「足立くん、足立くん、向かい側座っていい?」

 視線は真っ直ぐノートに向かっていた。自分の書く文字はとても綺麗な字とは言えなかったけど、誰に見せるわけでもないので構わなかった。その文字をつらつら薄い紙に書き連ねていたシャーペンの芯が、ぼきりと折れる。理由なんて、たった今唐突に降ってきた声のせいに決まっていた。え、と驚いて顔を上げたら、尋ねたくせにこっちが許可を出す前から、一人の女子が目の前の席の椅子を引いていた。目が合うと、へらりと笑いかけてくる。同じクラスの女子。というか、中学も一緒だった。

「…はあ。どうぞ」

 べつに許可なんて要らなくない?図書室の椅子なんて、教室の椅子と違ってどれが誰のかなんて決まってないんだから。そう思いつつも言わなかった。何故って、周りを見れば他にも空いた席なんて沢山あって、普通はわざわざ他人の向かい側になんて座らないからだ。電車が空いてるなら隣の人とは一つ以上あけて座るのが暗黙のルールなのと同じ。他に席があるのにわざわざ俺の前にやってきたっていうことは、言葉を交わさない他人として目の前に座ったわけではなく、最初から俺と話そうっていうつもりで、席についた、ということ。「向かい側の席使ってもいい?」というよりも、「話しかけていい?」っていう確認に近いんだろう。予想通り、その人物はノートと教科書とワーク、ペンケースを机に置くなり、それらを開きもせず、まずは少し前のめりになって、話しかけてきた。

「足立くん、いっつも放課後図書室で勉強してるの?」
「…まあ。いっつもってわけじゃないけど、大体はね」
「ふーん?え、大体いるならソレ、いっつもって言うんじゃないの?」
「はは。…あー…そうかもねえ。そういう君は?どうしてここに?俺は“いっつも”図書室来てるけど、さんには初めて会ったよ」

 表面上だけは、アハハと笑いつつも、言葉には小さな棘を混ぜて、そう尋ねる。君、図書室で勉強するようなキャラじゃないでしょ、どういう風の吹き回しなの?って。教室じゃ、集団で固まってキャッキャうるさく笑ってるような連中の中の一人。授業が終わるなり集団でワイワイガヤガヤさっさと帰るタイプの女子。曲がりなりにも「進学校」を謳ってるウチにも、やっぱりそういうのはいるわけだ。とてもじゃないけど、放課後居残って図書室で勉強する姿なんて似合わない。俺の言葉に、彼女は額に手をあてて大袈裟に「あちゃあ〜」って芝居をして、口を尖らせて天井を仰いだ後、「いやいや、私だって勉強くらいするよ?受験生だし?」と言ってきた。直前までめちゃくちゃ「痛いとこ突かれた〜」みたいなジェスチャーしたくせに、なんなんだ。ギャグで言ってんの?とはいえ律儀にツッコんでやるほど暇じゃない。へえー、と気のない相槌を打って、俺はカチカチとシャーペンの芯を押し出す。

「それもそうか。俺ら受験生だもんねえ。センター試験も終わって、その結果が芳しくなかった奴が流石に焦り始める頃だよねえ」

 今まで勉強して来なかったツケが回ってきただけだっていうのに。今更、最後の悪足掻きをしようって?馬鹿馬鹿しいよね。今までさんざん遊んで過ごして来たのが悪いって言うのにさ。俺はべつに今更になって焦って図書室に通ってるわけじゃない。前々からの習慣だ。だというのに、この時期になってやたら図書室の利用者が増えた。悪足掻き連中。今まで図書室になんか来たこともなかったんじゃないかっていう連中が、受験勉強してるっぷりを味わいたくて馬鹿の一つ覚えのように図書室に足を運ぶ。複数人で来てる奴とか一番うざい。幸い目の前の女子は「複数人」ではないけれど、今まで見てなかった顔が図書室にやってくると、なんだか鼻で笑いたい気持ちになるんだ。俺の言葉にうぐっと身を引いたさんは、肩を落として大きく溜息を吐いた。

「ほんとその通りすぎて返す言葉も無いんだけどさ…さっきまでも私進路指導室に呼ばれてて…志望校どうすんのさーって言われてたところ。居残って先生と話してたら自分ヤバイな〜って思い始めたからさ、そうだ図書室で勉強しよう!ってここ来て…んで足立くん発見したのでとりあえずお向かいに座ってみた」
「いいサボり相手が見つかったって?話し相手いなきゃさすがに勉強しなきゃいけなくなるもんね」
「いやいや勉強したくなくてじゃなくってさ、せっかくだから一緒に勉強とか?したいなって?」
「教室じゃべつに話さないのにこういう時だけ話しかけてくるんだからそりゃあ疑いたくもなるよ」
「えっ…なになに?教室でも話しかけてほしいって!?」
「…はあ。都合良いよね、君って」

 思えば、彼女は中学の時もこんな感じだった気がする。一年の時だったか二年の時だったか、隣の席になった時、やけに話しかけてきた。くだらない雑談ばかりだったし、俺は適当に返事をするだけだったけど。親しくしたのは普段からってわけじゃなく、本当にその、隣の席だった期間だけ、だけど。席替えをしてからは接点も無かったし、同じ高校に進んだことも入学してから知った。高校で再び同じクラスになっても、特別親しくした思い出は無い。また席が隣になってたら、違ったかもしれない、けど。…いや、無いかな。俺は高校生になって以前より一層、他人と付き合わないようになったし。周りを馬鹿だとますます思うようになったし。対してさんは、逆。中学の時は二、三人で行動していた彼女が、高校に入ってからはクラスの中心の大所帯グループ…の、端っこに居座っていた。周囲に無理してくっついて歩いてる感じが、遠目に見ていてもなんだかイタイっていうか同情するっていうか、馬鹿みたいだなって思った。
 そんなわけで俺は多分、高校生になった彼女とあまり話したくはなかった。自分の嫌う「馬鹿な連中」の仲間入りをしている彼女を見るのが嫌だった。彼女もきっとそうだろう。中学の時の自身を知ってる俺の存在は面倒だっただろうし、友人に、勉強ばっかしてるぼっちくんと親しいところなんか教室で見せられなかっただろう。
 だけど今、彼女は俺に話しかけてきた。まともに会話したのなんていつ以来だろう。此処ではクラスメイトに見られることもないし、他に喋り相手もいないから、中学の時と変わらない馴れ馴れしさで、近寄ってきた。ホント、都合いいよなあ、って思う。だけどあの頃と変わらない適当さで会話のキャッチボールをしてしまう自分も、なんか、都合良くって笑えた。

「そりゃあさ、私も教室では毎日必死なわけだよ。高校受験の時めちゃくちゃ頑張って勉強して、この学校入ってさ、いざ入ってみたら中学の時の友達全然いないわけだから、一から友達作りしなくちゃで」
「ほんと、無理して周りに合わせてるのバレバレだけどね。俺にはそういうの分かんないな。一人のほうが気楽だと思うけど」
「女の子はねえ、そうも行かないんだよねえ」
「ふうん。志望校ちょっと落として、友達と同じ高校にすればよかったのに。俺は絶対しないけど」
「うーん…なんか周りの大人達に勿体無い勿体無いって言われて、結局頑張っちゃったんだよねえ…」
さん同じ高校だって知ってびっくりしたよ、俺」
「えへへ、でしょ〜?」

 へらりとだらしなく笑った彼女は、お世辞にも頭の出来が良さそうには見えない、馬鹿っぽい女の子。中学の時から馴れ馴れしくはあったけど、こんなだったっけ?ぼんやりそんなこと考えてたら、彼女がふっと表情を変えて、遠い目をしたまま窓の外を見やった。でもさあ、と何かを後悔しているような様子で。

「何が勿体無かったんだろうねえ…私友達作り下手でさ、結局、友達っていう友達も出来ず、なんか心から楽しめないまま高校生活ももうすぐ終わりでさ。こんな過ごし方した三年間こそ、勿体無い三年間だったなあ、って…」
「……」
「って、友達作んないで勉強しまくった足立くんに言うことじゃないかあ〜」
「ものすごくうざいこと言ってる自覚ある?」
「でも足立くんの選んだ道のほうが多分、正解だよなあ。私もせめて勉強くらい頑張ればよかったなあ。友達作りに必死過ぎて勉強なんか中途半端。でも友達作りも中途半端。なんか全部、だめなかんじ」
「…そうだね。勉強、すればよかったのに。馬鹿じゃないんだから。入学して最初のテスト、俺より上だったじゃん」
「……え、そうなの?」
「そうだよ」
「貼りだされた中から私の順位探したの?」
「……あ、あはははっ、いやあ、全然?偶然目について腹立ったから覚えてるだけだけど?」

 視線を逸らして眼鏡を無意味に押し上げて、誤魔化す。「どうでもいいけど、いい加減ノートくらい開いたら?」自分の言葉で、自分も気付いた。結局彼女がやってきてからずっと、手が止まって、べらべら喋っていた。ほんとただただ邪魔しに来ただけじゃないか、この人。「お喋りも、もうこっからは禁止ね」図書室内も、さっきまで俺たちの他にも雑談している集団がいたからまだ良かったものの、たった今そいつらが出て行くのを横目で見た。さすがに完全にしんとした中で、べらべら喋るのは居心地悪い。っていうか、それこそ俺の嫌いな馬鹿連中のよくやる迷惑行為だ。一緒になりたくない。さんはこくこくと頷くと、閉じていたノートを広げた。ちらりと見やれば、自分の字とは全然違う可愛らしい字で、全然違う綺麗なまとめ方をしたノートだった。へえ、ふうん、となんだかわけもなく品定めするようにソレと彼女を交互に見る。中学の時だって、彼女の字くらい、ノートくらい、見てたはずだけど、微妙に新鮮だ。

「足立くん、勉強教えてよ」
「…何が苦手なの」
「小論文」
「はあ。数学とかなら教えるけど」
「じゃあ数学で」
「“じゃあ”って。適当だなあ」
「ねえ足立くんはさ」

 黙って勉強できないらしい彼女は、向かいに座る俺と目を合わせて、図書室の長机にぐっと身を乗り出した。小声で、呟く。俺は仕方なく真似るように、身を乗り出す。ひそひそと話す彼女の息が耳に掛かった。

「将来の夢、なに?」
「…は?」
「夢」
「志望校どこ、じゃなくて?」
「うん、その先」

 その先。未来。将来。夢。なんだか希望に満ちた言葉のように聞こえて、むず痒い。そういう恥ずかしいこと語る人間って好きじゃない。べつに耳打ちで話すようなことでもないじゃないか。いやまあ、恥ずかしいことを言わせる自覚があるから、プライバシーを保護しようとしてくれたのかもしれないけど。俺は乗り出していた体を引っ込めて、わざとらしく肩を竦めた。

「さあ。公務員とか」
「役場の人とか?先生とか?前、親の付き添いで役場行ったけど、役場の人たちってなんか偉そうで私嫌い」
「なら自分がなればいいじゃない。偉そうな人間に。そうすれば自分は偉そうにされないし」
「もしかして足立くん、公務員になって偉そうにしたいの?私のような下々の者に対して?」
「そういうわけじゃないけど。でも親がうるさいしさ」
「公務員になれって?…ふーん…」

 シャーペンを握って、ノートに視線を落としたまま、彼女は黙りこむ。やがて彼女のペンがノートの上を走りだす。人に聞いといて、今の話題それで終わりかよ。そう思いつつも、静かに自分もやっと勉強を再開させた。数学を教えるタイミングも逃したな、とぼんやり思った。本気で俺に教えてもらうつもりなんかなかったのかもしれない。まあ、どうでもいいんだけど。静かに勉強しよう。そう思った直後に、ぽつりと目の前の人物が呟きを零した。

「理由はどうあれ、ぼんやりとでも、答えがあるのは羨ましいな」

 彼女は顔も上げずに、そう呟く。ペンを動かす手は止まらない。視線もノートから外さない。それでもきっと、彼女は頭の中で、難しい数学の問題よりも、苦手な小論文のことよりも、もっと大きくてどうしようもない問題の答えを探しているんだろうと、伝わってくる。周囲に「勿体無いから」と言われただけで三年前にこの学校へ進む道を選んで、結果的にそれを勿体無いことにしてしまった彼女は、きっとまたこの先の、勿体なくないものを、探してる。

「…さん」
「ん?」
「受かるといいね」

 見つかるといいね。勿体なくない、君の未来。将来。生き方。そんなふうに心の中だけで付け足しながら、自分も顔を上げずに手を動かすことにした。直前まで顔を上げなかった彼女が俺の言葉にパッと顔を上げたのは分かったけど、あえて、目を合わせなかった。しばらく彼女が俺の方を見ていることに気付きながらも、何も言わない。やがて彼女が少し照れたように、「ああ、ええと、うん、なんか、ありがとう…」ともごもご言いながら、時間でも確認したかったのか携帯電話を机の下で隠れるように開き、それから

「あっ!」
「…何」

 いきなり声を上げたので、俺も図書室にいる他の人間も思わずそっちを見てしまった。彼女が口を押さえて小さくなると、集まっていった視線はそれぞれ散らばっていったけど。なんなの、ってちょっと眉を顰めて彼女を睨んだら、目が合うなりハッと自分の鞄に手を伸ばし、がさがさ何かを探しだした。そのがさごその音すら静かな図書室には響くんだけど、彼女は構っていられないらしい。

「足立くん!」
「ちょっと、声抑えて…!」
「手、出して」

 はあ?と怪訝に思いながらも手を出したら、その手の中にころころと何かが降ってくる。可愛らしい包み紙の飴玉が、五、六粒くらい。こんな物渡すためにさっき間抜けな声を出したのかと思うと呆れる。呆れた。だけど、次に彼女に告げられた言葉に、不覚にも、心臓が跳ねた。

「誕生日でしょ。私、覚えてるよ。2月1日だったよね」

 「今、携帯で日付見て、あれっ!?って思っちゃった」――そう言って、にひ、と笑う。ぽかんとしたこちらに、得意気にさらに言う。「中学の文集に誕生日も書かされたでしょ、私足立くんのページもちゃんと読んでさ、誕生日、覚えやすくていいなーって、なんかすっごく覚えてるんだよね。って言ってもまあ、足立くんと話して、その上で日付見る今の今まで思い出さなかったんだから、“覚えてる”に入らないか!」なんて、笑ってた。俺は呆然と自分の手の中の飴玉を見て、はあ、とか、まあ、とか、間の抜けた返事をしていた。不意打ちだった。なんだよそれ、俺が、貼りだされたテストの順位にその名前を探すより、よっぽど、じゃんか。

「誕生日おめでと、足立くん。それと…きみも、受かるといいね。あと、夢叶うといいね。私もなんかこう、適当にがんばる!」

 きっと彼女が羨むような、希望に満ちた「夢」なんてものじゃないのに、彼女は俺にそう言った。それがなんだかむず痒いような、照れ臭いような、微妙にバツが悪いような、そんな気持ちにさせる。わざとそっけなく、「ああ、どーも」と呟いて、貰った飴玉を適当に制服のポケットの中へ突っ込んだ。そのまま、黙ってシャーペンを握り直す。彼女もノートに向き直った。そこからはお互い、無言で勉強してた。しばらく心臓が落ち着かなくて、ああ、厄介だなあ、単純だなあ、って自分に呆れた。ほんと、調子狂う。