うだけの行為が、徐々に深いものに変わっていく。角度を変える度、鼻にかかった息が漏れる。それが少し恥ずかしいのに、先生がちっとも離れていかないから、もっと聞かせてと云われている様な気になって、私は拙い舌の動きで相手に応えようと必死だった。
 

 に云い寄る男が現れて、自分の考えていた“いつか”がこんなにも早く遣って来たのか、と思った。碌でもない男なら、蹴り飛ばして追い払ってやっても善かったが、そんなに悪い話でもなさそうだ。“良い話じゃないか”と思った気持ちに嘘は無かった。そんなものは自分の中の感情の、端に置いてある一つでしか無かったけれど。それでも、何も妾は最初から、あの場に飛び入りしてやろうと思っていた訳じゃない。ナオミが判りやすく煽ってきたけれど、馬鹿正直に乗せられて駆けつけてやる程子供じゃない。が、あんなことを云いさえしなければ、妾はあんな茶番に首を突っ込むことは無かったんだ。


「ふ……“私の幸せは、与謝野先生なんです”、か…」
「…、…先生…?」
「アンタは本当に、欲が無いねェ。そんな程度の事を“幸せ”と呼ぶ女なんて、アンタくらいのモンだ」
「……じゃあ、どんな程度なら、幸せと呼んでも善いの、先生」

 唇を離すなり呟かれた言葉に、私は少し、子どもみたいに口を尖らせた。判らないんだもの。私のそれは幸せとは呼ばないと云われてしまったら、幸せと云う言葉の意味を、私はきっと一生、判らない。あの男の人の云った言葉を、思い返した。彼によると、女が男に当たり前に与えられる幸福、というものを、私は拒んでいるらしかった。結婚だとか、子供を授かるだとか、そういうものを本当は幸せと呼ぶらしいのに、私は、それを欲しがらない。成る程、“欲が無い”とは、そういう事を云うのだろう。先生は私の、ほんの少し拗ねたような物言いに、一瞬きょとんとしてから、薄く微笑んだ。

「さァ?どんな程度かは妾にも何とも云えないが、もっと欲張りになれって話さ」
「私、今でもこんなに贅沢者なのに?」
「へェ…どう贅沢なんだい」
「それは…今、こうして、先生に触れられる距離に居ること、だとか…先生に触れてもらえること、先生の声が聴こえること、先生の目を見られること…いいえ、もっと云えば私、先生の存在を知らないままに生きている人たちと比べてしまったら、なんて自分は贅沢で幸せ者なんだろうって思います。与謝野先生に出逢う事の無い人生を送っている人たちに申し訳ないくらいです。自分がそちら側だったとしたら、なんて考えただけでも恐ろしいですし…先生に出逢っていなかったら私、」
「あー、止め、止め。よおく判った」
「…本当に?」
「判った判った。妾に出逢わなければ、アンタがそこまで狂っちまう事は無かったんだ、ッて事が」
「……私、矢っ張り狂っているのでしょうか。おかしい?」


 妾が、妾として其処に存在してくれていれば、其れで幸せだと云う。妾が、息をして、二本足で立って、背筋を伸ばして、前を向いて、言葉を話して、笑って、怒って、生きているのなら其れで良い、と。そんな事、大真面目に口にする人間なんてくらいだ。そんなものを愛の言葉として受け取れるほど、妾は壊れてやれないから。彼女の、異常な程に真っ直ぐすぎるせいで逆に捻じ曲がった感情の名前を、教えてやることは出来ない。そんなものに名前を付けることはしない。其れは愛とは呼ばないだろうと他人に云われたところで彼女は愛だと云い張るのだろう。もしくは、愛と呼ばないなら愛じゃなくてもいい、なんて云うかもしれない。同じ様に、其れは幸せとは呼ばないと他人に云われたら、じゃあ幸せという名前でなくてもいいと、云うかもしれない。そして自分勝手に、“幸せ”に形を似せたものを作り上げていく。そんな風にさせたのは、妾だ。彼女から幸せを奪ったのも、彼女に“幸せ”を与えたのも、妾。今のという人間の在り方を、つくったのは妾。
 けれど同時に、だってそうだ。無条件に妾という人間を肯定する存在。それがだ。今の妾を、妾として成り立たせるもの。が妾を失えば、として生きられやしない。妾だって、を失えば、恐らくは――。
 なんて、可笑しな話だ。突飛で、壮大で、馬鹿馬鹿しい。人間一人に惚れ込んだだけで、哲学じみた思考をしなくてはいけないのか。…否、愛と呼ぶかは判らないのだから、惚れた腫れたの問題では無いのかもしれない。


「…アンタを全部、妾のものに出来たらよかったのに」


 私の質問に、先生はそんな言葉を返した。私の問いに対する答え、なのかもはっきりとは判らないけれど、私にそう云ったのだ。するりと先生の指が私の頬を撫でる。私を見るその目が細められて、優しいのに、あたたかいのに、どこか寂しそうな眼差しに、私はきゅう、と胸が苦しくなった。どうして、そんな表情で、そんな事を云うのだろう。その言葉の意味は、どんなものなのだろう。「出来たら善かったのに」と云うのだから、現実はそうでないという事だ。私は狂っているのか、という問いに対する先生なりの答えだとすれば、それは…、私の全てが先生のものであったなら、狂うことはなかったのに、という事?それとも、例え私が狂っていても、その狂気すらも先生のものになったのに、という事?判らない、判らないけれど、唯一つ判るのは、私は先生にそんな顔をしてほしく無いということだけ。

「先生、どうしてそんな事仰るの。私、頭の天辺から足の爪先まで、体も、心も、先生のものじゃない部分なんて一つも無いのに」

 迷い無くそう告げたら、先生が一瞬驚いた様に目を見開いて、すぐに笑った。困ったような笑い方だった。無知な子供に、大人だけが知っている残酷な“本当”を、教えるかどうか迷うみたいな、笑顔だった。どうしてそんな顔をするのか判らないのに、判ってしまったらきっと悲しいのに、先生のその感情の色を、私はうっすらと知っている。
 本当は、知っている。全部あげたいのに、あげられないものが多すぎるのだと。


 全部奪ってやりたいのに、女の自分には奪ってやれないものが多すぎる。
 そんな、ずっとどこか欠けたような愛情を、妾は抱いて、注いで、の傍にいると決めたから。



「…はい」
「妾だけがアンタを独占しても意味が無いだろ?」
「え…っと、それは…」
「妾を、アンタのものにしなくていいのかい?」

 悪戯っぽく囁かれた言葉に、ぎょっと目を見開いて耳を疑う。そんな私の反応に、先生がくすくす笑った。意地悪だわ、先生のその笑顔。先生を私のものに、なんて、恐れ多くて口にできる訳ないのに。真っ赤になった私をもっと追い詰める様に、先生が私の頬に軽く口づける。もう、からかって、と苦し紛れに文句を云おうとしたら、今度は鎖骨の辺りに先生の唇が触れた。徐々に口付ける場所が降下していき、落ち着かなくって小さく身を捩る。衣擦れの音がやけに生々しいものを感じさせた。意識してしまうと、この後に待っている行為への淡い期待が募っていく。せんせい、と小さく呼んで、吐いた息の熱っぽさにくらくらする。顔を上げた先生が、私の蕩けた表情を見て微かに笑った。綺麗な唇が弧を描くのを見ると、その唇が自分の体に触れているという事実が、たまらなく贅沢だなと感じてしまう。――そう、とても、贅沢だ。世界にはこんな素敵なひとに出逢うこと無く生涯を終える人が沢山居るというのに、私はこの人に出逢って、傍に置いてもらえているのだから。それ以上を望むのは贅沢。独占しようなんて、自分のものにしようなんて、そんなの、罰が当たりそう。だというのに、先生の口づけが降ってくるたびに、思う。罰が当たっても構わない、って。辛い事が待っていても構わない、って。だって誰に嫌われても、何に裏切られても、この温もりさえあればいい。もっと触れてほしい。もっと、口づけてほしい。もっと、貴女のものにして欲しい。もっと、貴女が、欲しい。

「…ほら、…妾しか聞いてないンだ。とびきりの我が侭、云ってご覧」


 妾しか知らないが、一番可愛い。当たり前だ。他の誰にも見せてやるもんか。


「…わ、…私のものになって、ください……っ」


 意を決して口にした筈が、声は情けないくらい震えていて、それが余計に恥ずかしい。今に笑われてしまうだろうって思ったのに、私を見る先生の顔は、からかっているのではなく、とびきり優しいものだった。自惚れなんかじゃない。私の事を、想っていてくれているのが痛いくらいに判る表情。きゅ、と固く握った私の手に先生の手のひらが重ねられ、そっと包みこまれる。促されるまま指を絡めて、先生の目を見つめた。綺麗。矢っ張り、綺麗だな、先生。全部、素敵。全部、好きだな。、と呼ぶ声が甘く、まるで其れすら愛の言葉みたいに、私の中にじんわりと響いた。思わず、繋いだ手に力がこもる。


「妾が以外の奴のものになるわけないだろ」


 お前も同じ気持ちだろう、なんて、訊かなくても知っていた。全部を自分のものに出来ないのなら、他の誰のものにもならないという誓いが、今の自分達が、一番、縋っていられる唯一で確かな“幸せ”なのだと思った。
 夜は長い。闇は深い。それでも、二人きりの世界で温もりを確かめ合うには、ずっと足りない。





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