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ねえ、前髪切ったら? 無心で野菜やカップ麺を右から左へピッピッとスキャンしていた私は、その言葉が自分に向けられたものだと気づくのに随分時間がかかった。ぴ、ぴ、と無言のままスキャンを続けて、沈黙が少しの間続いたあとに、ようやくハッとして、「え?」と顔を上げる。レジ業務というのはほぼ流れ作業で、加えて私は特に愛想がいいわけでもないので、客の顔なんて最初から最後まで見ずに終わることがしょっちゅうだ。そのせいで知人がやってきても全く気づかず、後々「お前なんでスルーなの?」といわれる。だから、今レジをやってる私に声を掛けたのは、自分の知っている人間だと思ったんだ。しかし顔を上げたときそこにいたのは、同級生でも親戚でも近所の人でもない。全く知らない。いや、何度か私のレジに並んだことがある人なのかもしれないけど、さっきも言ったように私は客の顔をいちいち覚えたりしないので。とにかく名前も知らない「誰か」だった。 「…えっと…」 「前髪。長いでしょ。切ったら?」 先ほど言ったことを繰り返すその人は、高校生の私とどう見たって歳が近いわけでもない、スーツ姿の男性だった。いや、スーツといったって何もピシッとしたものじゃなく、ネクタイは曲がってくたびれている。猫背気味のその見た目から、なんだかもう全体的にくたびれてるように感じるんだけど。愛想のいい他のバイト仲間がお客さんににこにこ話しかけられているのはよく見るけど、私は普段にこにこはきはきレジをやってるわけじゃないから、こんなふうに客に話しかけられるのは初めてだった。というか、客であろうとなかろうと、知らない人に髪を切れなんて言われたのは初めてだ。確かに最近前髪伸びてきて、ピンで留めるようにしてるけど。留めてるんだから、べつに不潔でもないし客に嫌な顔をされるもんでもないと思うのに。いや、相手は嫌な顔をしながらそう言ったわけでなく、あくまで、親しい友人が髪型について口を挟むのとなんら変わんないノリでそう言った。(知らない人なのに!)私は口元が引きつるのを感じながらも、さっさとこの客の会計を済ませようと、手を動かす。 「前までピンなんてしてなかったよね」 「(コイツ常連かよ…なんでそんなこと知ってんの…)そうですね、長いとちょっと邪魔ですし」 「スーパーの店員とかって髪くくってる子多いよね。ああ、まあ君もだけど」 後ろ髪は一つに結ってある。前髪もピンで留めてある。バイト用のスタイルだ。髪の毛が客のカゴに入ったりしたら文句言われそうだから、という私なりの気遣い。マナー。みだしなみ。…だから、口出しされる筋合いなんてないと思うのに。私はさっさと客の買う商品をカゴに移し終えて、合計金額を読み上げる。客は財布からお金を取り出しながら、まだ私に話しかけている。 「前髪下ろしてたほうが良かったよ」 は、と思わず声を出してしまいそうだった。けど、私はその「は?」を無理矢理に「ははは」と曖昧な笑いに変えて、客がトレイに広げたお札と硬貨を数える。「んー…良かった、ってのも変な言い方か」スーツの男は軽くうーむと首を捻ってから、へらりと笑った。いくつくらいなんだろう?三十路前…もっと若いんだろうか。20代、後半、前半。へらへらと笑ったままの相手を見つめ続け、ハッと我に返りお釣りを渡す。その手に硬貨を載せた直後、彼が小さく呟く。私にしか聞こえない声の大きさで。 「前髪下ろしてたほうが可愛かったよ?」 先ほどの言葉を、ほんの数文字変えただけ。なのに、私の顔が一瞬でぼんっと熱くなった。わけがわからない。名前も知らない相手にそんなことを言えるこの人もすごいけど、そんな人の言葉に照れている自分も自分だった。我ながらチョロい。彼はそんな私を見て、わざとらしく「ドーモ」と頭を下げて、レジを離れていった。しばらく呆然とする。「ー!レジ!お客さん詰まってる!」どこからか聞こえた同じバイトの花村の声でようやく我に返った。慌てて、待っていたお客さんに頭を下げる。 「い、いりゃっ…しゃいませ!」 さっきのスーツの男が、それを聞いてブフーッと笑った声が聞こえた気がしてそっちを睨もうとした、けど、目の前の客のレジ作業にいっぱいいっぱいで、そんな余裕は無かった。恥ずかしい。思いっきり噛んだ。悔しい。(なんだったんだあの客!) |