教室のすみの席から立ち上がって俺の方へ一歩近づいてきたサンは確かに俺に用がある様子だったのに、なんか用なのかと聞いたら一目散に逃げていってしまった。追いかけるわけでもなく、その場に残された俺はわけがわからず「え?」という顔のまましばらく固まった。そんな俺とサンのやり取りとも言えないやり取りの一部始終を見ていた周囲の真ちゃんや向井も同じ様に「え」というリアクションのまま固まる。ほんと、え?って。やがて石化が解けた俺たちは躊躇いがちに、ぽつりぽつりと口を開く。

「えーとォ?…なんだったんだ?あの子」
サン?だっけ?あたし喋ったことあんま無いな〜。高尾仲イイの?」
「いや?べつに全然。俺もあんま喋ったことないわ」

喋ったことは、あんまりない。その場にいた全員の意見が一致した。いや真ちゃんは意見してねーけどリアクション的に分かる。…サンねぇ、サン。なんつーか、目立たない?感じ?影が薄いっていうより、「目立つタイプじゃない」っていう立ち位置の子。男子とふざけあってぎゃあぎゃあ騒ぐタイプの女子じゃなくて、むしろ必要最低限しか男とは喋らないんじゃないかっていう感じの。女子の中でもいろいろグループ分けはあるだろう。んでそのグループからしても、俺の仲いいトコじゃない、っていう。教室のすみっこで、おとなしそーな女子だけで集まってるグループがあって、サンはそんなかの一人。向井とかとは全く違うタイプの女子。まず呼び方からして違う。なんか呼び捨てに出来ない感じ?どうも距離のある存在なわけで。

「あ〜!でも一回俺から話しかけたわ。一緒に帰らね?みたいなノリで話しかけたら無言で超首振られた」
「なにそれ超ウケる!拒否られてやんの〜!つか駄目っしょ、ああいう真面目そーな感じの子にいきなり一緒に帰ろうとかー」
「高尾が極端に嫌われているだけじゃないのか」
「うおっ!なんだよその傷つく発言!絶対お前が同じ事してもサン首振るかんな!」
「そもそも俺はそんな事をしないのだよ」
「しなそ〜」
「や、つーか俺べつに変な意味で言ったんじゃねーし。一人で帰るのは危ないですよお嬢さん、っつう紳士的誘いだったし」
「高尾が言うと下心ありそーで怪しいんじゃなーい?こわぁい」


からかうようにキャッキャきゃっきゃ高い声で笑う向井にばーかと一言いってやってから、「相手サンだぜ?下心も何もあるかっつーの」と付け加える。はは、と笑いながら、さっきのサンの反応を思い出した。人の顔なかなか見ないし、会話一往復もしてねえのに耳まで真っ赤にして、話す能力をどっかに忘れてきちゃったんじゃないかってくらいの大袈裟に緊張したあの様子。そういや前に放課後話しかけたときもあんな感じだった。俺的にはべつに深い意味はなくて、なんとなくクラスメートが目に留まったから話しかけた程度の気持ちで。だけど相手は話しかけられた意味が分からない、なんで私に話しかけるの、ってくらい驚いた顔。そんで、返事に困っておろおろしてる様子。まるで会話に時間制限があるみたいに、時限爆弾でも押し付けられたみたいに、どんどんどんどん切羽詰まった顔になって、結局なんも言わずに首だけ振った。思い出して、プッと噴き出す。真ちゃんが胡散臭いものを見るように眉を寄せ目を細めた。

「てゆーか高尾のその言い方失礼じゃない?サンは女として見れません的な」
「そういう意味じゃねーけど、なんか違うじゃん?汚しちゃいけませんポジションじゃん。〜とか気軽に呼べねー」
「なんじゃそりゃ。質問でーす、あたしは汚れてもいいんですかぁ?」
「向井のことは別の意味で女として見てません〜」
「うっざー高尾バンソーコ返せし」

「返さねーし」

げらげら笑う俺と向井の会話を鬱陶しそうに真ちゃんは顔をしかめて、他人のふりするように黙って机の上に英語の単語カードを出した。真ちゃんもべつに女子と騒ぐタイプじゃねえよなー。とか言ったら俺が女好きだの軽い男だの思われそうで嫌だけど。(誰に対してもフレンドリーな親しみやすい人物、といってほしい)椅子を後ろ向きに座りながら、真ちゃんの単語カードを一緒に覗きこむ。「そっか今日単語テストあんだっけ」俺の呟きを聞いて、向井があからさまに「やば!」という反応をして自分の席に戻っていった。そうそう今のうちに復習しといたほうがいいぞー。俺は向井に貰ったありがたーい絆創膏を自分の手にぺたりと貼って、ぐーぱーぐーぱー握って開いてを繰り返す。まあ、血は出たけどあんま痛くねーな。

「けどホント、サンなんだったんだろーな」
「知らん。というか単語帳ぐらい自分のを使え。俺のを勝手に見るな」
「えー、出すのめんどくせえ。やばそうだったらテスト中もカンニング協力よろしく」
「断る」

「冗談だって、ジョーダン」

結局その「サン」は休み時間が終わるギリギリまで教室に帰ってこなかった。いつ戻ってきたのか気にしてなかったけど、号令のときふと見れば席についていた。俺に何か用事があったわけじゃないのか。まあ大した用じゃなかったんだろうな、と思う反面、大したことでもないのに話しかけてくるような仲でもないよなぁ、とも思う。けれどそんなことを気に掛けたのもほんの数分で、「まあいっか」の一言で俺の頭の中からストンと抜け落ちてしまった。それくらい、「なんかよく分かんないけどまあどうでもいいか」な出来事だった。