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ちゃんと、言えたはずなんだ。笑って、おはよう、って。高尾くんはそんな私にちょっと戸惑っていて、かたくなに「ごめん」を続けようとしていたけど。でも、必要ないはずだ。高尾くんは何にも悪くないんだし。もう、あれはぜんぶ勘違いっていうか、なかったことにしよう、そうしたほうがいいはず。気まずくなんてなりたくない。いつもと変わらず、普通に、なんでもない関係。教室でたのしくおしゃべりしてくれる、クラスの男の子。何か特別な関係じゃなくて、仲良し度でいったら全然、私より向井さんのほうが上だし、高尾くんにとって私は、なんでも、ない、ただの「サン」で。それがいい。このままがいい。なんにも、かわってほしくない。 「ちゃん?」 教室の一角で、友達とお昼を食べながら、ぼーっとしてしまっていたらしい。呼ばれた声にはっとして、私は怪訝そうにしている友達にへらりと笑う。ちゃんと笑っているつもりだけど、ちょっと曖昧な、ぎこちない笑みになっていたかもしれない。「ごめん、ちょっとぼーっとしちゃって」と言いながら、視線を泳がせた先に、ちょっと離れた場所でご飯を食べていた高尾くんの姿があった。ほんの一瞬視界に入っただけなのに、すぐに視線に気付いたのか、高尾くんがこっちを見た、気がした。慌ててさっと目を逸らしてしまう。思わず。逸らしてから、後悔する。ああ感じ悪かったかな、なんで逸らしちゃったかな、でももう一回そっち見るのも変だよねえ…。視線をしょぼしょぼ下降させながら、項垂れる。 「具合悪い?食欲ないの?」 「え…う、ううん!大丈夫……あ、でもちょっと寝不足かな…」 「寝不足?何時に寝たの?」 「えっ!……え、えっと…寝たのは…」 「……」 「寝たのは……」 「寝てないの!?」 「ううん!寝たよ!えーと、に、二時とか三時になっちゃってたかな!!」 「そっかあ。なんか面白いテレビとかやってた?あ、動画見てたとか?」 「あ、そうだ!早苗ちゃんの言ってたこの前の猫動画見たよ!テレビで紹介されてたよねっ」 お友達に心配かけてしまった。あわてて誤魔化しちゃったけど、なんだかちょっとぎこちない感じ。寝てない、なんて言ったらさらに心配かけちゃうと思うし、理由を詳しく聞かれちゃいそうだ。幸い早苗ちゃんはそれ以上私の夜更かしに突っ込んではこなくて、話は猫の話になって……でも、ちょっと、視線を感じる。なんとなく、その視線の主が、わかってしまう。たぶん、先ほどと変わらず、高尾くんだ。やっぱり、そっちに視線は向けられない。ああ、もう、いつも通りに、普通に、って思ってたのに。 「ねーちょい高尾聞いてよー…って、うわめっちゃチャンのほう見るじゃん」 「……さっきサン、『昨日の夜寝てない』みたいな話してた気がすんだけど」 「めっちゃ盗み聞きしてんじゃん」 「…もしかしてそれってさー…俺のせいじゃね?」 「うわ…チャンかわいそすぎじゃん…」 「……、…さ、」 「わっ、私トイレ行ってくるね!」 がたんと視界の端で高尾くんが立ち上がる気配に、思わず自分も立ち上がってしまった。そしてそそくさと逃げるように教室の出口へ向かう。あああ、また避けるみたいになっちゃった、そんなふうにしたいわけじゃないのに。どうしても、うまく、顔が見られない。 トイレの鏡の前で、深く深く溜息を吐く。自分が嫌になっちゃう。どうして、もっと普通に振る舞えないんだろう。変に気まずくなっちゃったら、高尾くんだって困るのに。気まずくなるのは、嫌なのに。これから先、話しかけてもらえなくなっちゃったら、とか。笑いかけてくれなくなっちゃったら、とか。考えると、胸が苦しい。いやもともと高尾くんみたいな人が私と仲良くしてくれていることのほうが、…とか、ぐるぐる考えてしまっていやになる。また懲りずに溜息吐いて、そっと制服のポケットから「それ」を取り出して、眺める。 「かわいーね、そのピン。つけないの?」 「わっ!?あっ、む、向井さん…」 びっくりした。気づかなかった。いつのまにかすぐ隣にいた向井さんと、ぎこちなく視線を合わせる。入り口が開いたのも横に人が来た気配にも気付かないくらい、ぼーっとしていたらしい。そして遅れて向井さんの言葉にハッとして、ヘアピンをポケットにしまう。 「これは…その…いろいろ事情があって、つけられないというか…」 「でも持ってきてるってことは、気に入ってるし、嬉しいんだよね?」 まるで、わかってるみたいに、向井さんが言う。高尾くんにもらったっていうことも、私が、嬉しかったのも、嬉しいのにつけないっていうことも、全部お見通しみたいに。本当に分かってて言ってるのかなんて分からないのに、なんだか不思議と、向井さんにはお見通しのような気がした。じいーっと、その目が私を見る。居心地悪く視線をじりじりと逸らしたら、向井さんもじりじりと顔を近づけてきて、それから、「あーーーもう!」といきなり頭を掻き毟りながら大きめの声を出した。その音量に、びくうっと肩が跳ねる。 「わっかんないなー!!なに!?何がそんなにチャンをうじうじさせるの!?」 「す、すみませんごめんなさい…!?」 「どういう状況でそうなったのかよくわかんないけどさ、チャンは嫌だったの?キスされそうになったの、『夢の中』じゃ思わなかったのに、現実だとキモーって思った?いやまーそりゃあいろいろ過程を吹っ飛ばしすぎだしダメだけどさあ」 ドキッと胸を突いてくる。「夢の中」という言葉。そうだ、向井さんには以前、相談したっけ。高尾くんの名前は出さなかったはずだけど、「クラスメートにキスされる夢を見る」って。そうしたら…「好きだから夢に出てくるのかもしれないよ」って。向井さんはそう言った。 「……キス、されそうになってない、よ」 「いや、なったんでしょ!?事実だからアイツも謝ってたんだし…」 「ううん、多分そういう誤解をさせちゃってごめんっていう意味で…高尾くん優しいので…」 「え、何怖いんだけどなんでそんな頑なに認めようとしないの?」 「だって、夢の中と現実は…違うから…違うのに…」 夢の中でキスされたとき、「気持ち悪い」と思ったのは、自分自身にだ。高尾くんにじゃない。現実で「キスされそう」って思ったとき、嫌だって思ったのは高尾くんに対してじゃなくて、自分自身にだ。私は、きゅっとスカートの端を握って、俯く。もう向井さんの顔を見ることができなかった。消えちゃいたいくらい、嫌になる。 以前までは、あんな夢ただただ恥ずかしくて申し訳なくて。でも高尾くんに「気にしてない、迷惑なんかじゃないよ」って言ってもらえてから少し気持ちが救われて。なのに、今、いつの間にかそこに当たり前にあった「その感情」に向き合ったら、すごくすごく、嫌になった。改めて、思った。この気持ちに気付く前とは違う、また違う理由で、自分が、すごくいやになった。 「自分の妄想にとどめておかないといけないことなのに、現実の高尾くんに重ねてる自分が、嫌で嫌でたえられない。夢の中と現実の高尾くんは、違うのに。わたし、」 言葉を区切る。声に出してしまったら、自分の言葉で認めてしまったら、もうきっと逃げられない。 「高尾くんのこと好きだから、夢に出てくるんだと思う」 いつもおしゃべりな向井さんが、何も言わなかった。でも、私より先に答えを口にしてくれたひとだ。向井さんの言ったとおりだった。好きだから、あんな夢を見る。最初は偶然とか、神様のいじわるだったとしても。今、夢に出てくるのは、まぎれもなくその理由だった。その証拠に、ここ最近ちょっとずつ夢の内容は変化していた。高尾くんっていう男の子を知るたびに、夢の中の彼がどんどん、現実の、「私の知ってる高尾くん」に、もっと言うなら「私の好きになった高尾くん」に、近づいていった。 「すきだから」って、「好き」って、もっと甘酸っぱくっていいはずの言葉なのに。照れて真っ赤になって話したっていいはずの言葉なのに。きっとそうなるはずだった微笑ましいくらいの感情なのに。今の私には、それができない。だって認めてしまったら、私は、こんな私をもっと嫌になってしまう。 「キスされたいとか好きって言ってもらいたいとか、そういう願望があるからそういう夢を見る、って。しかもそれを夢に留まらず現実の高尾くんにも求めてるのかって思ったら…恥ずかしくて痛くて、気持ち悪くて」 「…なんにも気持ち悪くないじゃん。好きなんだからふつうじゃん、そんなの」 「好きになってほしいとか思うのもおこがましいのに、でもたぶん思っちゃってて、そんな自分が嫌で」 「なんで嫌なの?それって普通のことじゃん。だって好きなんでしょ?」 「好きだから、いやなんだよ」 わかんない。ちっとも意味がわかんない。向井さんの声が、そう言っていた。「たぶん向井さんにはわからない」って、それだけはわかる。向井さんの言う「普通」が、私にとっては「普通」じゃないんだと思う。バスケでボールが回ってくることも、大きな声で「数学のワーク教卓に出して」って言うことも、怖がってしまった自分だから。(だけどそれを思い出すと同時に頭によぎるのはやっぱり、高尾くんの存在で)なんだか泣きそうになってきて、でも泣いたら絶対向井さんに心配かけるし、困らせちゃうし、以前みたいに「自分が泣かせた!」って誤解させてしまう。堪えていたら、向井さんがフーッと長く息を吐いて、状況を整理するみたいに「うん、えーとつまり…」と言葉を探す。 「『私なんかが好きになっちゃいけない!こんな自分を好きになるはずない!キスされそうになったとか何かの間違い!そんなはずない!』ってゆーのを…ギャグでも『またまた〜!』って言われるの待ちでもなく、ガチで思ってるってこと?」 「……」 「…」 「ギャグ……」 「そうだよね〜、ギャグなわけないよね、うん。うーん、そっか〜…そこまで深刻なのかー…夢の中ならまだしも実際現実でそーゆーの来ちゃったらキャパオーバーでわけわかんなくなっちゃうのかー……うんやっぱアイツが余計なことしたせいじゃん?…まーでも超反省してたしなー…うん」 「……向井さん…?」 「なんでそこまで自分のこと嫌だ嫌だって思うのか、あたしにはよくわかんないけど、でもさあチャンのこと好きな人からしたら多分それって悲しいよ。チャンのこと好きな人が可哀想だよ」 そんなこと言われたって、とごねる気にはなれなかった。向井さんの言葉が、適当な答えじゃなく、本当に心からそう思って口にしてくれた言葉だって分かるから。「どうしてそこまで自分を嫌うのか分からない」というのは、本当にきっと向井さんには分からないことなんだと思う。向井さんはきっと、自分を好きになれる人なんだろう。事実、本当にいいひとだと思うので、嫌いになる理由がないと思う。そんな人が、分からないことは分からないとはっきり言って、「わからないけど」と前置きしたうえで、思ったことを伝えてくれる。自分にはもったいないくらい優しい言葉だった。気休めなんかじゃなく、まるで向井さんは本当に「私のことを好きな人」の顔をはっきりと知っていて、私が私を嫌うせいでその表情が悲しいものになることが容易に想像ついて、気の毒に思っているみたいだった。 ごめん、と、ありがとう、と。どちらがふさわしいのか分からなくて、でもどっちも伝えなくちゃいけない気がした。 「…向井さん、ごめん……ありがとう…」 「……もう、さ!」 「う、うん…」 「今日、一緒に帰らない?」 がっしりと両肩に手を置かれる。何かを決心したような力強さに、私は目をぱちくりさせた。 |