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ネバイナフ
「これこっちの段ボールでいいのか?」 「んー?あー、それはこっち!要らないやつ」 パンパンに膨れ上がったゴミ袋をずるずると引きずってこちらに寄越したの顔色は、いつもと変わらないように見えた。俺は手を止めて、ふと、部屋を見渡す。小さい頃から何度も訪れていた場所が、空っぽになっていく。その手伝いを今自分がしているということに、なんだかまだ少し、実感が無い。年々、部屋のレイアウトや壁に貼られたポスターなどは、飽きっぽいの手によって定期的に変更されてはいたけれど。それでも、居心地はいつでも変わらなかった、馴染みのある部屋だった。しかし今、壁のポスターは剥がされ、テーブルの上にあった小物なんかも全部段ボールに詰められ、カーペットも無くなって、フローリングの床が一面に広がっている。いつもきったなくて床なんて見えなかったのに。UFOキャッチャーで集めた無駄にデカイぬいぐるみ達も、袋にぎゅうぎゅうに詰められていた。勉強道具もまとめられて。クローゼットの中の物も全部段ボールに詰めたので何も入ってない。カーテンも外さなくちゃいけないらしい。――からっぽになっていく。部屋の主であるの手で。その手伝いをする俺の手で。 「幸男が手伝ってくれて良かったー。案外すぐ片付きそう」 「…まあ、おばさんに頼まれちゃな。親にも行ってこいって言われてたし」 「あはは!最後まで優しいなー、笠松家は。いいお隣さんだわ」 「あー、もう引っ越しちゃうから『お隣さん』じゃなくなるけどね」笑ったままにそう付け加えるから、俺は一瞬顔を顰めるのが遅れた。やっぱりまだ、実感が無い。もうずっと前からの付き合いの、隣に住む家が、無くなるという現実が、俺の頭の中でちっとも現実になってくれない。正確には、家自体が無くなるというわけではなく、とその母親が出て行くというだけだが。それでも、家が崩壊したという表現で多分、大体が説明ついてしまうのだ。残されるの父親が、その後どうするのかは知らない。そのままこの家…俺んちの隣に住み続けるのかもしれないし、ご近所からの目を懸念して違う場所に引っ越すのかもしれない。けれどとりあえずは、家族三人が一緒に住むという選択は存在しない。 「離婚したら苗字変わんのかなー」 「そりゃ、そうじゃねえの」 「お母さんの方の旧姓、あんまかっこいい苗字じゃないんだよなあ」 「んな問題かよ」 「問題だよー!苗字って大事じゃん?姓名判断とか変わる?じゃん?人生変わるかもじゃん?」 「大袈裟。」 すっかりお互い手を止めて休憩モードになっている。が床に座り込むので、俺も気づけば真似して腰を下ろしていた。思いのほかひんやりとした床によくわからない喪失感を抱いた。知らない場所になっていく。何度も訪れたこの場所が。口に出したくはないけれど、確実にこれが「寂しさ」というやつだろう。昔からお隣同士仲が良かった笠松家と家。一緒にバーベキューに行ったり、ボウリングに行ったり。授業参観や運動会は、必ず一緒に過ごしていたし。俺の母親との母親はかなり仲がいい。だから所謂、幼馴染という存在にあたるのだろう、自分とは。一番、仲の良い女友達。というか、こいつ以外に女友達なんてものを作ったことがない。…しかし、友だちと呼ぶのも少しむず痒い。は、という存在。ずっと昔から、俺の隣にいた存在。(だけど、これからは、違うのかもしれない) 「……」 「…」 「……」 「幸男はさあ」 「ああ」 「訊かないの?何があったーとか。詳しく。私の口から聞こうとは思わないの?」 「…べつに。わざわざ訊かなくても、いいだろ」 「ハクジョーだね。付き合い長いお隣さんが引っ越しちゃうんだよ?」 「いい。大体は聞いてる。うちの母親が。お前の母親から聞いたこと、俺に流してくるからな」 俺の言葉を聞くと、心底つまらなそうに「ふうん」とは鼻を鳴らした。それきりしばらくお互い黙り込んでいたけれど、がふいに近くの段ボールに手を伸ばして、そこに入っていたアルバムを拾い上げた。ぎく、と俺の体が強張る。それに気づいてか、が少し、困ったように笑った。「これ、ゴミでいいって言ったのに」そのアルバムの中にどんな写真が詰まっているかは知っていた。家族の写真だ。の小さい頃からの写真。時々、笠松家の住人も映っている。けれど、何より、笑っている家の写真が多い。 「浮気が原因で離婚…か。今時珍しくも面白くもないね」 「…そーかよ」 「私とお母さんが出て行ったら、その浮気相手、この家に呼んで一緒に住んだりするのかなー」 「さあな」 「それで、子どもが出来たりしたら、この部屋を子供部屋にあてたりするのかな」 「…」 「なぁんか嫌だなあ。自分の部屋だった所に、違う人間が住むのって」 「…そんなこと、」 俺が、させない。お前らが出て行ったのをいいことにあのおじさんが得体のしれない女をこの家に連れ込むの見たら、俺が、乗り込んでいって、出て行けって言ってやる。この部屋の電気がついているの、隣の家から見つけたら、怒鳴ってやる。そこはの部屋だ、入るな、って。だから。だから。――なんて言葉を、ぐっと飲み込んだら、飲んだつもりなのに余計に吐きだしたくなった。それでも声にならなかったのは、何故だろう。は俺の言葉の続きを促したりはしなかった。ただ、ぱらぱらとアルバムを捲って、時折写真を抜き取って、ぽいぽいと流れ作業のようにゴミ袋へ投げた。多分、父親が映っているものは全部。 「捨てんのか」 「うん。お母さんがそうしてたから、私もそうしなきゃと思って」 「…べつに、そうしなきゃいけないってわけじゃないだろ」 「どうして?私が父親の写真大事に取っているのなんか見つかったら、きっとお母さん悲しむよ?」 今朝、「引越し手伝いに来ました」と俺がこの家に上がったとき、笑顔で迎えてくれたの母親。悪いねぇ幸男くん、と、見慣れた笑顔で。あんまりにも見慣れた笑顔すぎて、逆に寒気がしたくらいだ。思い返して無言になる俺に構いもせず、は写真をゴミ箱に投げる。袋に上手く入らなかった分の写真を見て、ぐっと眉を寄せた。その横顔に、胸のどっかがじりじりと焼け爛れていく。なんだろう、この痛みは。が写真を手に取り、本を纏めるビニール紐を切るために使っていた鋏でじょきじょきと切っていく。真っ二つになった紙に追い打ちをかけるように、片手でぐしゃりと握りしめた。そこに映っていた人物が、見えなくなるように、ぐしゃぐしゃと。 「」 「なに」 「やめろよ、それ」 「どうして」 「気分悪い」 俺にはどうしても、まだ、現実になっていなかった。あんなに仲の良かった家族が、もう無いってこと。人の良さそうなの父親が、家族を裏切ったこと。少なくとも俺の中では、まだあの男はの父親で。優しい父親で。俺と顔を合わせると挨拶してくれるようないいおじさんで。だから、その「俺にとっての現実」を、が鋏で踏みにじるのが我慢ならなかった。例え、本当の現実が違っても、にとっての現実が違っても、俺にとっては、まだ。勝手な願望を、縋り付きたくなるような虚構を、繋ぎ止めたかっただけなのかもしれないけれど。俺の言葉を聞いたはぴたりと手を止めて、顔を上げて、こちらを呆然と見つめた。そこで初めて、しまった、と後悔する。遅い。 「幸男」 「なんだよ」 「今、どんな気持ち?」 「どうって」 「仲の良いお隣さんが家庭崩壊したって聞いて、どんな気持ち?隣の家から聞こえてくる笑い声が、いつの間にか怒鳴り声に変わったことに気づいたときはどんな気持ちだった?叫び声に変わった時は?泣き声に変わった時は?ねえ、どんな気持ちだった?」 鋏を床に置いて、俺の顔を見つめる。息をするタイミングが、わからなくなる。なんにも言わない俺を見て、の口元が少しだけ緩む。だけどちっとも愉快そうには見えなかったから、多分、笑ってはいないのだろう。俺の言葉を待つつもりはないらしく、はふいと顔を逸らすと、手持ち無沙汰になったのか、床の鋏をもう一度手にとった。その鋏の先を、左の人差し指の腹に軽く押し当てる。突付くような、軽い、軽い力。それでも、刃先がの人差し指に僅かに沈んでいく様子が、胸のどこかをまたキリキリと締め付ける。「それ、やめろ」二度目の制止は、先程よりも低い声が出た。が顔を上げる。 「なんか、分かんなくなっちゃったな」 「…何が」 「よく分からないんだよ」 「だから、何が」 「私、今どんな気持ちなのか分からない」 「…」 「だってたぶん、実感が無い。当たり前だったものが、全部無くなる。引っ越したら、幸男のお隣さんでもなくなるんだって。しんじられる?」 「…それは、俺も実感ねぇけど」 「なんか、漫画とかドラマみたい。離婚って、関係ないものだと思っていたし。小さい頃、親がふざけて『ママとパパが離婚したらどっちについてく?どっちの方が好き?』なんて聞いてきたことあったけど。あれは、冗談だった。あの時は、冗談だった。あるはずない未来だった。どうして現実になったんだろう。私、何かやらかしちゃったかな。どこか間違えちゃったかな。ねえ、幸男は、」 私のどこがいけなかったとおもう?ずっと隣にいたんだから、何か無い?気づいたこと。 ぼんやりとした表情で、ぼんやりとした声で、は俺に尋ねる。答えを期待しているのか、期待していないのかいまいち分からないようなその様子。なんて答えれば正解なのか分からなかった。ただ俺はさりげなく、の傍から鋏を取り上げた。それだけで少しほっとした自分はずるいと思った。 「なんか、今までが嘘みたい。今のこの状態が正解で、これまでの十何年間は多分、幻でも見ていたんじゃないかな。魔法にでもかかっていたんじゃないのかな。だってこんなに簡単に、さめてしまうんだもん」 「…、」 「今までの人生、きっとすごく幸せだったんだね。気づかなかっただけで。平和だったんだ。隣には幸男もいたし」 「、お前は」 「わたしゆきおのことすき」 「…、……なんっ、で今言うんだよお前。ちっとは考えろよ」 「遅い?」 「そうじゃねえよ」 そうじゃない。遅くなんかない。なんにも、手遅れなんかじゃない。が引っ越そうが、べつに、距離なんかどうでもいいし。そもそも、いつかは離れるものなんだし。高校大学就職、ずっとずっと隣にお前がいるわけじゃないんだし。家と笠松家が一緒になって張り切って行事に臨むのも、必ず終わりは、あったし。の母親の実家がすっごく遠かろうが、年に数回しか会えなくなったとしたって、なんにも、問題なんか、ない。それは置いといてただ、すこし、驚いただけだ。このタイミングで好きとか言われることに。たぶん、幼馴染としてじゃなくて、「そういう意味で」の好き、だろうから。もっと違う場面で聞いていたら、俺はもっと、赤面して、盛大に驚いて、だけどそれでも、ちゃんとした返答が出来たと思うのに。今の俺は、目の前で死にそうな顔しながら俺に好きと言ったをどうやって生き続けさせるかばかりを考えていて、返事なんてまともにできそうにない。、お前は悪くないよ、と。その一言をいってやりたかったのに、すっかりタイミングを失った。いや、今からだって言えるだろうか。言おう、そうしよう。俺が口を開きかけると、がゴロンと床に寝転がった。カーペットも何も無しに、硬いフローリングの床に。 「幸男のこと好き」 「…それは今聞いた」 「でも」 「なんだよ」 「幸男は私のこと、好きにならなくていい」 伝えたかった言葉は、一瞬で頭から抜け落ちた。が何もない部屋で何もない床に寝転がり何もない天井を見上げて、言う。 「きっと、愛には賞味期限があるのだと思うよ。人によって違うのかもしれないけど、きっとあるんだよ。腐ったらもう食べられない。捨てるしかない。私は、たぶんずっと前から幸男が好きだったけれど、いつかはその気持ちも冷めるんだとおもう。これは、片思いだろうが、付きあおうが、結婚しようが、たぶん変わらないの。だって、一番身近な夫婦の愛が冷めるところを見てしまったら、どうやったってそうとしか思えない。だからさ、幸男は、私を好きにならなくていいよ。私、幸男に捨てられたくない も、ん…」 気づくと、床に手をついて、の唇を自分のそれで塞いでいた。自分でも、信じられない行動だった。それでも、そうしなくちゃいけないもんだと心のどっかで思ったから。…なんて、こんな行為でこいつを慰められるだとか、そんな思い込みはしたくないけど。救えるだなんて、思えないけど。唇を離したら、至近距離でと目が合った。ひどく驚いたような顔をして、その表情もすぐ、悲しそうな顔にする。それがやけに悔しく思えて、俺はもう一度唇を寄せる。が軽く首を振って逃げようとするから、余計に少しむっとしたけど。二回目のキスは、切羽詰まったものにはならなかった。ただ、宥めるような、確かめ合うような、そんな行為に思えた。小さく俺の名前を呼ぼうとしたの声を、今度は上手く遮れた。さっきからお前は、俺の言葉なんかちっとも聞かずに、べらべら喋ってばかりだ。そういえば、昔からだったけどな、そんなの。変わってなんか、いない。俺も、も。ずっとまえから。 「好きにならなくていいとか、好きになるなとか、遅ぇんだよ。バカ」 「…だって、もう、いられないし」 「隣に住んでねぇとお前は俺を好きじゃなくなんのか」 「うん」 「少しは否定しろアホ」 「だって、離れても大丈夫とか、運命だとか、ずっと好きとか、ありえない」 「ありえなくねえよ」 「隣にいるわけでもないのに、私のこと好きでい続けるとか、もったいない」 「もったいなくねえよ」 「そんなの、嘘だし、勘違い。他の誰かに恋すれば、私のこと好きだった気持ちとか、なくなるし」 「…あーーーもう!俺はっ!!」 離れたくなんかねえよ俺の目の届かない場所にお前が行くのなんか悔しいに決まってんだろ納得できないに決まってんだろだいたいお前の両親が離婚することだって納得してないんだよ嫌なんだよずっと昔から知ってた人たちがばらばらになるのなんてそう簡単に受け入れられるわけねえだろ、なんでお前はそんな死にそうな顔すんだよなんでもう全部諦めたようなこと言うんだよふざけんじゃねえ諦めさせてなんかやんねえよなんで両親離婚したらそうやって人を好きになんの全部無駄だみたいな結論に辿り着くんだよお前はいつも単純すぎるんだよだからいっつもばかみてえに無駄に心配して無駄に傷ついて、俺が見つけられないようなところで泣くんだろう。本当は、行くなって言いたいんだ俺は。けどその一言は、どれだけ残酷な響きを持っているんだろう。父親の方に残れとか、多分、こいつにとっては拷問なのに。俺の近くにいて欲しいとか、願う俺は、子どもだ。馬鹿みたいに、わがままで自分勝手なガキだ。他人の家庭の事情に不満を唱える空気読めない平和な子どもだ。無力だ。何もしてやれることがない。 「俺は…っ、子どもだ、なんにもできないガキだ!お前の家のことに首突っ込む勇気もねぇし力もねぇよ!お前を連れて逃げて、逃げた先で二人で暮らそうとか言えるほどの、金も力も車だってねぇよ!何にも出来ずに、なんにも力になれずに、『好きだ』って無責任に言うことしか、今は、できねえよ!!…だから…っ」 ぐっと細い肩を掴む腕に力が入る。俺の言葉に耳を澄ませて、一言も聞き逃すまいと俺を真っ直ぐに見ていたの瞳が少しだけ揺れた。噛み締めるようにきゅっとまぶたを閉じたら、の瞳からぽたりと涙が零れる。その涙の意味が、悲しみではないことを祈った。自分の言葉は、もしかしたらとても残酷なものなんじゃないか。救ってやれないんだと正面から突き放しているんじゃないか。もっと頭使って考えれば、何か、を救える案が思いつくんじゃないか。そう思うのに、言わずには居られなかった。やっぱり、どう転んでも子どもなのかもしれない。俺は。 「約束、させてほしい。そう簡単に信じられないのは分かってる。それでも、俺は、お前に誓いたい」 そう告げればが縋るように腕を伸ばすから、引き寄せて強く強く抱きしめた。腕の中で小さく震えて、涙を流すが、今の俺にはとても大切な存在だった。自分の持ってるもの全部懸けて、まもりたいと思えた。今の自分には懸けられるものが少なすぎて、ちっとも守ってやれないくせに、これから先の人生で得るものを全部を幸せにするために使えたらいいのにとすら思った。失いたくなかった。消えてほしくなかった。諦めてほしくなかった。諦めさせたくなかった。人を信じること、人を好きになること、人と幸せになること、ぜんぶ、全部。 「俺はお前が好きだよ」 「うん」 「ずっと、一生、絶対好きだ」 「うん」 「10年経っても100年経っても嘘になんかしない。だから、」 「…うん」 「待っててくれ」 いつか、お前を連れてゆくだけの力も金も車も勇気も全部そろえたら、そのとき、今の俺が言いたかった言えなかった一言を、伝えに来る。約束、だ。絶対の、約束。 |