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「お、ちょうどいいところに。。数学ワーク、お前のクラスの分放課後集めといてくれるか?」 「え?あ、えっと…はい」 「『小林先生が今日の放課後までに出せって言ってたので教卓の上に出してくださーい』とだけ言ってくれれば集まるだろうから」 廊下でたまたま数学の先生と顔を合わせたとき、そう頼まれた。なんてことはない、かる〜く頼まれた用事。私も私で、なんだそんなことかーと二つ返事で了承し自分の教室に帰る。帰りのホームルームが始まる前の少しざわざわした教室。帰り支度をしたり、部活に備えている人がいたり、みんなの話し声が、ざわざわ、ざわざわ。…あれ?これって、ワークのことって、今言ったほうがいいんだろうか。それとも、ホームルームのあと?ううん、終わるなりすぐ帰っちゃう人もいるし、今のほうがいいのかな。「そんな連絡聞いてなかったから出せなかった」だと、私のせいで、みんなに迷惑かけちゃうし。よし、じゃあ、今。今みんなに 「……、……」 みんなにいおう、教卓の前に立って、このがやがやした声の中でも響くくらいの声で、「数学のワーク今日提出なので教卓の上に出してください」って。そう改めて思った瞬間、ぎくりと足が勝手に後ずさった。べつに、間違ったことをするわけでもなんでもないし、むしろ言わないとみんなに悪いことなのに、どうしようもなく、「嫌だなあ…」と思ってしまう。きっと教卓に私が立って話し始めたら、みんながこっちに耳を傾けるんだ、こっちを見るんだ、と思うと、とてつもなく、緊張する。緊張するほどのことじゃないって、頭ではわかってるつもりなのに。それでも、気が重くなって、どくんどくんと心臓が音を立てる。一歩教卓へ足を踏み出して、やっぱり引っ込めて、一歩踏み出して、引っ込めて、後ずさって、「おっと」後ろにいた誰かにぶつかった。 「ごめ」 「何してんのーサン」 「ごめんなさいごめんなさいほんとすみませんでした」 「アハハやっぱりサンだわ〜さすがだわ〜」 「で、何してんの?踏み台昇降?」と高尾くんが興味あるのかないのか微妙な声のトーンで訊いてきた。私はなんかもう昨日から高尾くんを見ると条件反射で謝りたくなるという非常に残念な習慣がついてしまっていて、「いや、あの、そのすみませんあのですね」とごにょごにょ呟く。その間にもどくんどくんという心臓の音は大きくなっていく。あああ恥ずかしい見られてた私がうだうだ教卓のほうへ行ったり来たりしてるの絶対見られてた。(正確には一歩も進んでないけど)私がおどおど言葉に詰まればたいていの人は焦れて「ああなんでもないならいいんだけど」ってどこかに行くのに、高尾くんはそうしない。んー?って口元を三日月型に歪めながら、私の言葉を待ってる。じっと私を見るから、いつも私は目を合わせられなくてうつむいてしまう。 「その、…小林先生に、頼まれて…ですね…」 「ふんふん」 「今日の放課後までにワークを、集めろって、それで教卓に…」 「あー、アレ今日までだっけ。そーいやそんなこと言ってたなー」 「………」 「……え?そんだけ?」 「へっ?あ、はいすいません」 「じゃあさっさと『教卓の上出せー』って言えばいいんじゃね?」 なんでそれしきのことをためらってるんだとでも言いたげに、不思議そうに、理解できなさそうに高尾くんは言う。だから私は余計にぎくっとして、反射的にじりじり後退していた。視線を泳がせて、「そ、そうですよねすみません、そうなんです、たいしたことじゃないんですよね」とぼそぼそ口にする。高尾くんはそんな様子にますます首を傾げたけど、ふいに思い出したように「あーそっか」と呟いた。その「あーそっか」の意味が私は分からなくて、遠慮がちに私は顔を上げる。けど、すでに高尾くんは私から視線を外していて、高尾くんの目はクラスのみんなをぐるりと見渡していて、それから、 「おーい!なんか数学のワーク教卓に集めろって言ってんぞー。後ろから回収ー」 そう言った。いや、「言ってくれた」んだ。私は高尾くんを見上げて、ぽけーっと口を半開きにして固まってしまった。一瞬ボリュームを落としたように聞こえた教室内のガヤガヤがまた元の大きさに戻って、「おいはやく後ろ集めろよー」とか、「代わりにおまえ集めてよー」とか、そんな感じの話し声が聞こえてくる。それを確認してから高尾くんがポンと自分の手を叩き「っと俺も出さなきゃなー」と呟きながら自分の席に戻ろうとする。その際一度だけ私のほうを見た、気がして。 (お礼を、言わなくちゃ) だけど、どくんどくんという心臓の音は収まるどころかもっと大きくなっていて、私は上手く声を発せないまま、高尾くんの背中を見送っていた。(ああもう、自分がいやになる) |