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「おはようございます。さん」 「あっ!おはよう、ナオミちゃん」 「…今日はいつもと髪型が違いますのね」 「えっ、あっ、ええ、その…今朝は…先生が、結ってくださって…」 「明日になってもさんに元気が無かったら、沢山優しい言葉をかけてあげようね」…昨日の帰りのナオミとの会話を思い出して、余計な心配だったなあ、と出勤するなりボクは苦笑した。ナオミも同じ気持ちだった様で、恥ずかしそうに俯きながら落ち着かなく耳を触るさんを見て、くすくす笑う。ボクの視線に気付いたさんが、慌てて「谷崎さんも、おはようございます」と挨拶してくれたので、ボクも笑って挨拶を返した。いつもと違う髪型も、彼女に善く似合っている。二人の横を通りすぎて、既に自分の机に座って何やら数枚のカルテを眺めてお茶を飲んでいた与謝野先生の元へ向かった。「おはようございます」と挨拶すると、顔も向けずに「ああ、おはよう」とだけ返ってきた。 「えーと…昨日はあの後、大丈夫でしたか?此方は無事にあの人送り届けましたンで、一応報告を、と思って」 「昨日?…ああ!あの男か!」 「え、忘れないでくださいよ…」 書類から顔を上げた与謝野先生が、本当にたった今まで忘れてた様に「そうだったそうだった」と手を叩くので、脱力する。結構、あの男の言葉に腹を立てていたと思ったんだけど。けろっと忘れられる程度の暴言では無いだろうと勝手に思っていたんだけど。いや、まあ、引き摺っていないのなら、其れが一番だ。ほっとして息を吐いたボクに、与謝野先生が予想外の言葉を掛けてきた。 「アンタ達には迷惑掛けちまったねェ。此の礼は今度きちんとしてやるから、ナオミにも後で話しといてくれ」 「え…え、ああ、いやいや、そんな!ボクらが勝手に首を突っ込んだだけなンで!いいンですよ、そんな」 「遠慮するこたァ無いよ。例えば…今後怪我をしたら普段の三割増しサービスして治療してやるだとか」 「本当に結構です!」 なんだ、つまんないねェ、とにやにや笑う与謝野先生。思った以上に御機嫌だ。からかっては来るけれど、アンタ達のお陰で助かった、という旨の感謝は、なんとなく伝わってくる。其れがちょっとむず痒いような、照れ臭いような、そんな気持ちにさせた。視線を移せば、ちょうどさんもぺこぺことナオミに頭を下げていた。そしてナオミも、「いやいや、そんな、気にしないで」と手をぱたぱた振っている。もう一度、ほっと息を吐く。昨日からずっと心配していたから、ナオミも一安心だろう。其れにしても、本当、何事もなかった様に、二人の様子はいつも通りだ。昨日、あんな事があったなんて、すっかり忘れてしまったみたいに。一体、ボクらが帰った後にどんなやり取りがあったと云うんだろう。 「与謝野先生、結局昨日は何時に帰られたンですか?」 「ん?…ああ…何、ちょっと仕事が長引いてねェ。泊まり掛けになったわけさ」 「…はあ」 「あんまり自分が寝る側にはならないから医務室のベッドの寝心地も新鮮だった。まァ、二人で寝られない事もないがねェ。しっかしシャワー室が二人で入るにはちと狭いのが―…」 ばさばさばさっ、と音がしてそちらを見ると、さんが手に持っていた書類の束を落とした様だった。今にも泣きそうなくらいに目を潤ませて、顔が真っ赤だ。 「ち、ちが、違います!一人ずつ入ればいいのを、与謝野先生が、」 「……」 「…」 「さん、落としましたわ」 「あ、ありがとう!ナオミちゃん!御免なさい私ったら…」 自分で墓穴を掘って自爆したさんがその事に気付いて固まった直後、ナオミがしゃがんで、さんの落とした紙束を拾い集める。其れで何事もなかった様に止まっていた時間が動き出し、数秒前のさんの発言も無かった事になった。多分、なったと思う。勿論ボクら以外の人間も事務所には既に出勤していたんだけど、示し合わせたかのようにその場の空気に順応している。探偵社内では、触れてはいけないその手の問題には絶対に深く追求するな、という暗黙のルールがあるらしい。果たしてその「探偵社内で深く追求してはいけないもの」というのが何を対象にしているのかは判らないが、多分、今の不穏な会話も其れに該当するのだろう。ちらりと窺い見れば、慌ただしく書類を拾い上げているさんの事を、与謝野先生が目を細めて眺めていた。口許にうっすらと浮かべた笑みは優しげで、二人の間に在る繋がりの深さを垣間見てしまった気がして、なんだか妙に、どきりとした。 「なんか、杞憂だったね。ナオミ」 暫くして、与謝野先生に真っ赤な顔で何やら抗議しているさんと、その耳打ちににやにや笑っている与謝野先生を見ながら、ボクはナオミにそっと呟いた。ボクの隣で、同じ様にその二人を見守っていたナオミが、ふふ、と肩を揺らす。 「あの二人、拍子抜けするくらい、すっかりいつも通りだ」 「ええ、そうね。何も変わりませんわ」 「うんうん。何も…、…うーん…? 何か変わった様な気もするけど…」 「何か変わったかもしれないけど、本当は何も変わってない。これまで通り、さんはあの人の事が大好きで、あの人もさんの事が、きっと…」 ナオミはボクの顔を見上げて、そっと人差し指を唇に当てて微笑んだ。「ね?あの二人、何も変わってないでしょう?」そうだね、ナオミ。きっとこれからも変わらないだろうね。だってきっと、この世の誰も、何も、愛し合う二人を引き離す事は出来ないンだから。真似るように人差し指を唇に当てて、ナオミと二人で笑い合った。 |