|
「あ。おっはよー、サン」 「! お、おはよう!ご、ございます…」 教室の扉を開けてすぐに聞こえたその挨拶に、びくうっと肩が跳ねる。声がしたほうを見ると、向井さんが扉付近の友達の席にどっかりと座って爪を磨いていた。向井さんのお友達さんが、そんな彼女の頭をべしべし叩いて、「あんたの席あっちでしょー、どきなさいよ」と口を尖らせる。けらけらと笑いながら腰を上げた向井さんは、昨日くじで決めた新しい自分の席に戻っていく。私も慌てて、その向井さんの席の、後ろに着席する。荷物を置いて、ふうっと息を吐いた私。その直後、前に座る向井さんがくるりと体をこちらに向けたので、ビクリとこれまた肩が跳ねた。 「今日何かあったっけ?いつもより早くない?」 「え…?あ、わたし?」 「うん」 「え、え、なんで私の登校時間、知って…」 「んーなんか意外に登校ゆっくりめのイメージあんだよね〜」 「そう…かな」 「うん。高尾より後に教室に入ってくるイメージ」 「!!」 「そんで高尾が〜サンにオハヨー言ってぇ、怯えられてショック受けるか笑うかしてるイメージ?みたいな?」 ポケットから出した甘い匂いのリップグロスを唇に塗りながら、向井さんはけろっとした顔でそう言う。対して私は、高尾くんの名前を出されたことや、まともに挨拶も返せないのがバレてるっていうことに動揺して、膝にのせた拳をぎゅうっと握った。な、なんで、ここで高尾くんの名前が出てくるの、と言いたいところだけれど、それはたぶん、向井さんが高尾くんと仲が良いからであって、私と高尾くんがどうこうっていうわけじゃない、はず。そう言い聞かせるのに、頭の中にあの「夢」の光景が浮かんで、ぶわっと嫌な汗が噴きでた。恥ずかしい。誰にも、向井さんにだって話していないのだから、あの夢の内容は誰も知らないはずなのに。なぜだか向井さんにはバレているように思えてしまって、私は恥ずかしさでいっぱいになる。頭いっぱいに、向井さんに軽蔑されるイメージが広がった。その向井さんの顔が、声が、すぐに高尾くんのものに変わる。高尾くんに軽蔑される想像。あんな夢を見るなんて、私はやっぱりおかしいんだ、ぜったい変なんだきもちわるい子なんだ。最近高尾くんに優しくされてばかりで、その気持ちを忘れてしまいそうになるけど。忘れちゃいけないものなんだ。だって、高尾くんに申し訳なくて、でも…、でも、約束が、あって。 「おーい。お〜い?サーン?」 「! は、はい!」 「なんで黙りこんでそんな泣きそうな顔してんの?あ、アタシいじめてないよ?変なこと言った?ゴメンね?」 頬を掻いて、困ったように眉を下げる。そんな様子に、慌てて私は首を横に振った。向井さんは何もわるくない、なんにも変なこと言ってない。不快にさせてしまっただろうか、とおろおろしつつ、「なんでもない!なんでもないんです!」と力強く言った。「そう?ならいんだけどさ〜」コロリと笑う向井さんに、ほっと胸を撫で下ろす。 「うん、私登校遅いの、ほんとだし…」 「家遠いの?」 「ううん、近い方だよ。歩いて通える距離だし」 「え、めっちゃ近いじゃん!」 「うん…近いと逆に、ぎりぎりまでゆっくりしちゃうっていうか…」 「あ〜分かる分かる。油断しちゃうよね〜」 「あ…でもほとんど自転車で通ってる」 「あ、そうなの?」 「うん。一緒に帰る子が自転車だから…私だけ歩いてても、気遣わせちゃうし…」 「ふうーん。サンって遠慮しいだねえ」 「そ、そんなことないよ」 「んじゃあ今日は特に理由もなくちょっと早めに出てきたってだけ?」 「! そ、れは…」 椅子を後ろに向けて、私の机に肘をついてそう尋ねる向井さん。じぃ、と目を見られて、私は反射的にパッと逸らしてしまう。ぎくりだかドキリだか音を立てた心臓を、おさえる。人と目を合わせることは、たしかに怖い。だめな自分が見透かされてる気がして。だけど、今向井さんから目を離したのは、そうじゃなくて。かーっと自分の顔が赤くなる音を聞いた気がして、なんだかこの場からいますぐ消えたいくらい、恥ずかしかった。(早めに家を出た理由、) 「(高尾くんにおはようを言う約束をしたから、なんて、変だよね…!早く来る理由になんかならないよね…)」 「(高尾の近くの席になったのが嬉しくて早く学校来たかった、なんて言いそうな雰囲気の子じゃないかぁ。両想いじゃないのかなぁ?この二人って)」 「真ちゃん早く早く、先行っちゃうぜー?俺」 「…何を急いでいるのだよ」 「へ?…あー、そりゃ、朝練長引いちゃったじゃん?早く席行って授業の準備をしようかと」 「べつに一時間目は移動教室でも予習をチェックされる授業でもなかったと思うが」 「…いーからっ!」 振り返らずに早歩きを続ける俺。超が付くほど鈍感な真ちゃんでさえこうして気づいて怪訝そうにするくらい、俺は舞い上がっちゃってんだろうって思うとくっそ恥ずかしかった。一刻も早く教室に行きたい、とか。なんで?って訊かれたら、そりゃあ、ねえ。自分自身さえも誤魔化そうと試みるけど、さっきから頭に浮かぶのはサンのことばっかりなんだから、まあ、はやくあいたいってことなんだろう。 (べつに、サンは逃げないっつーのに!)(あ、いやたまに逃げられるけど) 「早くサンにおはようって言いたいから」なんて、意味分かんない理由だ。だけど、それ以外の理由を探しても見つからなかった。たかが、「おはよう」って、四文字の、些細な挨拶。たいしたやりとりじゃない。「言うぞ!」って意気込むほどの言葉じゃない。サンだって、何の変哲もないただの朝の挨拶程度にしか、思わないはずだ。そうであって、ほしい。今日もまたいつもみたいに、ビクッと後退りされたら。想像して、頭の後ろをがしがし掻いた。…つうかそもそも、俺が急いで教室入ったところで、サンまだ来てないかもしんねーし。 だけど、なんか、もう来てる気がした。そんな気がした。早足に廊下を歩いて、教室のドアを思い切りがらりと開ける。パッと一瞬で教室内を見渡して、ああやっぱり、すぐ見つけた。向こうも、扉が開いた瞬間こちらを勢い良く振り向いた。まるで誰かを待っていたように。(扉が開く音を聞くたび、振り向いてた?)(それは、誰を探して。誰を待って。)あーやばい、どう堪えようとしたって口元が緩む。 「おはよ!さん」 「お、おはようっ!高尾くん!」 (ほっとしたように微笑む彼女。呼ばれる俺の名前)(そうだ、ここから始めよう。ここから、もっと)(近づけるように) |