一時間目から数学ってテンション下がるよなあ、と誰もが不満を漏らすこの時間割。教科書の練習問題に向きあってシャーペンを動かしていたら、「問三は」という数学教師の声にぴくりと俺の耳が反応する。指された人は、前に出てきて黒板に答えを書く。べつに呼ばれたのはサンだけじゃなくて、問一は加藤で問二は小池で問四は鈴木…って感じに他にも何人か指されたから、黒板に今同時にそいつらも群がってるけど。これ指名されたの一人だけだったら、べつに悪いことなんかなんもしてないのに晒し者気分味わってきっとサンは緊張に緊張もいいところで、手なんか震えて、顔も真っ赤で大変なんだろうなあ。手を止めて、黒板を見る。さんが与えられたスペースにつらつらと計算式を書いていく。隣の問題を書いてる鈴木の字が無駄に大きいからか、サンの字が少し小さく思えた。けど字、上手いな。上手いっていうか、丁寧なのかな。気づけば俺の視線は黒板の文字というよりも、さんの後ろ姿に注がれる。彼女は黒板と向き合ってるんだから、俺と目が合わないのは当然なんだけど。

昨日の放課後よく分かんない空気のまま別れたせいか、今朝登校してきたときいつにも増して俺を避けていた気がする。いつもの俺だったらそれでも構わず声をかけていたのかもしれないけど、なんとなく、今朝は出来なかった。(なんでだろう、分からない。けど、)なーんか、ひっかかる。なんでバスケ教えてやろうかって言っただけであんな、思いっきり拒否られたんだか。…っていうか、俺も俺でなんで「バスケ教えてあげる」なんて言ったんだっけ。……いや、それはあれだ。気まぐれで、だよな。一緒に帰ってやろうかって聞いたときと同じで、半分冗談で、どうせ断られるだろうから適当なこと言っただけで。(あれ?ならべつにサンにああやって拒否られてもべつに、あの時と一緒で、あーそっかーざーんねんって流せばいいんじゃ、)……あーもう


「…わっかんねー」

ぐいーっと大きく腕を広げて伸びをしたら、後ろの席の真ちゃんが鼻で笑った。あー?と俺がそのまま首を後ろに傾けたら、上下逆さまの真ちゃんの顔が視界に入る。「真ちゃん。今の俺の『わかんねー』は関数の練習問題に対しての言葉じゃないから」そう言えば真ちゃんはくいっと眼鏡を指で押し上げて、「どうだかな」みたいな視線を寄越してくる。失礼な。この程度の問題、分かるっつーの。うん、ヨユーヨユー。けど多分、真ちゃんにとってはもっともっと余裕。頭いい奴ってのはホント嫌味だね。俺は重力によって血がのぼりそうになった頭を一度正面に向きなおして、さんの後ろ姿をじーっと見つめて、それから後ろの席の真ちゃんを振り返る。

「なあ」
「なんなのだよ」
「自分にどーしても出来ないことがあったら真ちゃんどうする?」
「…は?」
「あ、『俺に出来ないことなどない!』ってのは無しな」
「いきなりわけがわからん」
「自分がどーしても出来ないことを、当たり前の様にできちゃう他人を見たらさ、どう思うよ」
「…何の話だ」
「やっぱムカつく?それともすっげー、卑屈になる?」

さんみたいに。それは付け加えずに、真ちゃんの答えを俺はじっと待つ。どんな格好良い模範解答が返ってくるだろうと期待して待っていたのに、真ちゃんはいつもみたいにフンと鼻で笑って、「どうやっても出来ないということが前提なら、俺がどうするも何もないのだよ。出来ないなら出来ないんだろう」とずいぶんアッサリ答えた。「え」と俺が固まると、真ちゃんはムッと眉を寄せる。何が不満なんだとでも言うように。

「えー?何その少年漫画的によろしくない回答。何がなんでも諦めない!諦めたら試合終了だ!とかじゃねえの?」
「べつに諦めると言ったわけではない。“どうしても”出来ないことならそういうものなんだと言っている」
「つまりどういうことなのだよ」
「真似するな。いつも言っているだろう、人事を尽くせば後は運命に従うのみなのだよ」
「人事尽くしても出来ないことがあったら?」
「まだ尽くしていない人事を探せ。“努力すれば出来ること”なら、“出来ないこと”ではない」
「…言うねえ、真ちゃん。かあっこいいー」

この男は人事を尽くしておけば総理大臣にだってなれるとか思ってんだろうか。そもそも人事ってなんだ。「努力」という言葉に置き換えてくれた真ちゃんの言葉は、とても頼もしいものに思えたけど。俺は体を前に向けて、黒板を見た。もうさんは黒板を書き終わっていて、席に戻っている。黒板に書かれた答えを数学教師がマルをつけながら解説していく。俺はその答えと、自分のノートに書いてある数字とアルファベットと記号を見比べる。どうして数学は数学のくせに数字以外も関わってくるんだか。エックスもワイもエーもビーも邪魔くさい。

「…出来る奴に出来ない奴の気持ちは分からない、ね。やっぱそういうもんなのかなー」

昨日、さんが言った言葉。ぼそっと呟いて、数秒置いてから真ちゃんを振り返った。真ちゃんは怪訝そうに眉を寄せて目を細めて、やっぱり「何の話だ」と言いたげに鼻を鳴らす。この天才クンなら、「出来ない人間を理解するのは難しい」ということを誰よりも知ってるんじゃないのか。バスケだろうと勉強だろうと。自分が当たり前に出来ることを出来ない人間を見て「なんでこんなことが出来ないんだ」って、思ったことはきっと誰にだってあるはずだ。そう、わかんないんだよ。わっかんねーんだよ、俺はきっと、さんが。相手はただのクラスメートだっつーのに「ワーク提出してください」の一言が言えないサンの気持ちなんて分かるはずがない。ああそっか人前苦手でこの子言えないんだっけーっと思うのと同時に、なんでこれくらいのことが出来ないんだろうって、めちゃくちゃ不思議だった。わかんねー。人前に出て喋れなくて、ひっそりこっそり教室で生活してる大人しい人間の気持ちなんて、分からない。大人しく、何事も無く、平和に、平穏に生活する人間の気持ちなんて。(だって、そんな学校生活の何が楽しい?平穏なんてぶち壊すためにあるのに。その方が楽しい)

そう、楽しくないと嫌なんだよな、俺は。


「努力すれば出来るならそれは出来ないことじゃない…つまり、やる前から出来ないって決めんなってことだろ?」
「…まあ、そういうことだ」
「俺も、同感なんだよね。すっごく。そんでもって、やる前から楽しくないって決めんのも嫌なんだわ」
「高尾。お前はさっきから何の話をしている。さっぱり見えてこないのだよ」
「んーだからつまり?俺が『できない』を理解するよりも、できない奴が『できる』を理解したほうがいいよねって」
「……よく分からないがお前が何か企んでいるということは分かった」


企んでるなんて人聞きの悪い。俺は練習問題の問三に大きくマルをつけて、それから、さんの方をちらりと盗み見る。そうだ、楽しくなければ意味が無い。俺がサンに抱くこの興味はきっと、楽しませてくれる可能性を感じるからだ。きっと、楽しい。楽しませてくれるような気がするんだ。さてどうやって遊ぼうかな。そんなことを考えて退屈な授業を受ける俺は、「帰ったらゲームやろう!」と放課後を待ちわびる小学生の様な気分。ほらやっぱ、楽しいじゃん。