倫理くんがいるから、なんて言ってくれたくせにさ。

「あーあ。さみしいな。ボクら、結構仲良くしてたと思ったんだけど。ひどいなあ。あんなに熱心だったのに、教えに背くことを選ぶんだね」

 大きなカバンを抱えたちゃんが、ボクを振り返る。その顔は、別人みたいに晴れやかだ。今まで見たどんな表情よりも(まあ泣き顔とか弱々しい笑顔しか思い出せないけど)、たくましさがあった。すっきり、何かを吹っ切った顔をしている。ボクの存在にだって、たいして驚かない。まるでボクがここに現れてこんな恨み言をいうのなんて予想通りだといわんばかりに。微笑んでいた。ボクも笑っているつもりだ。

「倫理くん、見送りにきてくれたの?」
「見送るさ。裏切り者一家の夜逃げ場面なんて、そうそう見れるものじゃないしね。バイバイ、ちゃん。せいぜい愛教会の影に怯えて遠い町でひっそり慎ましく生きるといいよ!」
「うん。そうするつもり。お母さんは心が弱いけど、これからは私が守っていくから」
「守るって?怪しい宗教にハマらないように?」
「うん」
「そりゃあいいね!オレオレ詐欺とかマルチ商法とかにも気を付けなよ。あのお母さん、すーぐ引っかかりそうだもん」
「ふふっ、そうだね。ありがとう、気を付けるね」
「ありがとうなんて言っていいの?ボクが今からキミたち一家を捕まえて裏切り者としてみんなの前に晒しちゃうかもよ?」
「そんなことしないくせに」

 ちゃんが笑う。「こうやって愛教会から脱会する糸口を裏で用意してくれたのは倫理くんでしょう」ああ、なんのことかなあ。ボクにはさーっぱりだ。ボクはにこにこ笑う。ちゃんも笑う。きれいな笑顔だ。ボクのとは違う。倫理くん、とその声で呼ぶ。きれいな声。キミに呼ばれると、きれいな名前に聞こえた。ボクの名前が。倫理くん。倫理くん、あのね。

「…あの、あのね…、一緒に、逃げない?」
「うひゃあ。まさかボクごときに駆け落ちのお誘いだなんて、本当キミってボクの予想の上をいくよねぇ」
「だって…」
「あはは!勘違いするなよ。見逃してあげる慈悲はあっても、ボクは優秀で立派な愛教の生徒であり教徒なんだ。言っていい冗談と悪い冗談があるんじゃない?」

 ちゃんの表情から笑顔が消える。怯えてくれたってよかったのに、悲しそうな表情だ。

「二度と会うことはないだろうし、会っちゃいけないんだよ。それがお互いのためだね。もし今後もボクとちゃんが秘密裏で仲良くなんてしてたら、キミのお母さんもボクのお母さんもショックで寝込んじゃうかもよ?」
「…そっか…そう、だよね…うん」
「わかってくれた?よかったぁ!じゃあそういうことで、今生の別れだね!来世ではちゃんと仲良くしようぜ!…あ、でも教えに反するわけだからキミは幸せな来世には行けないのかな?じゃあいつもの地獄で待ち合わせしよっか!」

 ぺらぺらと捲し立てるボクを、ちゃんはひどく優しい顔で見ていた。ああ、泣くかな?泣くのかな。なんて思ってたら、本当にちゃんの目から涙がこぼれた。ぽろぽろ、まるで、その水分から順番に、ちゃんという存在をつくっていたもの全部がぼろぼろに剥がれ落ちていくようで、ボクはガラにもなく息をのんで、いつもは饒舌なのにこの時ばかりは何も言えなくなって、思わず手を伸ばしていた。触れる直前にはっとして引っ込めようとしたのに、ちゃんが弱々しくその手を取った。初めて会ったあの日がフラッシュバック。あのときキミは果たして握手をしてくれたんだっけ。ああ、してくれたんだ。思い出した。

「ごめんね、倫理くん…ごめんね…、…ありがとう…」

 ばかだな、初めて会ったときから、キミはいつも泣いてばっかりだ。これからは、変わるかな。ボクの知らないところで、ボクの知らない友達を作って、ボクの知らない彼氏なんて作っちゃったりして。(ああ、それは、ちょっと腹が立つ)
 そうして、ボクの知らない笑顔で笑って、ボクの知らない「幸せ」を、しるんだ。ボクは、なんにも知らないまま、ここでその幸せを祈るんだ。

「…ちゃん、ホントは泣いてる顔のほうがかわいいんだよ」

 そんなのきっとボクしかしらない。一生、ボクだけが知っていればいい。知ってるの、ボクだけだと、いいなあ、一生。ちゃんが、涙をいっぱい溜めた瞳でボクを見る。その瞳に、ボクを映す。笑っているつもりだ。本当のところはどうだかしらないけど。倫理くん、と名前が呼ばれる。なあに、と無邪気に返すつもりが、なにも言えなかった。ボクなんかが相手役じゃ役不足だけど、まるで映画やドラマのワンシーンみたいだ。静かな時間が流れた。ねえ、キスのひとつでもしてハッピーエンドかな?

「私ね、倫理くんのこと、だいすきだった」

 ちゃんが静かに目を閉じたら、涙が一筋すうっと落ちていった。それがやけに綺麗で、自然に指で拭ってあげることができた自分はずいぶんな役者だと思った。一体どこの少女漫画が原作のつまらない実写映画だろう。ちゃんの顔が近づいてくる。だからボクは、目を閉じて、それから――目を開けて、両手でちゃんの口を塞いだ。
 びっくりして目を開けたちゃんに、にこにこ笑う。もごもご、ボクの手の下でちゃんの口が動いた。もうじゅうぶんだ。じゅうぶん、キミのきれいな声を聴いてきた。ボクごときにはもったいなさすぎる言葉だって聞けた。もう二度と、聞こえなくたっていいよ。さよならだ。

「キミの一番の不幸はそれだよ。ばいばい、ちゃん