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そのひとは、よく笑う人でした。 にこにこ、というのとは少し違う。へらへら、けらけら、にやにや。音にするならきっとそんな感じが正解の、よく笑う人。おんなじクラスにいるけれど、私はあんまり喋ったことがない。教室で目が合うことはほとんどないし、席が近いわけではないし、クラスメイトであること以外では全然接点のない人だ。 一度だけ、一度だけ名前を呼ばれたことがある。委員会で遅くなった日、おんなじくらいの時間まで部活をしていたらしい彼に偶然校門のところで顔を合わせた。たまたま視界に入っただけで、とくに喋ることなんかなくって、もともと私は男の子と仲良くおしゃべりできるような性格ではなくって、挨拶もせずに立ち去ろうとしたとき、後ろから声をかけられた。「さぁん、今帰りー?時間遅いし送ってこーかー?」足早に門を去ろうとした私の背中に、その人は言った。ふわふわ飛んでいきそうなくらい軽い軽い声で、ノリで。振り返らなくても彼がへらへら笑っていることは声から判断できたけれど、私はびっくりして思わず振り返った。なんてことない、当たり前みたいにそこに立って私を見てる彼。私は話しかけられたという事実が未だ理解できずに、パニックになる。どうして、なんで、まともに話したこともない男の子にそんな言葉をかけられたのか。高校生の男の子って未知だ!中学生とは違う!警戒とはまた異なる焦りで、私はどんどん顔が熱くなって、なんて返していいのか分からなくて、きつく口を結んだままぶんぶんぶんぶん小刻みに何度も首を横に振った。断られるのが元から分かっていたように彼はけらけら笑って「そー?んじゃー気をつけてねー」と手でメガホンをつくりながら離れたところにいる私に言った。私はどっくんどっくんうるさい心臓を押さえたまま、ぺこぺこと何度も頭を下げて逃げるように走って帰った。怖いんだか嬉しいんだか、それよりも何よりもビックリが勝って、私はその日なかなか寝付けなかったのだ。 教室のすみっこで、仲のいい友だち数人と目立たなくおしゃべりしていれば平和な私の世界。その他の人が入ってくることも、私が他の人のところへ入ることもしない。教室の中で大きな声でおしゃべりしてじゃれ合ってる男の子も、テレビや音楽の話を集まって騒がしく話す女の子も、私には遠い存在だった。 彼、高尾くんも、私とは違う種類の人間だった。 その人が、何故か、私のすぐ目の前に立っている。いつもの教室に高尾くんがいる。おかしいことではない、おかしくはない。おかしいといえば、他のクラスメートの姿がひとっつも見当たらない点ぐらい。隣のクラスにも人はいないみたいだ。話し声がひとつも聞こえてこない。まだ昼間なはずだ、どうして教室に私たち以外の人がいないんだろう。疑問に思うけれど、その疑問は気をぬくとすぐにどこかへ飛んでいってしまった。あと、高尾くんという私にとっては異世界人である男の子が目の前にいるというのに、私は珍しく、慌てたり心臓がうるさくなったりしない。何故彼が目の前にいるかは分からないけれど、なぜか「そういうものなんだ」と思ってしまう。ふしぎだ、なんだろう、この感覚。なんだっけな。考えているうちに、高尾くんが手を伸ばしてきた。なんだろう?頬に手が添えられる。男の子に触られたのなんてはじめてだ、でもびっくりはしなくて。 「さん」 高尾くんが私のことを呼んだ。私はまばたきをくりかえす。だけど目の前の映像は変わらない。目の前から彼はいなくならない。ゆっくりと高尾くんの顔が近づいてくる。口元には、薄く笑みが浮かんでいる。ああ、綺麗な、笑みだなあ。いつもわらっているけれど、このひとは。その表情のまま、高尾くんがちかづいて、ちかづいて、ちかくて、唇に、やわらかいものが触れて え?あ、これ夢だ。 |