休み時間、廊下に出てロッカーから保健の教科書を取り出して、教室に入ろうとしたとき。入り口のところに立って教室を覗きこんでいた、他のクラスの男の子とふと目が合う。クラスも名前も分からないけれど、私と目が合うとその人は「ああちょうどいい!」といった、少しほっとしたような顔をするので、ビクッと足が止まった。話しかけられそうな予感。失礼だと思っても、とっさに身構える。

「ごめん、ヒロ呼んでくんない?えーと、井崎!井崎呼んで!」
「あ、え…と」

予感的中。見知らぬ男の子に話しかけられてなんだかすごく緊張する。なんてことない頼みなのに、情けなくあたふたしてしまった。井崎くん、井崎博人くん、だったかな、下の名前。目の前にいる他のクラスの男の子は、井崎くんのお友達のようだ。ご用事がある、らしい。私、あんまり井崎くんと喋ったことないんだけど、話しかけても大丈夫かな。お友達が呼んでるよ、って言えばいいだけ、だよね。うん。本当、他の人にしてみればなんてことないことなんだろうけど、私はぐっと気合を入れて、教室内を見渡す。つい先日席替えしたばかりだけど、確か、井崎くんの席は―…

「どーした?さん」
「わっ!?」
「誰か探してんの?」
「あ、いっ」
「あー、井崎いねえ?呼んでくんね?」
「井崎?」

後ろから高尾くんが声を掛けてきて、びっくりして振り返る。井崎くんを探してる、と私が言う前に、私の横にいた男の子が、高尾くんにもさっき私に言ったことと同じことを頼む。私より一歩前に出て教室を覗き、ぱっと見渡した高尾くんが、男の子のほうを振り返り、「いねーな。トイレじゃね?」と返事をする。は、はやい。私とぜんぜん確認するスピードが違う。報告するスピードが違う。高尾くんの言葉を聞いて、男の子は「えーまじかよお」と落胆した声を出した。

「国語の便覧、さっき貸して返ってこねーんだよな。次の授業うちのクラス使うのに困るわー」
「あー、そりゃ井崎さいてーだわー」

がしがし頭の後ろを掻いて、溜息。相槌を打つ高尾くんも、苦笑している。なるほど、便覧を返してもらおうとうちのクラスに来たのか。井崎くん、借りてること忘れちゃってるんだろうか。机の中、しまっちゃったのかな?勝手に机の中見たら、嫌…だよねえ。でも無いと困るだろうな、このひと。そこで、ハッとする。さっきは私が彼に頼まれごとされたのにもたもたしたせいで高尾くんに手助けしてもらっちゃったし、今度は私が、人助けをする番に、なれるんじゃないだろうか。たしか便覧、私ロッカーに入ってるはずだし。いい案かもしれない。これくらいなら、私でもできる。私がちょっとぎこちなくだけどにこっと笑って、男の子に言う。図々しいだろうか。知り合いでもない子に言われても迷惑だろうか。

「あ、あのっ!うちのクラス次国語じゃないし、よ、よかったら便覧、」
「それもそーだな。俺が貸すわ!ちょい待ってな」
「まじで!助かるー!」
「!?(あれ!?)」

ロッカーから素早く国語の便覧を取り出すと、はいよーと相手に手渡す。高尾くんが。その様子をただただ見守る私。「サンキューな!えーと…」と言いながら彼は教科書をひっくり返して、名前を確認した。学年とクラスと、高尾和成、と油性ペンで書かれたそれ。「たかお!」と声に出して呼ぶと、彼も高尾くん本人もへらりと笑った。私はますます目をぱちくりさせる。あんまりにも自然に、フレンドリーに話しているから、気軽に教科書貸せちゃうから、二人は知り合いなのかと思った。でもこの様子だと、どうやらお互いの名前もしらない関係らしい。

「次の休み時間絶っ対返しに来るから!ほんとありがとなー!」
「いーって。井崎にも言っとくぜ」
「おお、マジ言っといて!返せバカって」
「りょーかいでっす」

ははっと笑いながら、廊下を走って教室に戻っていく男の子の背中を見送る高尾くん。ぽかんと突っ立っている私。サン?」と呼びながら顔を覗き込まれてようやく、我に返る。我に返るついでに、距離の近さにびっくりして身を引いた。意識なんてしてなかったのに、みるみる顔に熱が集まってきた。け、今朝の向井さんの言葉が、あんまりにも、衝撃的すぎて。いや、すきとか、そうと決まったわけじゃないから、ぜんぜん、いいんだけど。向井さんだってそれこそ、笑い飛ばされるだろうと思ってかるく言ったことだと思うし!鏡は無いけど、確認しなくても顔が真っ赤であろう私に、高尾くんが笑顔だけど、ちょっと困ったような顔で、さーん…?」と首を傾げる。

「あ、や、その、さっきはありがとう、ござい、ます!」
「…ん?何が?」
「さっきの…井崎くんのお友達のこと。私、井崎くんともあんまり話したことないから、呼べるかなってちょっと、あの…緊張しちゃって…お友達さんのこと、待たせちゃうところだったから…」
「あー…はは!いやまあ、なんか入り口んとこでサンが困ったさんオーラ出してるから、話しかけてみただけっつーか。井崎結局いなかったし」
「こ…困ったさんオーラ出てた?」
「出てた出てた。超出てた」

ニィっと笑って、高尾くんが私の頭上に手をかざす。頭のてっぺんからは10センチくらい浮かせて、本当に何かを透視するかのように、空中でぐるぐる手のひらを泳がせる。目をぱちくりさせながら、私は真上を見上げて、高尾くんの手の動きを見守った。パッと手を引っ込めると、高尾くんは安心したようにうんうん頷く。なあに、なにしたの?って視線で聞くと、高尾くんは「もう出てないっぽい、困ったオーラ。安心安心」とイタズラっぽく笑った。なんだかちょっと子供っぽいその行動に、私もふふっと笑いがこぼれる。

「高尾くん、やさしいね。困った人助けるのが上手で、すごいなあ…」
「んなことねーよ。つーか、やさしーとか言うのサンだけだし?」
「そうなの…?あ、でも、ほら!さっきの井崎くんの友達も、困ったさんオーラ出てて、助けてあげてたし…!」

私も、「よかったら私の使って下さい」って言えたら良かったんだけど、少し躊躇しちゃったし、高尾くんのほうがずっと行動、早くて。すごいな。優しいんだよなぁ、高尾くん。やっぱりその、困ったさんオーラを感知できるレーダー?みたいなものが、冗談じゃなく本当についてるんじゃないかなあって思っちゃうよ。うんうんって今度は私が頷いていたら、高尾くんがちょっとびっくりしたように目を丸くして、それから、俯いて肩を揺らす。それが笑いをこらえてるんだって、最初は気づかなかった。

「あ、あれ…!?たかおくん!?」
「ぶはっ!ははっ!あー、いや、なんっつーか、さ?俺なんかと比べもんにならないくらいさんがイイコすぎて…っくく、あーなんか久しぶりだわ。この感覚!」

心底楽しそうに笑う高尾くんを見て、確かに私も、なんだか久しぶりのような気がした。こうやって高尾くんが私の言葉や言動にお腹抱えて笑うこと。笑われて、私が一人で困惑してること。以前は、顔真っ赤にして、わけもわからずごめんなさいごめんなさいって謝ってたんだっけ。だけど今は、謝らないで、…そう、わけもわからず謝るんじゃなくって、それより先に、訊けばいいんだ。分かろうと、してみたいんだ。「な、なんでわらうの…!」ほら、言えた。ちょっとどもったけど。でも高尾くんは、ひひ、と歯を見せて笑うんだ。楽しそうに。

「俺、助けたいから便覧貸してやったんじゃねーよ?」
「…ええっ!?」
「むしろ正反対?イジワルで言ったんだけど」
「えええ!?」
「だって、俺より先にサンが貸そうとしたじゃん」
「! き…気づいてたの?」
「そーそ。けど、サンがヤローに自分の物貸すとか嫌だから、邪魔したってわけ」
「え、」
「誰がお前にサンの便覧を渡すかー!っつって、な?」
「え、え、ええ…っ」
「…ぷっ」

頭のてっぺんから煙が出てばくはつしそうなくらい、顔があっつくなって、きっと真っ赤で。そんな私を見て高尾くんが、やっぱり噴き出して。ああなんだ冗談か、うんそうだよね、冗談だよね、と自分の両頬に手をあてて、顔の熱が引くよう念じる。大袈裟に反応しすぎ、だ。今のは冗談だし、変な意味なんてないんだし。いや、変な意味っていうのは、べつに、そういうんじゃ、ないけど。でももし、もし冗談じゃなかったとしたら、他の人に貸してほしくないって、どういう、意味なんだろう。考えている間に、自分の頬が熱すぎて、ぺったりくっつけた自分の手のひらにさえ熱がうつってしまいそうだ。ぐるぐる考えすぎて目が回りそうなくらい。うう、と口をへの字にしながら、高尾くんの顔を見上げる。私を見つめて、ふっと微笑む高尾くんがいる。からりと笑うときの笑顔じゃなくって、もっと、見守るような優しい瞳だ。それを見た瞬間、体温が一段と上がった気がした。心臓がきゅうって音を立てる。なんで。なんでだろう。

「それとさ、さん」
「は、はいっ」
「俺の困ったさんオーラ探知機はさあ、さん専用なんだよ」
「せんよう…?」
さんだからだよ」
「…え、」

さわがしい教室の声が、ぱちんとスイッチを切ったように遠く感じる。何度も何度も、さんだからだよ、っていう声が頭のなかに反響した。高尾くんは、わらうだけだ。それ以上は言わない。「つまりさぁ」なんて、話しだしたりしない。私は、何か言おうとして口を開いて、だけど何もいえなくて口を閉じる。こういうときこそ、「どういう意味?」って聞かなくちゃなのに。聞こうって、思うのに。また冗談なのかもしれない。うん、きっとそうだ。高尾くんは優しいから、誰にでも、みんな平等に優しいんだ、私なんかにまで優しいんだから、みんなに、きっと。そう思うのに。どうしてこんなに、顔が熱いんだろう。どうしてこんなに、嬉しいって思っちゃうんだろう。

「…っと。来た来た。おーい、井崎ィー」

休み時間が終わるギリギリに教室に戻ってきた井崎くんに、高尾くんが声をかける。そのまま、二人で何かを喋ってる。でも、そのあいだにも。どくんどくんと心臓がうるさい。なんでだろう、なんでだろう、高尾くん。自分のことなのに、よくわかんないよ。困っちゃうのに、嫌な気持ちなんかじゃなくって。本当に、わかんない、な。(あのとき「俺もわかんないや」って言った高尾くんも、こんな気持ちだったのかなぁ。)