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緑間真太郎は焦っていた。いや、焦りというよりは混乱で、そしてその感情が行き着く末は「どうして自分の身にこんなことが起きないといけないのか」という苛立ちだった。それもこれも、ラッキーアイテムであるタコのキーホルダーをどこかに落としてきたせいだ。そもそもそのキーホルダーを落としたということ自体が不運だし、一度部活に向かったもののラッキーアイテムが手元にないことに気付き来た道を引き返した先で、こんな状況にぶち当たることが、一番の不運だ。 「す、すみません、ぶつかって…っ!」 階段を上りきったところ、その階の廊下を走ってきた人物にぶつかった。それだけでも確かに「ツイていない」が、その全速力でぶつかってきた相手をムッと睨んだところ、相手が見知ったクラスメートで、で――何より面倒な気配を察知した理由はここなのだが――ぼろぼろに泣いていたのだから、ツイていない。 ラッキーアイテムを失くすだけでこれか。おは朝恐るべし。 「……」 「み、っど、りまくん……」 確実に面倒なことが起こっているのはわかる。だが所詮はただのクラスメートなのだし、自分には関係のないことでトラブルが起こっているのだから、泣いていることには何も触れず、立ち去るべきだ。しかし相手はぶつかったのが自分だとわかって目を丸くし、罰が悪そうに青ざめて、今にあの「ごめんなさいごめんなさい」を唱えようとしている。といえば、確かそういうものだった、と頭の片隅で緑間は思い出す。最近はあまりその光景を見なかったが、たしか……「あいつ」は、そんなの様子をよく笑っていた。 「べつに、何があったかなど聞くつもりはないのだよ。お前はぶつかってきて、俺に謝った。それ以上は要らん」 「…っ、ごめんなさ……あ、え、っと…わたし、っあの、」 泣いていることで余計なのか、いつも以上に言葉がつっかかる。かと思えばハッと自分の背後、走ってきた廊下を一瞬だけ振り返り、また走り出そうとした。 「どうせまた高尾だろう」 溜息混じりに緑間が口にした名前に、の体が強張る。足が止まった。緑間としても首を突っ込むことは避けたかったはずだが、思わず、だった。どうせまた、あいつが何か余計なことをしたんだろう。呆れたように、緑間はに言う。 「お前には多少同情するのだよ。追いかけ回されるとは不憫だな」 「ち、ちがうよ、高尾くんは、なにも悪くなくて、私が、悪いので…」 「いい機会だから教えてやろう。お前は何か勘違いしているのだよ。アイツはべつに心優しい善人でもなんでもない。自分が愉快だと思えばゲラゲラと他人を指さして笑う、ただのやかましくて面倒な奴だ」 お前だってよくげらげら笑われていただろう。それを最初は怯えて逃げていたんじゃなかったのか。体育のバスケで助言を貰ったことで「優しいね」などと勘違いしていたけれど、あれだって高尾の「からかってやろう」の延長でしかなかったはずだ。――そう細かに指摘することは無かったが。ここまで言えばその評価を思い直すだろう、もそんなにバカではないだろう、と思っての助言だった。だがは、緑間の言葉に二・三度まばたきをし、やがて少し視線を落として、一言。 「……高尾くんは、優しいよ」 そう言った。緑間が、溜息を吐く。 「だがお前は今高尾から逃げているんだろう」 「あっ……う、ううん、違う、高尾くんが追いかけてきてるわけじゃ…」 「上の階に行け」 「え…?」 「高尾に会ったら『は階段を降りて行った、昇降口に向かった』と言っておくのだよ」 「え、で、でも……」 「適当に時間を潰して、頃合いを見計らって降りて来て帰れ。とりあえず今高尾と鉢合わせることはなくなる」 「緑間くん……」 そんなふうに言われるとは思っていなかった。思わぬ協力者に戸惑いつつ、その顔をが見上げる。目を合わせることなく、ふいっと緑間は顔を逸らした。なんとなく、の次の言葉が予想できたからだ。 「……ありがとう」 予想通りの言葉だ。だから、緑間は顔は逸らしたままだった。高尾がここにいたら、その様子を「照れ隠しか?」とからかってきそうなものだけれど。が、緑間の横を通り過ぎ、上へのぼるための階段に足を乗せる。その直後に、緑間が凛とした声で彼女の名前を呼んだ。が、首を動かしてそちらを振り返る。 「何があったかは知らんが、今日逃げたところで、何になる?明日になれば高尾と別のクラスになるわけでも、席が離れるわけでもない。どうせまた明日、顔を合わせることになるのだよ」 「…、それは……」 「今日の問題をただ明日に先延ばしするだけだ。このまま一生その話に触れずに逃げ切ることは不可能だろう」 今逃げることを手伝ってくれると言うわりに、随分な台詞だった。毒があるわけではない。ただ、正論で人を殺すタイプの。 今日誤魔化したところで、明日は?明後日は? 今、鉢合わせずに逃げることは正しいか?意味があるのか? の足が動かなくなる。その動かない自分の足元を見下ろしたまま、ぼそりと、小さな呟きが零れた。 「……わからない、けど……それでも…今は、会いたくない……まだ…、」 「………」 「まだ、きらわれたくない……」 その呟きを合図に、緑間と話していたことで少し引っ込んでいた涙がまた滲みだす。意味はないとわかっている。どうせ先延ばしにしたところで。今日じゃなくても、明日。明日じゃなくても、明後日。きっと嫌われる。こんな自分を軽蔑される。だからこんな抵抗意味がない。それでもまだ、その瞬間が怖い。先延ばしにできるものなら、一日でも。馬鹿みたいなわがままだった。情けなさに目元を強く擦り、は駆け足で階段を上っていった。逃げるように。事実、逃げるために。 緑間は、いっそ溜息も出なくなった。が階段をのぼっていったのとほぼ同時に、廊下の奥から、高尾が走ってくるのが見えた。なにが、「高尾が追いかけてきているわけじゃない」だ。高尾が階段付近にいる緑間の姿を見て、走るスピードはそのままに、廊下で叫んだ。上の階に向かったにも聞こえたかもしれない。 「なあ!さん見た!?」 「……廊下を走るな。叫ぶな」 「それどころじゃねえんだって!!なあ!!真ちゃん!!」 「っ見たのだよ!」 声のボリュームに心底うんざり眉を顰めた緑間に向かって、高尾は真っ直ぐ走ってきて、距離を詰めた。 「泣いてた?」 「……」 眉間に寄った皺を直さないままに、緑間は高尾の視線を受け止める。その表情と沈黙を答えとして、高尾は――下りるための階段に視線をやった。 「どっち行った?下?」 「…ああ。真っ直ぐ昇降口に向かったんだろう。お前から逃げているなら、急いでそのまま家に帰ったんじゃないのか」 「そっか。オッケー、サンキュ」 返答を聞くや否や、階段を駆け下りようとする高尾の背中に、声がかかる。「おい、待て」と。もちろん、引き留めたのは緑間だ。待てないごめん無理急いでる!と言ってもよかった。だが高尾は振り返り、緑間の顔を見た。じ、と睨み付けるような目で、そこにいた。 「言っておくが、高尾。お前の今日の運勢は最っ悪なのだよ」 「……は?なに?おは朝?」 「だから今日はやめておけ」 すぐにでも走り出したそうにしていた高尾が、緑間のその言葉に目をまたたき、一度、体もそちらに向けた。真剣に耳を傾けようとしている様子だった。何故かって、さっき――教室を出るときに聞いた、お節介なクラスメートの言葉と、似たものを感じたからだ。二度目の足止め。それでも、今、聞いておかないといけないような、そんな気にさせる。 「…どうせ、明日と別のクラスになるわけでも、席が離れるわけでもない。明日嫌でも顔を合わせるだろう。何があったかは知らんが、明日謝ろうが今追いかけようが同じことなのだよ」 「……どうせ同じなら、運勢最悪な今日じゃなくて明日にしとけ、って?」 高尾の言葉に、緑間は頷くわけでも何を言うわけでもなかった。だから高尾は、またその表情と沈黙から答えを読み取らなくてはいけなかったけれど。答えなんてじっくり確かめる暇もないまま、高尾はニイっと悪戯っぽく笑って言った。「真ちゃんにしては親切じゃん。忠告どーも」 その瞬間、緑間も理解する。高尾の答えを。 「けど、今日じゃないとダメなんだわ。運勢最悪でも、ラッキーアイテム無くても、行かなきゃいけないときってあるじゃん?」 「……」 「多分、それって今なんだよ。俺にとって」 その笑った顔に、呆れて、緑間はやはり溜息も出なかった。代わりに、ふん、と鼻で笑ってやった。それを満足げに見たあと、高尾は階段を駆け下りる。しかし彼が中間の踊り場に足をついた直後、緑間がもう一度、引き留めた。 「おい、高尾!」 「おお!?なに!今見送る流れだろ!」 「うるさい、戻れ!上だ!」 「は!?」 「上だと言っているのだよ!さっさと戻れ!」 踊り場から緑間の顔を見上げて、ぽかんとする。詳しいことは何も言わない。けれど今度は、ちゃんとその表情と、沈黙で、答えを受け取った。高尾の口元が、また大きく弧を描く。駆け下りたときよりもずっと速く、その階段を上って、緑間のわきを通り過ぎるとき、その体を軽く小突いた。 「……向井。何故お前が教室に残っ…おい、それは俺のラッキーアイテムだ!返すのだよ!」 「へっ?おっ!緑間じゃ〜ん!えっなにこれ緑間の?落ちてたから拾ってあげたんですけど?まずアリガトウじゃない?」 「お前が拾っていなくても俺が探せば見つかっていただろう。つまりお前に礼を言う必要は無いのだよ」 「ウケるんですけど何その理屈〜?あたしのこと舐めすぎじゃない?まあいーや」 緑間が失くしものを探そうと教室の扉を開けると、そこにいたのは向井一人だった。ちょうど緑間が探していたキーホルダーを、手元でぷらぷら揺らしていた。向井はキーホルダーを持っていない方の手で自分の鞄を引っ掴み、緑間のいる扉へと向かった。そろそろ帰ろうか、というタイミングだったのだ。正直、どういうタイミングで教室を出るべきか迷っていた。 「はい。このヘンなのよく見っけたじゃん?すごくない?ラッキーアイテムこれとかやばくない?」 「……ふん。これを落としたせいでさんざん面倒な目に遭ったからな」 「ふーん……で、さ!あのさ!廊下でチャンと高尾に会った?いた?どんな感じだった?」 「は?」 「いや、あたし高尾をめちゃくちゃかっこよく送り出しちゃってさ?もうこの流れで後ろから追いかけて展開盗み見るとかできなくない!?めちゃくちゃミスったわ〜エッじゃあもうちょっと経ってから教室出ないとかっこ悪いかな?とか?おもったりして?」 「……」 「ちょ、やっぱ緑間、一緒に様子見に行かない?」 「誰が行くか」 ラッキーアイテムが手に入ったのだからもうこの場には用が無い、とでも言うようにくるりと踵を返した緑間に、向井がついていく。横でぎゃーぎゃー騒いでいるが、緑間は無視して廊下を歩いた。 「いやー……大丈夫かな〜、チャンも高尾も」 「……」 「なんかあたしもさ、ここまで本気で応援したくなるとは思わなかったっていうか」 「……」 「いやも〜、うじうじーとかもだもだーとかされるとあたしの性格上うがー!ってなっちゃうんだけどさー。今日もなんか、うーん……余計なことしたかな?っていう気持ちがないわけでもないっていうかー…もっとこう、他にもあったかな?今日いきなりじゃなくてもうちょいじっくり、ゆっくり…いや十分ゆっくりやってたよね!?遅すぎるくらいじゃない!?ねえ、緑間!」 「知らん」 「は〜?ノリ悪いんですけど〜」 「だが、今日で正解なのだよ。お前は間違っていない」 緑間が視線をちっとも寄越さないせいで目は合わない。だが向井は、きょとんとした顔で緑間の横顔を見上げた。 「高尾は蠍座だからな」 「ふうん?それがなんか意味あんの?」 「ああ。今日のおは朝占いの1位は蠍座なのだよ」 |