二
「いいよー、織田作さん!風邪引かないし、一人で帰れるし、大丈夫!」
「何処からその『風邪を引かない』と云う自信が来るんだ」
「えっ何処だろう…足元から!」
「そうか」
「あっ!空から!?降ってきてる!?」
「そうか」
太宰を引き止めながら「織田作さん今の内に早く」と鋭い眼差しで云って寄越した安吾に見送られ酒場を後にし、タクシーを呼ぶために広い道へ出る。随分小雨になっていたが、まだ雨は完全には止んでいなかった。一応持っていた傘を差し、に入るよう促す。何処にでも売ってる安い雨傘を、何故か物珍しそうに見上げて、はにこにこ笑っていた。
「。家は遠いのか?」
「家?うん!すっごく遠い所!」
「…そうなのか…」
「此処よりずーっとずーっと遠く!歩いたらねえ、うーん…きっと一年くらい掛かる!」
「そうか」
恐らく嘘…と云うか、幼い子供特有の、「物事の測り方が判らなくて大袈裟に云ってしまう」というやつだろう。嘘を云っているつもりは無い。悪意の「あ」の字も知らない子供だ。私はの歩幅に合わせながら、彼女の表情を窺った。いつも通りの機嫌の良さだった。タクシーで家まで付き添ってやろうにも、本人が自分の家の住所を云えないのであれば運転手に頼みようがない。彼女は一体いつも何処から遣って来て何処へ帰っていくのだろう。毎度、酒場の帰りは我々三人が送ってやろうとしてもにこやかに断って、さっきまで居たかと思えばいつの間にか姿を消しているのだ。太宰は「謎の女だね」と茶化すが、深夜にこんな危なっかしい子供が一人で帰るのはいつも気掛かりだった。今日は珍しく逃げられずにその首根っこを掴まえる事が出来たので、この際だからきちんと聞いておくべきかもしれない。
「その家には誰と住んでいるんだ?」
「お母さん!」
「…そうか。其れは、善い事だな。母親は元気か?早く帰ってやらないと心配するだろう」
「んー、心配しないと思う!大丈夫!」
「……ん?まともに家に帰っていないのか?」
「うん!ずーっと帰ってない!」
眉を顰めた私に構わず、はいつも通りの調子だった。いまいち会話が噛み合っているのか噛み合っていないのか判らないが、つまり、先程云った「遠い所の家」とは母親の住んでいる実家の事で、普段帰っている場所は別にあると云う事だろうか。私が知りたいのはそちらの家なんだが。それとも、家に帰っていないと云うのは、その日暮らしで寝床を転々としているだとか、夜が明けるまでふらふらと街を彷徨っているだとか、そういう事だろうか。考えると居た堪れない。私は太宰や安吾の私生活を知らない。彼らも私の暮らしなど知らない。其れで善いと思っていた。素性を知らないままでも話が弾めば善いだろう、同じ酒を飲めれば善いだろう。それと同じ様に、この少女の事も、たまたま同じ軒下へ雨宿りに集った野良猫程度にしか考えていなかったのかもしれない。相手に深入りしない事に、何の疑問も抱いていなかった。けれど相手はだ。この、世間の悪意に流されようと其れが悪意だと絶対に気付かないような、純粋な子供だ。守ってやらないといけない、と云う焦りが、急激に私を責め始めた。
たとえ、“只の無邪気な子供”ではなく、“マフィアの首領に気に入られ可愛がられている子供”であっても、私にとっては、初めて顔を合わせた時から変わらず、放っておけない子供だった。
組織に出入りする事が理由で親元から離されているとしたら、悲しいものがある。私は黙りこんで、の事を見下ろしていた。私達の間にある傘を、然りげ無く、もっとの方へ傾けた。その直後、車のライトが闇を照らし、その光を指差してが飛び跳ねた。
「織田作さん!あれ?あの車?」
「ああ」
私の返事を聞くと、その車に向かってぶんぶんとが手を振った。静かに車が私との前で停まる。一応、ポートマフィア傘下のとある業者が経営しているタクシー会社の車だが、だからといって基本的には普通の、街中を走る其れと変わらない。
「運転手。極力濡れない様に配慮するが、雨に打たれてまだ服が乾いていない人間が居る。乗車して構わないだろうか」
「ええ、どうぞどうぞ。大変でしたねえ」
「助かる。…、マスターから何枚か借りたタオルが有るだろう。敷いてやるから貸してくれ」
「乗っていいの?」
「ああ。運転手から許可が下りたからな」
「何処まで行くの?」
タオルを受け取ろうとした自分の手が、ぴくりと震えた。私の事をじぃっと見つめている少女と、目を合わせる。「乗っていいのか」「一緒に行っていいのか」「一緒に連れて行ってくれるのか」
そう、その目が訊いていた。
「俺の家に来い」